僕は島根県生まれで、当時の島根医科大学に進学したが、同級生や先輩たちの島根の悪口が嫌で嫌でたまらなかった。当時は半数以上が県外からの入学生で、島根より田舎から来る人など稀有で、皆「もっと都会」からやってきていた。おまけに入試の日程などの関係で「第一志望」で入学して来る人は少なく、多くは「第一志望に落ちて仕方なく」島根にやってきたのだった。「こんなところに来るはずじゃなかった」という不満を隠そうともしない人は多かったし、仮面浪人して翌年、別の医学部を受験して去っていった人もいた(今から考えると、なんだったのだろう、あれ)。
時はインターネットも携帯電話もなかったし、都会と田舎の格差は非常に大きかった。バブルの残滓もあって、西洋的な生活が「ナウくて」日本の田舎は「ださい」のが若者文化的な一般解だった。今なら、「都落ち」と考え、がっくり来ていた友人たちの気持ちもよく分かるけど、当時の僕は「島根を馬鹿にしやがって」とただただ、立腹していた。
皆が島根を蔑んでいる、と思いこむと、そういう見方しかできなくなる。たまに島根を褒める言葉を聞いても素直に聞けない。「綺麗事言ってても、どうせ心のなかでは上から目線で軽蔑してるんだろ」と思えてくる。「島根の冬は寒いよなー」というわりと普通なコメントも、差別意識の表出としか思えなくなる。裏日本の山陰の人間は、日本の最下層と見られているようで仕方なかった。実際、そういう見方もされていたとは思うが、部分的にはこちらの被害妄想でもあった。
ところが、ひょんなことから英国に1年住むことになって、帰ってきたら「島根も広島も岡山も大阪も、みんな極東の島の中じゃん」とアタリマエのことに気づいて拍子抜けしてしまった。まさに日本辺境論なのだが、辺境にいるから学べる、理解できることも山程あると分かってきた。一度気づいてしまうとあとは簡単であった。
同級生たちの島根蔑視がなくなったわけではない。それは厳然として、あった。しかし、「島根の冬は寒いよなー」が島根蔑視を内意したコメントなのか、単に寒くて言ってるだけなのか、あるいは僕が「また島根の悪口言いやがって」と検閲的に評定しているのか、いずれに該当するのかを判定する根拠はどこにもない、ことには気づくことができた。人は無意識的に差別意識を抱えて生きているものだが、それを外的に判定するのはときに容易であり、ときに難しい。全例、正確にキャッチできる人は(当人含めて)一人もいない。そんなことができるのは、立場を超越した神様だけだ。
しかし、一度「検閲モード」に入ってしまうと、当方のバイアスも手伝って、どれも島根の悪口にしか聞こえなくなってくるから不思議である。しかも、全会話を「検閲するため」に耳をそばだてているから、他のコンテンツが入ってこない。まったく入ってこない。これは宮崎駿の映画「風立ちぬ」を見た禁煙学会の人が「喫煙シーン」しか目に入ってこなかったのと同じだ。喫煙が健康に悪いのはそのとおりだが、そのことばかりに集中していると、もっと大事(なはずの)戦争や、自然災害や、当時死に至る病だった結核のことなど、放ったらかしになってしまう。これが検閲モードのリスク、その1.
リスクその2は、自分自身の悪口モードに甘くなってしまうことだ。冷静になって考えてみれば、僕だって別の場所に行けば結構、文句たらたらだったりするのだ。「大阪は皆声がでかくてうるさい」とか「東京は水がまずい(今は美味しくなりました)」とか。自分が「検閲者」のつもりでいるから、ついつい無意識のうちに他者に対して毒をはいていても、気づかない。あるいは「虐げられた立場」だから、何を言っても許される、と勘違いしてしまう。もちろん、そんな特権、ぼくにあるわけないのだが。
島根県人ゆえに差別される。そんなことが許されて良いはずはない。事実、島根医大卒業生は都会の大学の医局に入局すると、当該大学卒業生より冷遇されることはしょっちゅうだった。これが差別だ。不当に給料が低い。不当に出世を妨げられる。嫌がらせをされる。断固として、こういう不正にはあらがわねばならぬ。これは、ど真ん中の問題だ。
学者であれば「島根における差別の構造」というテーマで「検閲モード」に入ることも妥当だろう。しかし、上記のような2つのリスクがあることにはかなり自覚的でなければならないし、多くの人はこうしたリスクに簡単に陥ってしまう。僕が簡単に陥ったように。実際、僕は後に米国に渡るのだが、滞在期間中、アメリカの悪口をいうことしょっちゅうであった。極東の差別され続ける東洋人としては、アメリカ人の悪口くらい、当然だと、という気持ちもあったのだが、その指摘は妥当なときもあれば、(今から考えると)「言いがかり」にすぎないことや、そもそもアメリカ特有の問題ではなく、どこにでもある問題を「アメリカ固有の問題」とすり替えていたものもあった。いずれにしても、自分が検閲者という特権的な立場にいる、と勘違いすると起こりやすい誤謬であった。そんな特権、だれにもないというのに。
世の中の価値観は時代とともに大きく変わった。都会が偉くて、田舎がダサい、と本気で思う若者は相対的には減ってきたし、今では島根はマニアが集うパワーなんとかだそうで、人気の観光スポットになっている(相対的にコロナも少ないし)。島根大学医学部は優秀な教員が集い、一定の学生から高い人気を誇るようになった。そもそも、ネットその他でグローバル化やフラット化が進んで、今やどこに住んでいてもそれほど生活の質に大きな違いはない。島根に対する差別はあったし、今もあると思うが、それは確実に、大きく減少している。理由はいろいろだろうが、とにかくよいことだ。しかし、その減少に僕の「検閲」は少しも寄与してこなかったし、ひょっとしたらそのスピードを弱めていた可能性すら、ある。反省している。
本当に同級生というのは素晴らしいもので、「島根の悪口ばっか言いやがって」と怒っている僕に、「そうとばかりは言えないよ。島根の素晴らしさも多くは甘受しているよ」と諌めてくれた人もいた。だが、1年生のときは、僕はそういう声に耳を貸さなかった。自分が気づくまでは、気づけないのだ。故に、この文章も何かを変えようと書いたものではない(変わらないし)。ただの備忘録である。
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