これも今書いている本の一部です。長いです。
今はどうなっているかは分からないのですが、そういえばぼくが米国のニューヨーク市で研修医をしていたときには、 開業医が病院でも主治医をやる、というシステムを取っていました。かかりつけの患者さんが何かの理由で入院すると、その開業医が主治医となる。その場合は「プライベート患者」という枠組みになり、ぼくら研修医はその医師の指示に従って検査や治療を遂行するのでした。
ぼくが勤務していたセントルークス・ルーズベルト病院では、そういうプライベート・プラクティスの患者さんも概ね、問題なく診療できていました。しかし、なかには明らかに入院診療に慣れていない医師もいて、そういう医師の指示は非効率だったり、最新のエビデンスから外れていた非科学的なものだったりして、研修医の評判はよくありませんでした。「おれ、またドクターAのプライベート患者もっちゃったよ。変なオーダーばかりでフラストレーション貯まるんだよなー」とぼやきあったりしたものです。
マンハッタンのプライベート・プラクティスならば、入院させる病院も近くにあるので、外来診療後にちょっと車を飛ばしたり、タクシーに乗ればすぐに病院に到着できます。そこで患者を診たり、カルテを書いたりするわけですが、ケアの継続性が維持できていて、良いシステムだな、と思うところもありました。
一方、他の州で診療する知人などは結構大変だったりしたようです。例えば、最寄りの病院が150kmくらい離れたところにあったりすると、入院患者を診るために毎日その病院まで通うのは容易なことではありません。米国はとても広いですし、日本のようにたくさん病院があるわけではありませんから、こういうことは往々にして起きるのです。
例によってOECDのデータを参照しますが、米国では人口100万人あたりの病院数は18.55です(2019年)。同年の日本が65.79ですから、いかに日本では病院の数が多いか、米国では病院の数が少ないかが分かります。
https://stats.oecd.org/index.aspx?queryid=30182
しかし、COVID-19のパンデミックが明らかにしたように、日本の病院は数こそ多いものの、機能という意味においてはキャパシティを担保していなかったりします。発熱患者、コロナ患者は受け入れない病院のいかに多いことか。ことほどさように、日本の病院の数はとても多いのですが、できないことも多いのです。日本の場合、入院期間が長いこともあって、病院が米国ほど急性期の機能を備えていないという側面もあると思います。
まあ、それはさておき。米国の開業医が病院での主治医を行うというのは、患者サイドからみた「ケアの継続性」という観点からは素晴らしいものだと思います。一方、これは場所によっては医師の負担が非常に増えますし、労働効率性という観点からはとても効率が悪いですね。あと、入院診療に慣れていない開業医がために入院患者をケアすると、ケアの質の問題に繋がります。
さて、21世紀になって、米国では入院患者を診ることを専門にするホスピタリスト(hospitalist)というコンセプトが導入され、人気になってきました。ホスピタリストは1996年に導入されたそうなので、ぼくが研修医になる数年前だったのですね(1998年)。その後、ホスピタリストは増え続け、米国には6万人近くのホスピタリストがいて、病院の75%はホスピタリストを雇用しているのだとか。
eCareers H. The Rise of Hospitalists — And What Comes Next [Internet]. healthecareers.com. [cited 2022 Jul 19]. Available from: https://www.healthecareers.com/articles/healthcare-news/the-rise-of-hospitalists
ホスピタリストと非ホスピタリストで、診療の質はどちらが高いのか。たくさんの研究がありますが、両者の明確な差は確認されていないようです。例えば、最近では高齢者などのメディケアという医療保険に加入している患者において、医療費や死亡率には両群に差は認められませんでした。
Ryskina KL, Yuan Y, Polsky D, Werner RM. Hospitalist Vs. Non-Hospitalist Care Outcomes and Costs for Medicare Beneficiaries Discharged to Skilled Nursing Facilities in 2012–2014. J Gen Intern Med. 2020 Jan;35(1):214–9.
いずれにしても、ホスピタリストの存在は、外来や在宅診療での「主治医」と病院治療の「分業」を意味していると思います。一種のチーム医療のチームの一形態ですね。
日本では開業医が病院で主治医になることはあまりないと思います。病院の「主治医」と外来の「主治医」は同一の人物のこともあれば、別の人物ということもあります。が、「主治医」というコンセプトそのものは病院内外で強く残っています。
ぼくも日本で研修医をしていたときは、「医者は主治医観が大事だ」と指導医に何度も教わりました。
辞書によると、「主治医」とは「主となって治療を受け持つ医者。また、かかりつけの医者」と書かれています(精選版 日本国語大辞典 小学館 2006)。同書によると、尾崎紅葉の「金色夜叉」にも「主治医」という言葉が使われており、明治時代からこの言葉は広く使われていたことが推察できます。
病院における主治医は、必ずしも外来のかかりつけ医ではありません。ただ、いったん、主治医を引き受けたらその患者のケアはヒャクパー主治医が意思決定し、そして決断し、そして責任を取る、となります。これが、ぼくが教わった「主治医観」です。
「主治医観」をしっかりもった主治医は、入院患者のケアについていつでもどこでも責任を持って対応しなければなりません。夜中や休日でも病棟からの呼び出しには対応しなければなりませんし、患者や家族からの問い合わせにも答えなければなりません。気持ちの休まる時間はまったくないのです。
入院患者のケアだけではありません。ぼくが知る多くの開業医が、同様に強い「主治医観」をもって、1日24時間、1年365日、患者の問い合わせや急な症状などに対応しています。それこそ気の休まるときは全くありませんし、携帯の電波が届かないところにもいけません。お酒も飲めず、睡眠時間は削られ、家族の負担も相当に大きくなります。
ぼく自身、かつてはこのような「主治医観」を美しいものだと思っていました。主治医たるもの、患者の健康と安全には100%の責任を取らねばならない。いつだってどこでだって、自分の患者のピンチのときには駆けつける。そういう態度を保とうと思っていました。
すぐに無理だと気づきました。
まずは、出張。新型コロナで激減しましたが、出張しているときには主治医のぼくはほとんど対応できません。患者さんからのメールがあっても「容態が悪ければ、救急外来に行ってください」みたいな対応になりがちです。海外出張ともなればなおさらです。最近は飛行機内でもネットが通じるようになりましたが、ちょっと前までは機内ではネットが通じませんでした。長いフライト時間内ではぼくはまったく患者の問い合わせに対応できません。
ぼくだけではありません。強固な「主治医観」論を主張する人でも、出張のときには全く対応できていないのが分かります。これまで、学会発表やシンポジウムのときに「自分の患者が困っているので、申し訳ないけど中座します」と席を立つ人を見たことがありません。自治体や国の会議、教授会とかでもそうですね。まあ、電話がかかってきて電話対応くらいはするかもしれませんが(ぼくもします)。
感染症内科は他科からのコンサルトが多く、病院内での仕事はほとんど「主治医」ではなく、「コンサルタント」としての仕事です。感染症を合併していそうな患者の相談などを受ける時、「この患者さんではこういう検査を提案します」とか「この治療ではいかがでしょう」と回答するのですが、そのとき「主治医がいないので対応できません」と言われることが多々あります。本当に多いです。
主治医、なにしてるの?と思いきや、「今、外勤(外の病院でバイト)です」とか「今週は学会でいません」とか、そういう回答が病棟当番の研修医から返ってきます。でも、感染症の急ぎの対応だから、返ってくるまで待っているわけには生きません。では、連絡してください、と言うと「それはちょっと、、、」といかにも嫌そうな返事。外出先に連絡したりすると、主治医がすごく嫌な顔をするんですって。
もちろん、今日、どの医者だって携帯電話くらいは持っています。外勤先の病院であろうが、出張先であろうが、患者の急変に対応するために意思決定が必要ならば、電話をして確認すればいいだけの話です。ぼくだったら、ぜひ電話で確認してほしいです。自分の患者、心配ですから。
ところが、主治医に電話、を嫌がる当番医はとても多い。じゃ、その当番医が責任をとって意思決定してくれるかというと、それはしてくれない。「ぼくは主治医じゃないので」と言われます。
なんだ、つまるところ、「主治医観」とか偉そうなことをいっても、それは恣意的に都合良く使われてる言葉に過ぎず、患者のケアの質に寄与してないじゃないか。この手の事例があまりに多いことに気づいたぼくは、「主治医観」といういかにも正しい概念っぽい言葉の欺瞞に気づいたのでした。
百歩譲って、外のバイト先が目が回るくらい忙しいバイト先で、1分1秒の電話の対応時間もない、という医者がいたとしましょう。しかし、そのようなバイトをしながら病棟の患者の「主治医」もやる、と決めた以上、その労働形態のリスクについてはちゃんと理解しておくべきです。病棟の患者が急変した時、意思決定できる人が誰ひとりいない、では困ります。「いざとなったら、俺は忙しすぎて電話に出れないかもしれない。そのときは、お前が意思決定しろ。俺が責任を取る」。これが本当の「主治医観」ではないでしょうか。
いや、多くの場合、大学病院の勤務医のバイト先は、わりと緩やかで自由時間もあったりします(例外は多々あるでしょうが)。それでも電話されたくないのは、せっかく院外にいるのだから、病棟のことで俺様の邪魔をしないでくれ、という俺様心だったりするわけです。だったら、病棟当番に意思決定を任せるかといいえば、それはしない。「何かあったら誰が責任を取るんだ」というわけで、責任を取る度量はない。けれども、いちいち煩わしいことに巻き込まれたくない、わけで、これじゃ「主治医観」の理念が泣いているわけです。
もちろん、こんな「なんちゃって」な主治医観の持ち主ばかりではありません。いつでもどこでも、誠実に患者対応をする模範的な主治医だってたくさんいます。日本にはとくに多いと思っています。
それとて、問題がないわけではありません。
一つには、その主治医の生活の質(QOL)が下がってしまいます。まあ、「QOLくらいなんだ。患者のために私生活を犠牲にできなくて、なにが主治医だ」という覚悟をお持ちの方も多いとも思います。しかし、その一方で、そういうしわ寄せは家族に向かっていく事実にも自覚的でなければいけません。結局、患者ケアに費やされる膨大なエネルギーと時間は、家事や育児などを全部パートナーにお任せ、な構造でしかなしえなかったりするからです。
それに、いくら本人はそれでよいと思っていても、QOLがだだ下がりした主治医は、医師としても十分に機能できない可能性があります。一つは睡眠不足。これが判断力の低下やミスを惹起しかねません。あとはコミュニケーションの問題。患者に全身全霊打ち込む主治医は、それだけ患者のために頑張っているんだ、という強い自負を持ちがちです。それはまあ、いいのですが、ときにそれが周囲の医療者に対して狭量になってしまいがちな空気を作ってしまいます。看護師など、他の医療者が「〇〇さんにはこうしたほうがいいのでは」と提案しても、「何を言うか。おれが主治医なんだ。文句あるか」となってしまうのです。もちろん、主治医だから必ずしも正しい判断ができるという保証はありません。他の医療者の意見に耳を傾けなくなると、診療の判断そのものを間違えかねません。
前述のように、ぼくら感染症医は主治医というよりも、コンサルタントとして機能することが多いです。内科系でも外科系でも、感染症のプロが参加したら、感染症の診断、治療、予防に専門性が生じるので、自分の患者のアウトカムが改善する可能性は当然高まります。なので、長くぼくらのサービスを利用してくださっている主治医の先生方は「熱が出たので、感染症内科、診てください」とすぐに呼んでくださいます。
が、大学病院は人の入れ替わりが激しいので、着任直後で、まだ我々の存在を認知していない医師もおいでです。感染症内科が「この広域抗菌薬だと薬剤耐性菌や合併症の懸念があるので、もう少し狭い抗菌薬をご提案します」と申し上げると、気色ばんで「お前たちは主治医じゃないから、そういう無責任なことを言うんだ。何かあったら、誰が責任を取るんだ。ここはメ○ペンじゃなきゃだめだ」とお叱りを受けることもあります。
もちろん、コンサルタントであろうと、患者のアウトカムには責任を取ります。プロですから。ですが、このような「主治医観」が強く出すぎてしまう医師にありがちなのが、「主治医こそが患者の責任を取る。他の医療者は所詮、患者については無責任なものだ」という観念です。だから、自分以外の医療者の意見に耳を傾けることができない。
しかし、すべての領域においてトップクラスの知識や経験、技術を持つことはどんな天才医師であってもできないことです。ぼくたちも、ゴッドハンドと呼ばれる天才外科医や、その領域では知らない人はいない、超有名な専門医たちとお仕事をさせていただいています。が、そういう「天才」と呼ばれる医師たちでも、感染防御や診断、治療については研修医レベルの知識もない、ほとんど素人だったりすることは珍しくありません。まあ、その領域を極めた医師であれば、他の領域に注力する余裕がないのはむしろ当然とも言えるわけでして。
でも、このような歪んた形の「主治医観」を形成してきたのは、主治医のせいばかりとは言えません。むしろ、コンサルタントのほうにも反省すべき点は多いとぼくは思います。
米国のコンサルタントに比べ、日本のコンサルタントはとてもやっつけ仕事が多くてびっくりします。場合によっては患者すら診ないコンサルタントも多いです。CTの画像だけ見て、「これは間質性肺炎だと思いますけど、念の為メ○ペンも投与しといたらどうですか」みたいな、テキトーなコメントを残すコンサルタントのなんと多いことか。なるほど、こんな雑なコンサルタント業務を目にしていたら、「やっぱり信用できるのは主治医だけ。所詮、コンサルタントは、自分の患者以外はちゃんと診てくれない」と言われても仕方ありません。
そう、これって同じ問題の裏表の関係にあるのです。
主治医は、全身全霊をかけて自分の患者のケアに邁進します。そのことが皮肉にも、他科から受けた相談に対して、冷淡にさせるのです。「あの患者は俺が主治医じゃないからな」と手を抜き、やっつけ仕事をするのです。自分が主治医を担当している患者のようにきちんと診ないのです。それを受けて、相手方の主治医は「やっぱりコンサルタントはちゃんと患者診てくれないな。最後は主治医の自分がしっかり責任を取らなきゃな」とコンサルタントを軽蔑するようになります。こうして、脳内の観念的な「主治医観」はますます膨張していくのです。
繰り返しますが、患者のアウトカムに責任を持つ「主治医観」は美しい理念です。が、ここまで説明してきたとおり、その主治医観という観念が美しいがゆえに、ピットフォールも多々あります。ここが悩ましいところです。
なので、極論を申し上げます。ぼくは「主治医観」というものはもはや、消失しなければならない概念だと思っています。「消失」という言葉が厳しいのであれば、「昇華」すべき概念だと言うべきでしょうか。
それこそが、「チーム医療」です。チーム医療は個人プレーの「主治医観」よりも上位の概念として、「チームで患者のアウトカムに責任を取るプロフェッショナリズム」という構造を持ちます。
この場合、チームの構成員が主治医か、主治医でないかは関係ありません。全てのチームの構成員が患者のアウトカムに十分に責任を持っています。もちろん、ケアのリーダーは主治医であり、チームを統括したり、調整したりする機能を持っています。が、主治医とそれ以外の医療者には上下関係や、責任の多寡はありません。主治医に意見があれば他の構成員は意見を言ってもよいですし、言うべきです。
コンサルタントが当該患者のケアに参与する場合は、手抜きは許されません。全力で自分の専門性を活用して患者のアウトカムに寄与しなければなりません。「自分は主治医じゃないから、適当なコメントでいいや」とか「あの主治医はメ○ペンが大好きだから、そこは忖度して主治医の気分がよくなるようなコメントでお茶を濁してやろう」といった、非プロフェッショナルな態度をとってはいけません。
もちろん、コンサルタントが「責任を持って仕事をする」というのは、チームの「ブラック企業化」を意味しているわけではありません。コンサルタントは患者のアウトカムに寄与すべきですが、逆に言えば、患者のアウトカムと関係ないところにまでエネルギーを消耗すべきではありません。
例えば、ぼくらがある患者について相談を受け、診断をつけ、治療はこういう薬を○週間、と推奨したとします。患者は容態が改善しており、あとは治療を完遂するだけです。この場合、ぼくらは「では、なにかご不明な点があったり、患者の容態に予期せぬ変化があった場合はまた呼んでください」とフォローを終了します。
ここで、ときどき絡んでくる主治医がいて、「感染症内科は治療に参加したんだから、感染症の治療が終了するまで毎日患者を見に来るべきだ」とおっしゃる方がおいでです。もちろん、人員に十分な余力があり、サポートしている患者数が少ない場合はそれも一つのやり方でしょう。しかし、現実には診なければいけない患者数は多く、人員には余裕がありません。患者のアウトカムを十分に予見できるまでサポートしたら、あとは不測の事態に備えることで十分に生産的な仕事はできていると思います。実際、その後、別の感染症を起こして再度、ご相談を受けることもしばしばです。
もちろん、相談を受けた場合、患者が改善していることを確認したりするのは当然です。が、最後まで主治医と伴走してついていくのは生産的とは言えません。その主治医だって、患者が退院した後は、自分の外来でフォローしないこともしばしばあるのです。そのときは外来担当の開業医にケアをバトンタッチするのです。これこそがチーム医療であり、チームとして有機的にケアが継続されていれば、「一人の人物」がずっと継続して患者をケアし続ける必要はありません。
「ケアの継続性」はとても重要なコンセプトで、特にプライマリ・ケアの領域においては重要視されます。実際にはプライマリ・ケア以外の領域でも重要な概念だとぼくは思います。しかし、「継続性」とは一人の人物(主治医)が継続してその患者をケアしていくこととは限りません。というか、そんなこと、誰にも保証できないじゃないですか。主治医にも引っ越しや転勤もあるかもしれないし、その医療機関をクビになる可能性だってありますし、病気になったり死んだりすることもあります。ある人物の属人性に依存した「継続性」は脆弱ですし、時代遅れでもあります。「継続性」もチームによって確保されねばならないのです。
「僻地医療」においても、人材確保は重要です。よって、週末や休日は他の医師がカバーに行ったり、学会参加などの勉強の機会が確保されていなければなりません。死ぬまでその地にいなければならない、は多くの医師にとっては重圧ですし、家族をもっていたり、進学を控えた子供を持つ若手医師にとっては特に重圧です。このような属人的な「継続性」を強制したら、結局の所、断念、立ち去りという現象が一定の頻度で起きますし、それでは「継続性」そのものが破綻します。
だから、「継続性」は属人的な「主治医観」ではなく、システムによって保証されねばならないのです。在宅診療などもグループ化されてきています。属人的な頑張りは美しいですが、それを根拠に「継続性」を担保するのは危険です。
「主治医観」は要らないと言いましたが、プロフェッショナリズムは絶対に必要です。主治医であろうとなかろうと、患者のアウトカムには責任を持たねばなりません。主治医であっても他の医療者にぞんざいな口のきき方をしてはいけませんし、コンサルタントを卑下してもいけません。そういうのも含めて「プロフェッショナリズム」です。
繰り返します。主治医はチーム医療のリーダーであり、一構成員です。それ以上でもそれ以下でもありません。なのに、他の職種も「主治医だったらなんとかしろ」と主治医に過度な、スーパーヒーローとしての役割を要求します。主治医だったら患者についての全ての問題を解決せねばならないのです。
あるとき、うちの科で担当していた患者が病棟で暴れだしたことがありました。そのトラブルについてぼくはあとになって報告を受けたのですが、そのとき病棟の看護師長から苦言を呈されました。
「先生の科のA先生、主治医のくせに、患者が暴れていても、全然止めてくれなかったんですよ」
ぼくは反論しました。
「それは違います。主治医、、、いや、そもそも医師は暴力に対抗する能力なんて持っていません。暴力をふるう患者がいたら、医療者は普通に逃げるべきです。そういういときのために警備員がいるんでしょう」
「岩田先生は理屈っぽいからそういうことをおっしゃいますが、普通、主治医だったら暴れる患者を抑えたりするでしょう」
「ご指摘のようにぼくは理屈っぽいですし、加えて日本の医療現場の「普通」をよく理解していなかったりしますが、「普通」がなんであれ、とにかく医師は護身術だの、それ以外の格闘技だのの能力を持っていません。暴れる患者に立ち向かっていって、抑えつける能力は担保されていませんし、それは職能でも職責でもありません。暴力に対抗すべきは、暴力に対抗する職能と職責が与えられている、警備員です」
もっとも、日本は平和な国なので、アメリカみたいに警備員が筋肉ムキムキで手錠と拳銃を持ってて、戦闘格闘の能力を備えていないことも多いんですけどね。
とはいえ、いずれにしても主治医に「暴力」の対応をさせることは理不尽です。看護師や薬剤師など、他の医療者についても同様で、患者や家族が暴れたら、逃げて、自らの安全を確保して、警備か警察を呼ぶべきです。可能であれば他の患者の安全も確保すべく逃がすべきですが。
ちなみにですが、米国の病院の警備員は本当に屈強です。ぼくは一度、警備員が患者を持ち上げて、病院の門から放り出すのをみたことがあります。この患者は医療保険もお金もない患者さんで、診療を拒否されたのにも関わらず、病院でのケアを執拗に要求したのでした。米国は基本的に契約社会でして、病院と患者の関係も契約関係です。診療費の支払い能力もなく、医療保険もない患者について、病院は患者へのケアを提供する責任を持ちません。それを強要する「理不尽な」患者については、警備員に放り出されても仕方がない、という理屈です。たとえ支払い能力がないと分かっている患者であっても、それでも医療が提供される日本の医療機関とは全然、考え方が違うのです。そっちのほうがよいとは少しも思っていませんが。
いずれにしても、主治医観とは、主治医自身の責任感と、周囲の過度な期待があいまって作り出した、一つのモデルです。それは昭和な労働体系では、そこそこうまく機能していました。しかし、医学が進歩し、一人の医療者がすべての医療面で高い質を担保できなくなった令和の現在、主治医に全部押し付ける属人的なモデルは明らかに時代遅れです。主治医は幻想的な主治医観の重圧から開放されるべきですし、周りもそれを要求してはいけないのです。これこそが、「働き方改革」のひとつの形です。
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