庭に水やりをしたすぐあとで、激しい夕立が降ってきたりすると心底がっかりします。計画性も生産性もない作業にムダな時間、ムダな水道水を浪費してしまった自分を責めます。こういうムダは本当に嫌いなのです。
ところが、このような生産性のない作業を容認したり、ひどいときには奨励すらするエートスが日本のここかしこに見られます。曰く、「毎日、水やりをやるその気持が大切なんだ」とか「努力は裏切らない」とか「確かに、気の毒な話だが、一定の効果はあったと思う」といった、努力を奨励する努力主義です。
大量の雨水が落ちてくる夕立に対して、ぼくが撒くことのできる水の量などたかが知れていて、とても「一定の効果があった」などとは言えません。こういうのをぼくは「毛が3本生える育毛剤」と呼んでいます。常識的に言えば、3本しか毛が生えない育毛剤は「ヤクタタズの育毛剤」ですが、たちの悪いタイプの役人とかは詭弁を弄して「毛は生えたのだから、一定の効果はあった」と言うのです。
意味がないと分かっていても、毛が3本的な「一定の効果」にすがって、人的、物的リソースの無駄遣いを止めない。よくある話です。ちょうどこの文章を書いているとき、国外からの「サル痘」の輸入例が報告されていました。報道によると、政府は水際対策を強化するそうですが、サル痘のような性感染症の性質が強い感染症に対して、「水際」が役に立つことはほぼありません。インフルエンザのような呼吸器感染症ですら、水際対策の感度は2割ちょっとしかなく、実質的な輸入防御には役に立たないことが分かっています。はいはい、そこのあなた、「完璧とは言えないけれど、一定の効果は」とか言わないでくださいね。
Nishiura H, Kamiya K. Fever screening during the influenza (H1N1-2009) pandemic at Narita International Airport, Japan. BMC Infect Dis. 2011 May 3;11:111.
海外に行かれる方はご存知だと思いますが(昨今はなかなか行けませんが)、空港の入国時に感染症関係のチラシをベタベタ貼って「水際」対策をとっているのは、ぼくが知る限り日本だけです。そのくらい、空港で感染症をブロックするのは難しいのです。もちろん、空港検疫で感染症が見つかることはありますが、その多くはデング熱のような潜伏期が極めて短い感染症です。デング熱は蚊媒介感染症で、ヒト−ヒト感染はしませんから、空港で捕まえる特段のメリットはありません。はいはい、そこのあなた、「特段のメリットはなくても、一定の効果は」とか言わない言わない。
一時期の新型コロナ感染対策のように、海外からの渡航者をブロックする覚悟で対策を取れば別ですが、渡航者の流入をOKにしながら感染症だけを入れない、というのは現実的な方法ではないのです。現実的ではないから、他の国はそういう方法を採択しないのです。それなのに、日本は「駄目と分かっているのに」やっている。分かってないのか、分かってないことが分かってないのか。悩ましいところです。
話は変わりますが、「学校教育で、古文とか漢文とかを教えるのは無駄だ」という主張を耳にすることがあります。「あんなものを勉強しても、実社会で役に立った試しはない」のだそうです。
ただ、「実社会で役に立たない」という主張には注意が必要です。ほとんどすべてのことは、役に立てていない限り、役に立たないからです。
「日常生活に困らないレベルの英語」という言葉があります。
ぼくは1998年からニューヨーク市に5年間、研修医として勤務していました。当時、多くの日本人がニューヨークに住んでいましたが、一定数の方々はほとんど英語力がつかないまま米国に滞在し、そして帰国していきました。
実は、英語なんて全然できなくても、「日常生活」には困らないのです。日本人だけでつるんで、インナーサークルで生活していれば困らない。買い物とかにいっても、別に喋らなくても用は足せます。
自分の基準を下げ続けている限り、どんなに英語ができなくたって「日常生活には困らない」のです。
実社会で、必要なときに漢詩を諳んじたり、古典を引用して、窮地を突破したり、新しいアイデアを発揮する人はいます。もちろん、それができなくたって「日常生活には困らない」わけで。英語ができなくても、算数ができなくても、自分のレベルを下げ続けていれば、いつだって「困りません」。
だから、ある人が「あんなものを勉強しても、実社会で役に立たない」というエピソードを披露しても、それは何の根拠にもならないのです。その人が、学んだことを実社会で役に立てていない、というカミングアウトをしているだけに過ぎないのです。
もっとも、それはそれとして、ぼくは現在の学校での古文や漢文の教育方法は絶望的なまでに失敗しているとも思っています。
それは、アウトカムに寄与していないためです。要するに、多くの人が「古文や漢文は実社会で役に立たない」と思っているわけで、そう思わせ続けた学校教育の失敗なのですね。
何段活用とか、どこにレ点を打つとか、そういうのを暗記させて、受験させて、受験が終わったらおしまい、という教育構造を続けている限り、我々は実社会で古文も漢文も活用しません。「受験」という短期的なアウトカムに注力しすぎて、もっと長期的なアウトカムをガン無視してきた日本社会全体が大いに反省すべきところです(これは、現場の教師だけの問題ではなく、短期的なアウトカムに注力させてきた親たちや、大学や、会社など社会のほぼすべてが加担している問題なので、教師や文科省だけが反省すべき問題、ではないのです)。
他の教科も同様です。神戸大学医学部の学生たちの英語力の低いこと、低いこと。大学受験までにものすごく時間を費やして英語の勉強に力を注いできたにもかかわらず、基本的なテキストや論文が読めないどころか、中学レベルの英会話すらおぼつかない学生が多いです。通俗的な偏差値での判定ならば、日本でトップレベルのオツムの良い集団を集めてきたはずなのにもかかわらず、この体たらくです。
このように、マラソンを走るときにスタートから全力疾走させて、あとは疲れて止まってしまうような日本社会では、古文も漢文も英語も三角関数も、その他諸々の学校教育の成果も構造的に活用しにくいのです。学校教育での古文や漢文学習は無駄、などという暴言を相手にする必要はないとぼくは思いますが、それはそれとして学校教育の構造的変革は必要不可欠なのです。
生産性とはなにか。ムダとはなにか。学校教育での古文や漢文学習はムダではないとぼくは思っています。が、それが長期的なアウトカムに寄与していない限り、生産性のないムダな時間とエネルギーの浪費だともぼくは思います。
生産性についてほとんど顧慮することなく、昭和の時代を突き抜けてしまった日本社会。山のようにムダ、無意味はありますから、それを形式ではなく本質で看取し、変革していくのが、このような世界を次世代に託してしまいそうな我々、老境の世代の喫緊の責務だとぼくは思っています。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。