日本人は怠惰である。勤勉ではない。
効率の悪い仕事だと分かっていても、意味のない書類だと分かっていても、意味のない会議だと分かっていても、怠惰だから改善しようという努力をしない。流れに任せて、ダラダラと仕事をし、ダラダラと書類を書き、会議でぼーっとしている。
日本人は怠惰である。だから、「できるための条件」ではなく、「できない理由」ばかりを思いつく。現状維持への重力に弱いのである。
仕事を効率よく進めようという努力を怠り、夜遅くまでダラッと職場に残っていても意に介さない。仕事を早く終わらせて帰宅したら、パートナーの話を聞いたり家事や育児をしなければならない。だらっと職場にいたほうが楽に決まっている。
「勤勉な」例外的日本人は、例えばサッカー選手でいえば本田や遠藤である。彼らは常に努力している。自分が変わるための。でも、多くの人たちは指導者のいうままに、何百回も同じようなシュート練習を繰り返すのである。その練習が目的化し、ゴールにより近づくための努力と工夫を怠るのである。日本人はいろいろと怠惰だが、とくにこの「思考の怠惰=思考停止」は深刻な問題だ。
外国からなんらかのコンセプトを輸入する際も、多くは「そのまんま」輸入しようとする。怠惰だからだ。あるいはろくに見もしないで全否定する「ここは日本だ、アメリカじゃない」とか一言で片付けてしまう。怠惰だからだ。外的なコンセプトを咀嚼し、葛藤し、苦悩し、消化しようという努力はそこには見られない。70年代の日本の書物にはやたら「弁証法」という言葉がでてきてぼくらを驚かせるが、本当の意味での弁証法がそこで実践されている気配は、あまりない。
日本の学生は怠惰である。特に優等生は怠惰である。日本の優等生は、平凡な学生なら10の努力でするところを8の努力でできてしまう、そういうショートカットの能力が高い学生だ。だから、10の努力でいけるところを、100の逡巡を持つ奴は「バカ」と片付けられる。10の努力でいけそうなところを、あえて100の逡巡を得た場合に得られる本当の知にはたどり着けない。だから、そういう優等生は賢しらにショートカットの連続でスイスイと生きていくんだけど、さらに深い知の領域には決して立ち入ろうとはしない。怠惰だからだ。
日本人は外国語の習得が苦手といわれる。半分は間違いだと思うが、半分は本当だ。なぜ、日本人は英語が苦手なのか。先天的な知性の欠如のためではない。シンプルに、努力が足りないからである。即物的な成果(テスト)のレベルまでしか努力しないからである。語学の習得は、まさに10でできそうなところを100の努力と逡巡で獲得するようなサブジェクトなのである(一部の例外的天才を除く)。
アメリカの学生にもこういうところがあって、ぼくはこのへん、いつもヨーロッパの学生とは違うなあ、と感じている。ま、程度問題ではあるけれど。アメリカ人もショートカットが大好きで、いかに8の努力で10のアウトカムをあげるかに血道を上げる。日本でいう「病気が見える」とか「イヤーノート」的なアンチョコは、アメリカのほうがよくできている。オクラホマノートやファーストエイド、ワシントンマニュアルやポケットメディシンなどは、みなこの「ショートカット」のツールである。スマートフォンやUpToDate的ツールがそのショートカットに拍車をかける。ハリソンやセシルを図書館で読み込むアメリカの医学生や研修医は少数派に属する。イラクやシリアやカンボジアの医学生がハリソンを熟読しているのとは対照的である。
ただし、アメリカ人は自らの怠惰さに自覚的である。だから、努力と成果にインセンティブを設けている。頑張った人が報われるシステムを作っている。昔はプロテスタント的、宗教的に勤勉さを美徳として勤勉さを要求したが、宗教は現代のアメリカ人を(あまり)魅了しない。だから、金だ。努力した人ほど金銭的な見返りが大きくなるシステムにしている。
もっとも、努力が報われる保証はない。そこには能力や運やコネやあれやこれやも必要となるからだ。努力しても成果に結びつかない人もでてくる。努力しない人はもちろん、成果とは無縁だ。かくしてアメリカの格差社会が成立するのである。
日本では、努力は報われない。もともと日本人は勤勉である、という幻想が前提になっているからだ。だから、ブラック企業は横行するし、それに対する対策もうまくいかない。努力しても報われないことが遍在的なので、アメリカ人ならぶち切れてしまうような事態でもおとなしく納得してしまう。これも怠惰のなせる業である。もともと怠惰な上に、努力へのインセンティブがないわけだから、日本人はますます怠惰になるのである。
日本人は怠惰である。だから、コミュニケーションが苦手である。ここでいうコミュニケーションとは、鷲田清一さんのいう、「コミュニケーションの後で自分が変わる覚悟ができているような」やり方でのコミュニケーションである。自分が変わるためには勇気と努力を必要とする。これまでの世界観や価値観を一度壊すのは面倒だからだ。だから、多くの日本人はコミュニケーションをとらない。あるのはただ、自説を雄弁に主張するか、空気作りだけである。ここでもアメリカ人もまた、コミュニケーションは苦手である。アメリカ人は空気作りの努力すらせず、やはり雄弁に自説を主張する。「自らが変わる覚悟」をもってコミュニケーションに望むアメリカ人は少数派に属する。
問題なのは、「日本人が怠惰である」という事実「そのもの」ではない。怠惰そのものが絶対的に悪いとはぼくは思わない。この長寿社会で、怠惰にデカダンスに生きるというのも一つの選択肢である。しかし、深刻なのは、こんなに日本人は怠惰なのに、「自分たちは勤勉である」という幻想がはびこっていることである。怠惰であるという自覚だけが、(本質的な、、、アメリカ的金銭のインセンティブとは無関係な、、、)努力への萌芽だというのに。
ぼくも怠惰な日本人である。ただし、自分の怠惰さには徹底的に自覚的でありたいとは思っている。本当の意味での努力をしたいと、もがいてもいる。100の努力ができればいいなとも思っている。思っている、ということは、まだできていない、ということであるけれども。
日本人は怠惰である。だが、もちろんこれが説明の全てではない。全てを「怠惰さ」に換言してしまうようなシンプルな説明をしようとしているわけではない。問題はもっと深刻である。しかし、少なくとも「おれたちは、怠惰だ」という気づきがないかぎり、その先へは一歩も進めない。だから、まずは気づくべきだ。自分の固定観念を変えるべきだ。「日本人は勤勉だ」から「俺たちは怠惰だ」に。そこから、新たな一歩前進が始まるのである。
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