「奴隷制度は廃止すべきか」
と昔のアメリカで問うたとしよう。おそらく、多くの答えはこんなものだったに違いない。
1「現行の法制度では認められている」
2「昔から(何千年も)ある制度で、もう確立された、長い伝統のあるシステムだ」
3「誰も(厳密には「僕らは」)今のシステムで困っていない」
4「昔の偉いギリシャ人も奴隷は容認していた」
5「これまでこの手の議論は何百年としつくしてきたのだ。これ以上議論しても無駄」
6「奴隷がいないと、現実問題、生活が困難になる」
7「奴隷制があったほうが、ないよりも効率的に社会がまわる」
どれも内的には説得力のあるコメントであり、実際、当時このように説得力のある言葉にドライブされて長く長く奴隷制は容認されてきたのであろう。同じロジックは今の世の中にも、例えば男女差別という文脈の中で根強く生きている。
奴隷制を解除したのが何なのか、正確には僕は知らない。リンカーンかも知れないし、南北戦争かも知れないし、産業革命の成果なのかもしれない。おそらくはall of aboveといったところかもしれない。それは措いておいて、上記の1−7である。いずれもロジックのループの内部ではきちんと成立しており、説得力のある言説だが、21世紀の僕らの目からみると暴論でもある。
僕らの倫理観では、奴隷制度は許容されるべきではない制度である。それは倫理的にそうである。したがって、この奴隷の小話が教えてくれるのは、倫理を語るときには現行のシステム(法制度や憲法含む)、長い伝統、現状維持の圧力、オーソリティーのサポーティブなコメント、過去の議論の積み重ねというエクスキュース、必要悪論、効用、といった諸条件を加味してはならないことを教えてくれる。倫理の議論をするときは、倫理を他の条件からいったん切り離すことが大切だ。
それは「正義」とは微妙に異なるように僕には思える。正義は、ある立場に立ったときの、その箱の中では完全に成立する閉じたループのようなものである。ある世界観を前提にした閉じたループだ。しかし、こういった正義は箱の外では通用しない。ほとんどの「悪」は邪悪な悪魔的な思想から来るのではなく、純朴な正義感から来ている。連合赤軍も、オウム真理教も自らの正義を持っていた。それは手前勝手な正義ではあったが、彼らの閉じたループの中では完璧に成立した正義である。「こいつが殺されても、どうせ輪廻で生まれ変わるから大丈夫」みたいな。
臨床試験によってHIVに感染するリスクが高まるセオレティカルなリスクがある。それは、コンファームされていないあくまでもセオリーだが、そこにセオリーがあり、それを研究者が認識しているだけで十分だ。ここに倫理的な葛藤が生じる。生じるべきだ。
もちろん、現実世界から離脱して宙に浮いた倫理など、学者の戯言に過ぎなくなる。だから、一回切り離して考え抜いた倫理を、もう一度現実世界に取り戻し、くっつけてやらねばならない。
「HIV感染は確かにブラインド化によって増えてしまうリスクがある(かもしれない)。それは倫理的には問題なのかも知れない。しかし、現行のシステムではブラインド化がスタディーの質を担保すると考えられるし、ブラインド化しなければNEJMには載らないかも知れない。僕ら的にはNEJMに載りたい野心がある。ブラインド化しないと、Nが増えすぎてデータもとりづらいかも知れない。スタディーの参加者には悪いけど、このデータがでれば、将来役に立つわけだし、他の多くの人にも幸をもたらすのだから(この危ういロジックは広島や長崎の原発でも使われましたね)、まあ、ここはよしとしときませんか」みたいな葛藤が生じるのかも知れない。その葛藤の行き着く先がスタディーならば、そこにはある程度、一種の救いがある。倫理のなかにためらいがあり、口ごもり、現実世界の中で逡巡するのだ。
「はあ?RCTといえばブラインド化だよ。何言ってんの?そんなのEBMのジョーシキ」という倫理の問題を最初からなかったことにされてはいけない。そう申し上げたいのである。
とか言っていたら、ちょうど読んでいたカントの実践理性批判(英語版)にこんな言葉が。シンクロニシティですね。
We may say of every action that conforms to the law, but is not done for the sake of the law, that it is morally good in the letter, not in the spirit (the intention).
この問題はあるMLで提議したが完全に空振りで、問題の前提すらよう理解してもらえんかった。MLには合わないトピックなので(本当はそんなことないのかもしれないけれど、今の段階ではそう)、こちらのミス。反省である。知己の哲学者の方にこの問題を相談して、ようやく問題の理解が得られたのであった。
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