ブログを書くの、久しぶりです。
大学に異動したとき、すぐ気づいた。多くのスタッフが、体制、システム、ルール、ブルシットジョブ、上司などなど、様々な不安を抱えていることに。次いで気づいたのは、そのような多種多様な不満を抱えているスタッフたちが、直属の上司にその不満を「絶対に口にしない」ことを旨としていることであった
ぼくは驚いて、「問題があるなら、問題提起して、直してもらえばいいじゃないですか」と申し上げたら、「岩田先生、大学病院はいろいろあるんですよ」と「お前は分かってないな」といわんばかりの薄笑いとともに返されるのだった。
今も、俺は分かってない。
このような垂直的な階層構造は大学病院に限った話ではなく、日本社会のあちこちに遍在している。
ぼくはST合剤という抗菌薬の添付文書の不備を霞が関の担当官僚に指摘し、改善を求めたことがある。彼女は「こいつは分かってないな」という気持ち悪い薄笑いとともに、
「あなた以外は、だれも文句を言ってませんよ」
と返したのだった。彼女は、理論的な誤謬は無視してもよい。世間が騒いでいるかどうかだけが、改善の閾値なのだ、と非論理的に述べたのだ。
もちろん、添付文書の不備のせいで困っている人はたくさんいた。しかし、「おかみ」にたてつき、問題を提起するのはこの社会でははばかられる行為なのだ。それは「おかみ」の不興を買い、いつなんどき、なんらかの意趣返し(別名、いじめ)でやり返されないとも限らない。そのような構造の下では、現場の人々は、現場の不備や問題点に気づいていながらも、それを放置する。誰がどう見ても放置できなくなる惨劇がおきるまで。
「おかみ」にはなんのフィードバックも返ってこない。仮に、ひとりやふたりがそれを指摘しても、「特に問題にはなっていない」「他には誰も言っていない」といって問題を無視するか、矮小化する。官僚が動くときは、メディアや世論が大騒ぎして、もう引き返せないくらいの状況に陥ったとき、すなわち手遅れになったとき、だけなのだ。そして、その「大騒ぎ」がたとえ理論的に間違った騒ぎであっても、騒ぎになりさえすれば、動く。HPVワクチンの誤謬はこのように行われ、そして何年も維持されたのだった。
2001年に米国は、炭疽菌によるバイオテロに遭遇する。しかし、1990年代からバイオテロの懸念はすでに指摘され、JAMAのシリーズでそれは網羅的に解説されていた。だから、ぼくらは炭疽菌のバイオテロに驚きはしたが、全くの予想外というわけでもなかった。
米国社会にも闇は多いが、少なくとも人々は絶対に泣き寝入りはしない。理不尽な組織や理不尽な上司や理不尽なその他諸々には、ちゃんと楯突く習慣と仕組みができている。日本にはその習慣と仕組がない。「楯突く」ときは、誰もがぶん殴っても誰も文句を言わなくなった、そういう空気が醸造されたときだけだ。
よって、日本では問題解決が絶対的に遅くなる。問題点の事前想定や指摘、解決というパスウェイはなく、PDCAといったかっちょいいキーワードも大抵は空言に過ぎず、大問題が生じたときにリアクションを起こすだけだからだ。proactiveではなく、reactiveなのだ。「後手後手」になるのは当然だ。
なにか大惨事が起きたとき、「こうなることは、とうの昔から予測できていた」とメディアの取材でしたり顔で言う人はいる。が、ではなぜ予測できていたのに、放置していたのだ?という問題は、それこそ放置である。メディアそのものがそもそも、リアクティブだからで、彼らはテレビ映えする大惨事が起きないかぎり、動かない。
この構造は階層の分断がもたらす問題だ。そして、その責は階層の上下、両方にある。フィードバックを受け付けない、受け付けないかのような空気を作る上層部にも問題はあるが、見て見ぬ振りをして、安全なところに逃げているままの「下層」の人たちもやはり問題だ。両者がほんとうの意味でのコミュニケーションをとって、proactiveに動く習慣をつけなければ、日本社会はこれからもすべて後手後手のreaction社会でありつづけ、そのたびに世界から一歩、また一歩と遅れを取りつづけ、気づけば数周遅れの状態に陥っていくだろう。予防接種システムがまさにそうだった(そうである)ように。
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