福岡放送のテレビ番組に本日出るが、昨日、その打ち合わせでいろいろお話した。自分の思考を整理するためにも、そのときのコメントをここにまとめておく。もちろん、すべて私見である。なお、これはあくまでも自分のためのメモなので、専門用語などは詳しく説明していない。不明な用語その他は各自ググっていただきたい。
新型コロナを感染症法の2類相当(実際には新型インフルエンザ等感染症)から5類にすべきか、という質問をしばしば受ける。そのたびに、「そこはさしたる問題ではない」とお答えしている。
そもそも、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(いわゆる感染症法)が施行された1999年から、僕はこの法律に大いに不満だった。この法律は新たに勃発する感染症が国を脅かした場合にいかに封じ込めるか、という「感染管理」と、過去に大きな人権侵害をもたらしたエイズやハンセン病といった「人権」問題のバランスをとるために作られた法律だ(と僕は考える)。軸となるのは「隔離」と「人権」のバランスであり、ほとんど、そこしかない。例えば、個々の患者のケアという観点はほとんどない。
感染症法ができた当時は今と異なり、「2類」感染症は消化器由来の感染症だった。2類感染症は指定医療機関に入院するのだが、当時、ぼくが勤務していた病院付近の指定医療機関には感染症の専門家はおらず、治療のスペックも乏しかった。隔離するための「箱」たる病室しかなかったのだ。だから、例えば腸チフス患者を診断したときも、「患者の状態が安定していない」という理由で指定医療機関には搬送せず、そのまま自施設で治療していた。そもそも腸チフス、隔離とか必要ないし。医療機関を指定し、「箱」を用意し、予算を当てれば感染対策になる、という当時の厚労省官僚たちの臨床感染症に対する無理解がここにある。
2014年に世界中でエボラの驚異が叫ばれたとき、患者を入院させるはずの「その」1類指定医療機関にはたいそうな予算をかけた指定病棟、指定病室があった。患者を病室に送るための専用のエレベータがあり、そのエレベーターにも陰圧がかかるようになっていた(!)。そんな大掛かりな「箱」はあるのだが、感染症に詳しい常勤医はいなかった。そもそも、エボラ診療にはかなり高度な集中治療が必要になるのだが、その「箱」には人工呼吸器を入れるとか、透析をするとか、そういう前提をまるで無視したただの陰圧がかかるだけの「箱」だった。ポール・ファーマーが指摘する、「ケアよりも管理」の精神であり、これではエボラが本当にやってきたら大変だな、と思ったものだ。
感染症法の「新型インフルエンザ等感染症」は「新型インフルエンザのように国民が免疫を獲得しておらず、急速に全国的に蔓延し、国民の生命・健康に重大な被害をおよぼす場合」に分類される。が、指定医療機関がいっぱいになり、入院どころか病院受診すらできなくなるほど患者が急増した場合、のような想定がまるでなかった。いわゆるプランBの欠如である。新型コロナでも結局は「新型インフルエンザ(これは2009年に来たやつじゃなくて、死亡率2%くらいの本当に怖いやつだ)」モードの対応では対応しきれなくなり、宿泊施設での療養が許容され、自宅での療養が余儀なくされた。もはや、2類か5類かはどっちでもよい、というのはそのためだ。
でも、5類にしないと保健所の業務が大きすぎて、、、という反論もある。保健所の業務が大きすぎるのは単純にデータマネジメントの問題であり、これもまた2類か5類かの話ではない。例えば、「梅毒」は5類感染症だが、未だに紙で届け出を「FAXで」送り、それについて保健所が「電話で」主治医に問い合わせしてくる、という昔ながらの方法で対応がされている。主治医は面倒くさかったり、忙しかったりして、しばしばその報告を怠ってしまう。だから、「梅毒」の実態を知るには感染症法ではなく、むしろレセプトデータを活用したほうがその実態を理解しやすいのであるが、レセプトデータの情報公開は今も不十分で、僕らは実態把握に今も難渋している。
この問題は、電子カルテや検査データを自動的に吸い上げるeCRやeLRといったテクノロジー(と匿名化された医療情報を活用、共有するHIPPAのような法制度)こそが根本解決作だ。それこそが公衆衛生上の目的に合致する。つまりは正確なデータ、迅速な情報収集、そして解析である。保健所職員が汗をかき、消耗せねばならないのは、単純にこの数十年、日本がそういう仕組みづくりを怠ってきたからである。
HIPPAが米国にできたのは20世紀末のことで、当時は多くの米国の病院は紙カルテで、情報はFAXで送っていた。当時はまだ日本のほうが「ハイテクの国」と考えられていて、ニューヨークの病院に勤めていた僕は「アメリカはなんてローテクなデータマネジメントをしてるんだろう」と嘆いていたくらいだ。日本の医療保険行政はそのときからピタリと時計の針を止めてしまい、世界各国はデータマネジメントを進化させていく一方で、日本は今も紙とFAXであり、多くの保健所職員や病院関係者や官僚は「それのほうがよい」とすら信じ込んでいる。まさに井の中の蛙である。
結局、新型コロナを5類相当にしても同じシステム、同じエートスを保っている限り、保健所の疲弊は止まらないのだ。繰り返すが、そこはポイントではない。
結局の所、「感染症法」は抜本的に作り直さねばならないのだ。感染症は「管理」と「人権」だけでなく、ケアが必要で、それも規模に応じた変遷が必要だ。「〇〇病」が指定医療機関でみる病気なのか、もっと巨大な規模でケアする病気なのかは、流行の規模に大きく依存する。日本にはその仕組がなく、現在のような新型コロナのケアのあり方はなし崩しに結果的にそうなっただけで、最初から狙ってやっていたわけではない。状況が変化してから「どっこいしょ」と対応しているから、「後手後手」になるのは当たり前なのである。
という前提を踏まえた上で、「オミクロン」をどうケアするのか。これは難問である。
新型コロナは風邪みたいなものだ、と主張し「5類相当にせよ」と主張は、「どうせ自分がかかっても軽症で終わるのだから、こんな行動制限なんか取っ払ってくれ」という主張だ。そう主張したくなる気持ちは分からないではない。特に、行動制限が収入や生活の圧迫に直結している飲食店関係、音楽・芸能関係、旅行関係といったステークホルダーたちにとっては当然の主張とすら、いえる。
特に新型コロナの場合、重症化、死亡化する層と、そうでない層のギャップが激しい為に「そうでない層」に当然の不全感が残るのである。少数の健康のために、大多数が苦労しなければならないのは、割りに合わない、という考えである。
しかしながら、そういう「行動制限を取っ払って」しまった国々がどういうことになったのかを見れば、話はそう簡単ではないことは明らかだ。
もっとも痛い目にあったのはアメリカ合衆国である。アメリカはトランプ大統領時代にかなりコロナを看過し、行動制限も不十分なままだった。患者が激増しても「重症者、死亡者は増えていない。アメリカでコロナが多いのは、ちゃんとした検査体制の賜物だ」と大統領は嘯いたものだ。が、新型コロナの重症者、死亡者は時間のズレをもって「あとになって」生じてくる。
結局、アメリカは新型コロナでもっとも死者を出した国になってしまった。本日の段階で、アメリカでコロナの死亡者は86万人以上。人口100万人あたりの死亡者数でも2500人以上と、大量の死者が発生してしまった。2020年の米国での死因第3位がCOVID-19である。到底、看過して良い問題ではない(https://okino-clinic.com/blog/1092/)。
それはアメリカの話で、日本ではそんなに死んでない、という主張も多いが、これも間違いだ。症例あたりの死亡率でみると、アメリカも日本もそう大差はなかった。小野昌弘先生もツイッターで指摘しているとおりである(https://twitter.com/masahirono/status/1479831476036329476?s=20
)(ただし、ここでは「なかった」、と過去形で述べている。その理由は後に述べる)。
86万と1万8千人ちょっと、という巨大な死亡の違いを説明するのは死亡リスクではなく、単純に感染者数なのである。アメリカは感染激増を看過し、日本はそうしなかった。その違いが決定的に両国の違いを生み出したのである。
感染者が増える、減る、は社会において発生する現象だ。医療機関の中では感染者数に介入できない。感染者を増やすのはウイルスの属性と、社会における人の行動によって決定する。ウイルスの属性「そのもの」を我々が変えることはできないから、社会活動の制限が感染数に大きく寄与する。日本でコロナ死亡が少なかった最大の原因は、社会における感染数制限である。
ただし、ここで勘違いしてもらっては困るが、我々のような専門家は徒に社会活動の制限のみを希求していたわけではない。我々だって社会の構成員である。皆さん同様に人生を楽しみたい。食事や音楽やスポーツや、その他諸々の行動も楽しみたい。
当初は、どのような社会活動の制限がコロナの増減に大きく寄与するか、よく分からなかった。だから、第一波あたりでは、ほとんどすべての社会活動を大きく抑制するしか方法がなかった。しかし、その後、「これをやっても感染はそう増えない」方法も少しずつ見つかっていった。映画館で静かに映画を見るだけなら、感染リスクは大きくない。野外のスポーツ観戦も同様。音楽鑑賞も一定の条件満たせば問題なし。落語や歌舞伎、文楽、や能といった伝統芸能も可能。キャンセル、中止が続いていたこうした活動も、「やってもいい条件」が検証され、その検証に基づいて活動が再開された。条件の検証を可能にしたのは科学的知見だし、その判断をもたらしたのは多くの専門家の監修作業だった。
繰り返す。感染症のプロたちが「自分たちの生活を脅かしている」と誹謗中傷されている。そういう側面があるのは認めざるを得ないが、多くの活動再開に寄与したのもまた専門家の見地である。そういう側面を無視するのはフェアとは言えないだろう。
コロナが増えたら行動抑制はやむを得ない、が2020年のデフォルトの対策であった。感染者が増えたら必ず重症者が増え、重症者が増えたら必ず死亡者が増えるからだ。世界では500万人以上の人命がコロナのために失われている。決して「ただの風邪」でもなく「インフルエンザ」ですらない。数千万人規模の命を奪った「スペイン風邪」レベルのインフルエンザは別だが、当然、パンデミック・インフルエンザのときにも「日常生活を普通に」とはいかないだろう。
2022年の現在は、1918年のスペイン風邪のときとは大きく異なる世界だ。平均余命は劇的に増大し、健康で長生きできるチャンスがずっと大きい世界である。「世界大戦」などで何千万もの人命が失われることを容易に許容しない世界でもある(そうであることを願っている)。端的に、命に対する価値が増大している。1918年であれば、新型コロナ死亡リスクが最も高かった「80代以上の高齢者」は「死んでも悔いないくらいの長生き」であった。現在はそうではない。少なくとも、それは皆に共有される、コンセンサスを得た価値観ではない。
ところが、2021年になって事態は大きく変貌する。効果的なワクチンの導入だ。これは多くの専門家にも予想外な前進だった。少なくとも僕は、ここまで効果的で、安全なワクチンが、こんなにスピーディに開発、導入されるとは予想していなかった。ワクチンは自らの感染リスクを減らし、発症リスクを減らし、重症化リスクを減らし、死亡リスクを減らし、他者への感染リスクも減らす。新型コロナで介入すべき、ほとんどすべてのポイントでワクチンは効果的だ。ワクチンの普及のおかげであれだけ病床を埋めていた新型コロナ重症の高齢者たちは姿を消し、死亡者も減った。ワクチンがあれば、行動制限も緩和でき、「これまでの生活」も取り戻せる。そういう大きな期待が高まった。
感染力が強く、重症化リスクが高いといわれたデルタ株が流行したときもワクチンはパワフルだった。感染者数は激増したが、死亡リスクはかなり減った。リスクの高い高齢者たちがワクチンによって守られていたからだ。それでも、社会における行動制限を全部取っ払う、というのは流石にリスクが大きすぎる。数の論理、分数の論理である。ワクチンによって死亡率は下がったが、感染者数が多すぎると、分母が巨大になり、「率」が小さな感染症であっても分子は相当数になる。デルタの流行でひと夏で3千人くらいの人命が日本で失われた。特に、感染者数が増えすぎて、医療機関を受診できない、自宅待機のままの患者が重症化、死亡したのは大きな問題だった。これは先進国ではとうてい許容できない悲惨である。この段階でも、「コロナは風邪のようなもの」と放置することは、理にかなった判断ではない。
ここで、比較的大きな進歩が訪れた。抗体療法や内服薬など、「コロナの重症化を防ぐ」治療が開発、導入されたことだ。これまでは「重症者の死亡を減らす」、重症者に特化した治療法は複数開発されていた。しかし、その効果は限定的で、死亡リスクが劇的に下がることはなかった。感染者が増えれば、重症者が増える、重症者が増えれば、死亡者が相当数発生する、の基本構造に大きな変化はなかったのだ。ところが、感染者が増えても重症者が増えない、を可能にするかもしれない治療薬が開発されたのだ。これは大きい進歩だ。感染者を早期発見し、特に重症化リスクが高い患者にこうした治療を提供すれば、「感染者が増えても大丈夫」な社会、つまりは社会抑制がかなり解除できる世界をもたらすかもしれない。もちろん、その前提にはリスクの高い患者の早期診断、早期治療を可能にする「しくみ」が必要なのだが。
さて、そこでオミクロンだ。すでにオミクロンは「感染力は強く、重症化リスクは低い」ことがほぼほぼ分かっている。これまでの変異株に比べ、短所が一つ増え、長所が一つ増えた。微妙な変異株だ。
オミクロンは感染激増を起こしやすい。感染が激増したら、数の論理で、いくら重症化「率」は低くても、重症者「数」は増えてしまう。よって、感染輸入を回避し、たとえ国内に入ってきても即座に封じ込めることが望ましい。前者を一所懸命やったのは日本である。後者についてもこれまで「封じ込め」を徹底してきた国は、やはり徹底している。例えば台湾だ(https://www.reuters.com/world/asia-pacific/taiwan-urges-vigilance-after-first-omicron-coronavirus-cases-2022-01-04/)。
しかし。まったく逆の考え方もできなくはない。感染力が高いということは、封じ込めにこれまで以上のパワーを要するということだ。これまで以上の封じ込め努力が必要とされるのに、重症化リスクは下がっているから得られる利益は相対的に目減りしている。
つまり、オミクロン封じ込め対策は、(これまでよりも)労多くして功少なし、な対策なのである。
そこで。封じ込め対策をあえて徹底しない、という戦略が選択された国もある。典型的なのが英国だ。
誤解のないように申し添えるが、英国は「社会活動制限ゼロ」にしているわけではない。公共交通機関ではマスクをするように、といった「プランB」と呼ばれるマイルドな方策は続けている。また、ワクチン3回目の「ブースター」接種も推し進めている。
ただ、オミクロンに対応して社会活動制限を強化したりはしなかった。緊急事態宣言もロックダウンもなし、である。(ここが英国らしい、と思うのだが)オミクロンの激増で医療システムが逼迫し、病院が逼迫するという予測がすでになされていた、にも関わらず、である(https://www.reuters.com/world/uk/uks-johnson-will-continue-same-path-tackling-covid-2022-01-03/)。
これはボリス・ジョンソン首相の態度でもあり、覚悟でもある。これまでも、英国は何度もコロナに対して、挑戦的な対応策を取り、その都度失敗して方向転換を余儀なくされてきた。「挑戦的」であるところも、すぐに方向転換をするところも、どちらもとても英国らしいと僕は思うのだけど、それはいい。いずれにしても、英国は「医療は逼迫するだろうが、それでも現状維持で我慢すれば必ず事態は好転する(と思う)。これが最良の策である」と考えたのだ。
現在、英国では毎日100人かそれ以上のコロナ死亡者が出ている。英国人口は日本のざっくり半分だから、日本的に言えば毎日200人ペースだ。すでに英国は2020年、21年とコロナで大打撃を蒙り、ときに1日1000人以上の死者を出していたので、「そのときよりはまし」という考え方もあるのかもしれないけれど、あっさり看過してよいかといえば、悩んでしまいそうな数字ではある(https://coronavirus.data.gov.uk/details/deaths?areaType=nation&areaName=England)。
良いデータもある。一時、1日20万人以上の感染者が出ていた英国だが、感染者数は減少傾向だ。1月11日には死亡者が’379人と、相変わらずコンスタントに死亡者は出続けている。その日の入院も2286人と医療は相当逼迫しているだろう。が、「ピークを過ぎた」可能性もある(https://coronavirus.data.gov.uk/)。
IHMEの予測モデルによれば、英国の流行はすでにピークを過ぎている。現在の英国の流行は3月から4月には収まりそうだ、という。そして、オミクロンのもたらす死亡者は、2021年あたまのアルファ株の流行のそれよりもかなり少なく終わる、というのである。このモデルの予測どおりに事態が動くかどうかは分からないが、英国の作戦には一定の合理性があるのである(https://covid19.healthdata.org/united-kingdom?view=daily-deaths&tab=trend)。
一定の合理性はあるが、これを日本にそのまま持ち込めるかといえば、いくつかの留意点がある。まずはブースター。英国ではすでに3500万人もの人がブースター接種を受けているが、日本は2021年の2回のワクチン接種を驚異的な推進力で迅速に提供した。世界トップレベルの偉業である。が、なぜかブースターになるとその推進力は影を潜め、87万人しか接種していない。総人口の0.69%という低さである(https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-japan-vaccine-status/)。日本では政治や宗教的理由で反ワクチンに向かう人達が他国より少ない。逆に言えば、ワクチン接種の成否は政治家と官僚にかかっている。
データマネジメントの問題もある。上述のように、コロナの感染者数増加を許容したとしても、重症化リスクを減らすためには感染者の把握と早期治療は欠かせない。しかし、日本では受診、診察、検査、治療の手続きも煩瑣で、患者が激増している沖縄では受診の予約すらままならない(https://news.yahoo.co.jp/pickup/6414920)。繰り返すが、これは単にマンパワーの問題ではなく、「仕組み」の欠如が大きな原因だ。
これに対してオミクロンは重症化リスクがそもそも低いのだから、受診は重症化リスクが高い人物に限定し、「全員受診」を前提としない、という作戦もとれる。これは09年の「新型」インフルに対して欧州の多くの国がとった対応だ。
09年の新型インフルは日本で早期受診とタミフル処方で死亡者が少なかった、と多くの「専門家」や官僚が自画自賛したが、そんなことはなくて、「リスクがなくて元気なら、家で寝ていなさい」の対策をとっていた欧州の国々でも死亡者は少なかった。この当時からデータを恣意的に扱って自分の都合の良いような解釈で科学性を無視していたツケがまわり、今、日本の感染症対策に暗い影を落としている。データの軽視、科学の軽視である。
いずれにしても、オミクロンでこの作戦は、日本の乏しいリソースにおいては有効な可能性はある。ただし、「万が一のことがあったらどうするんだ。全員受診させるべきだ」という合理的な安全策の放棄と、「万が一のための安心」の優先を重んじたら、とれない選択肢ではある。もっとも、「安全よりも安心(気分が良い)」のメンタリティーでは、そもそも英国的なコロナ対策などできるわけもないのだが。
臨床医学において、意思決定には「閾値(threthold) 」という作戦を取る。少なくとも、clinical reasoningを学んだ医者はそうする(残念ながら、日本の医者でclinical reasoningを学んだものは少数派に属するのだが)。閾値においては、「これ以上のリスクがあれば検査、それ以下なら検査しない」「これ以上の閾値なら治療、それ以下ならしない」という「判断」をとる。ベイズの定理を活用し、事前確率を活用した考え方だ。それは「一律全員検査」とか「一律全員治療」という、言ってみれば、かなり雑なやり方とは大きく異る考え方だ。
新型コロナ対策において、「社会活動制限をしないやり方」「コロナを風邪のように扱うやり方」はどう考えても無理筋だった。その根拠はすでに述べた。が、「オミクロン」の登場で、社会活動制限のコストは上がり、それによって得られる利益は小さくなっている。「社会活動制限をしない」という選択肢の閾値は下がったのである。
その下がった閾値が、「しなくてもよい」という判断にまでもっていってよいか。今はまだ、そこまで大きく大胆な判断をしてよいという根拠は乏しい。これも理由はすでに述べた。が、「しなくてもよい」可能性は開示されている。「しなくてもよい」条件を整備する根拠もある。
中国や台湾のような「抑え込み」は一つの戦略ではあるが、日本のこれまでの「態度」と現在のオミクロンの現状を考えると、日本ではすでに「抑え込み」は非現実的な戦略だ。残念なことに。が、これまでのように「感染者が増える、緊急事態宣言、感染者減る、緩める、感染者が増える、振り出しに戻る」を繰り返すのも、もうしんどい、というのも事実であろう。
だから、プランの一つとして、「抑え込みをしない、かといってこれまでの現状踏襲もしない」という新しい選択肢を取る可能性はあると今の僕は考えている。
そのために必要なのは、
1.診断、検査データの合理的で自動的なマネジメントシステムの整備(英国は、これをコロナ流行中に整備したらしい)。
2.重症化リスクの高い層に特化した診断、重症化防止に役立つ早期治療の提供。リスク低い層は診断を目指さない(つまり感染者増加も、ある程度許容する)。あと、重症化防ぐ薬の提供体制の簡素化や診療場所の増加は必須。
3.ブースター接種の普及
4.ある程度の重症者、死亡者の発生の許容(他の疾患や事故の死亡リスクとの相対化)。
5.このプランを取った場合の、功罪の科学的検証(日本に一番、欠けているやつ)。
である。明らかに大胆なプランである。肝心なのは、この出口戦略には「条件」が必要で、ただなんとなく「コロナは風邪ー」「5類でお茶を濁すー」とは似て非なるものだ、という理解である。また、上記条件が整うという保証はないため、僕が現時点でこの方向に進むべきだ、と主張しているわけでもない。「もし、この方向に進むとすれば、これが条件だ」と申し上げているだけなのだ。
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