日経メディカルでときどきやっている書評の転送です。
今さら「廃用身」を読む
岩田健太郎
すでに、どういう理由で本書を購入したのかは覚えていない。多分、1年か2年くらい前に、アマゾンで衝動買いしたのだろう。そのまま書棚に突っ込んでいたが、難解な専門書や哲学書を読み疲れて、「なんか軽いもの読みたいな~」と手に取ったのが本書であった。
というわけで、本書が流行した時の扱われ方をぼくは知らない。いつも流行からは見放されているのだ。
ほんの数ページ読んで驚愕した。これはすごい小説だと感じた。「なんか軽いもの」的に読んではならないと居住まいを正した。
最初の数ページには「廃用身」という言葉こそ出てくるが、その後のあれやこれやはまだ紹介されていない。つまり、その後の(多くの読者を驚愕させ、多くの医師を憤慨させたであろう)グロテスクなエピソードとは全く無関係に、本書はすごいのである。
なにがすごいと思ったのかというと、本書の「私小説風の文体」である。フィクションなのにもかかわらず私小説風というこの矛盾。この文体がとても美しいのだ。田山花袋のようでもあり、太宰治のようでもある。あるいはカフカ的と言ってもよいかもしれない。その一人称の前半ですっかりやられてしまった。後半のルポルタージュ風の内容も悪くはない。文中文、劇中劇、巻末にまで施された仕掛けも悪くない。でも、ぼくにとってはとにかく前半の文体、私小説風の(つまりは実体験を想起させる)文体、すぐにネタがわれるようにわざと名前を変えている巧みな虚構(ゆえに気持ち悪いくらいリアリスティック)。どこまでが筆者の体験談でどこからが虚構なのか区別がつきにくい文章にどきどきしてしまう。
単純にモラルを定言的に語る医師なら本書を「言語道断」といって断罪するだろう。本書で紹介された近藤誠氏とかを「言語道断」と断罪してきたように。あるいは近藤誠氏自身が既存の医学界を断罪してきたように。医学・医療の世界は対話を拒み、激賞するか断罪するかになりがちである。今の日本のメディアや政治やソーシャル・ネットワークに親和性の高いメンタリティーである。
しかし、擁護でも非難でもない、よい悪いの二元論で医療をぶった切らない、医療現場のジレンマやあいまいさを理解する医師なら本書に折り込まれたやり切れないメッセージが胸に飛び込んでくるだろう。美しい文章とグロテスクな筋の乖離が、それが現実にある診療現場を妙に想起させる事実に恐怖するかもしれない。
ぼくは恐怖した。
久坂部羊 「廃用身」幻冬舎文庫
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