著者献本御礼。
診断なくして、治療はない。診断こそが、臨床医学の大前提であり、キモの一つだ。
が、100年以上もめ続けたベイズの定理に代表されるように、この領域は本当に難しい。最近では、脳科学領域など、異なる分野とのクロストークも増えているが、それは「診断プロセスを説明」することはできても、「どうやったらベターに診断できるのか」に資することは少ない。経済学者が「起こった出来事」を説明できても、「今後10年間に起きること」(どころか、もっと短い期間をも)を予見できないように。
診断の評価は、治療の評価よりも難しい。一つには、ゴールド・スタンダードの問題がある。本書にもあるように、多くの病気において、ぼくらは100%正しい診断というものを得ることはできない。「なんとか症候群」のように自己言及的な診断基準を除けば(いや、それでも誤診のリスクは大きい)。つ反やクオンティフェロンのように、そもそもゴールド・スタンダードが存在しないものもある。あいまいな基準を根拠に診断を評価するのだから、なんだかぼんやりした評価になるのも無理はない。「死亡率」のような、治療の評価的、分かりやすさがないのである。
診断の評価は、製薬メーカー的ビッグマネーが動きにくく、ジャーナルのインパクトファクターも小さくなりがちで、つまりは研究者のインセンティブも小さくなりがちだ。
診断とは、(ぼくの定義では)「患者に起きている現象を言葉でコードすること」である。患者に起きている現象は、一回こっきりの独特の現象で、他の誰もが「全く同じ」現象を体験することはない。だから、言葉でコード、といっても、そのコードは一種の「みなし」である。どのくらい「みなすか」については、科学的基準とか真実、真理のようなものはない。そこには、死と生を分つような(治療を吟味するような)分かりやすさがないのだ。
比較的金のでやすいバイオマーカーみたいなハイテク検査は、患者に起きている現象のごく一部だけを見ている。現象全体を表現できるマーカーは存在しないし、今後も存在しないだろう(たぶん、原理的に。ここは検証不十分)。マーカーには表現できない患者の「クオリア」のようなもの、ぼくがゲシュタルトと呼ぶものは、表層的な現象にはかなり肉薄していると思うが、それでも体内に起きている現象は説明できないし、「時間」の情報はかなり省略している。
というわけで、診断法を評価するのは本当に難しい。本書は、その苦々しい難しさを無視せずに、オーセンティックな評価法を概説している。CPRは院内肺炎を吟味したとき勉強させてもらった(が活かしきれていない)。メタ分析はエラスポールの時に勉強したが、診断についてのメタ分析はまた独特の勉強が必要ですね。論文を読む際にも、書く際にも重要な点は多いと思いました。
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