僕は、感染症を専門にする内科医で原発の専門性はカケラほどもない。で、僕が原発についてなぜ語るのかをこれから説明する。
池田信夫氏の説明は明快で傾聴に値する。たしかに、日本における原発の実被害は人命でいうとゼロ東海村事故(核燃料加工施設)を入れても2名である。自動車事故で死亡するのが年間5千人弱である。これは年々減少しているから、過去はもっと沢山の人が「毎年」交通事故で命を失ってきた。タバコに関連した死者数は年間10万人以上である。原発に比べると圧倒的に死亡に寄与している。今後、福島原発の事故が原因で亡くなる方は出てくる可能性がある(チェルノブイリの先例を考えると)。しかし、毎年出しているタバコ関連の死者に至ることは絶対にないはずだ。今後どんな天災がやってきて原発をゆさぶったとしても、毎年タバコがもたらしている被害には未来永劫、届くことはない(はず)。
1兆ワット時のエネルギーあたりの死者数は石炭で161人、石油で36人、天然ガスで4人、原発で0.04人である。エネルギーあたりの人命という観点からも原発は死者が少ない。池田清彦先生が主張するように、ぼくも温暖化対策の価値にはとても懐疑的だが、かといって石炭に依存したエネルギーではもっとたくさんの死者がでてしまうので、その点では賛成できない。
池田氏のようにデータをきちんと吟味する姿勢はとても大切だ。感傷的でデータを吟味しない(あるいは歪曲する)原発反対論は、説得力がない。
しかし、(このようなデータをきちんと吟味した上で)それでも僕は今後日本で原発を推進するというわけにはいかないと思う。池田氏の議論の前提は「人の死はすべて等価である」という前提である。
しかし、人の死は等価ではない、と僕は思う。
人は必ず死ぬ。ロングタームでは人の死亡率は100%である。だれも死からは逃れられない。もし人の死が「等価」であるならば、誰もはいつかは1回死ぬのだから(そして1回以上は死なないのだから)、みな健康のことなど考えずに自由気ままに生きれば良いではないか(そういう人もいますね)。
自動車事故で毎年何千人も人が死ぬのに人間が自動車を使うのを止めないのは、人間が自動車事故による死亡をある程度許容しているからだ。少なくとも、自動車との接触をゼロにすべく一切外出しないという人か、自動車にぶつかっても絶対に死なないと「勘違いしている」人以外は、半ば無意識下に許容している。少なくとも、ほとんどの自宅の隣に原発ができることよりもはるかに、我々は隣で自動車が走っていることを許容している。それは自動車があることとその事故による死亡の価値交換の結果である。
原発は、その恩恵と安全性にかかわらず、うまく価値交換が出来ていない。すくなくとも311以降はそうである。我々は(たとえその可能性がどんなに小さくても)放射線、放射性物質の影響で死に至ることを欲していない。これは単純に価値観、好き嫌いの問題である。
医療において、「人が死なない」ことを目標にしても人の死は100%訪れるのだから意味がない。医療の意味は、人が望まない死亡や苦痛を被らないようにサービスを提供する「価値交換」であるとぼくは「感染症は実在しない」という本に書いた。このコンセプトは今回の問題の理解にもっとも合致していると思う。
喫煙がこれだけ健康被害を起しているのに喫煙が「禁止」されないのは、国内産業を保護するためでも税収のためでもないと僕は思う(少なくともそれだけではないと思う)。多くの国民はたばこが健康に良くないことを理解している。理解の程度はともかく、「体に悪くない」と本気で思っている人は少数派である。それでも多くの人は、タバコによる健康被害とタバコから受ける恩恵を天秤にかけて、そのリスクを許容しているのである。禁煙活動に熱心な医療者がその熱意にもかかわらず(いや、その熱意ゆえに)空回りしてしまうのは、医療の本質が「価値交換」にあることを理解せず、彼らが共有していない、自分の価値観を押し売りしようとしてしまうからくる不全感からなのである。
僕たち医療者も案外、健康に悪いことを「許容」していることに自覚的でなければならない。寝不足、過労、ストレス、栄養過多、車の運転、飲酒、セックスなどなどなど。これらを許容しているのは僕らの恣意性と価値観(好み)以外に根拠はない。自分たちが原理的に体に良くないことをすべて排除していないのに、他者に原理的にそうあることを強要するのは、エゴである。僕は、医療者は、あくまでも医療は価値の交換作業であることに自覚的であり、謙虚であるべきだと思う。
こんなことを書くと僕は「喫煙推進派である」とかいって責められる(かげで書き込みされる)ことがあるが、そういうことを言いたいのではない。もし日本の社会がタバコによる健康被害を価値として(好みとして)許容しなくなったならば、そのときに日本における喫煙者は激減するだろう。それはかつて許容されていたが今は許容されないリスク、、、例えばシートベルトなしの運転とか、お酒の一気飲みとか、飲酒運転とか、問診表なしの予防接種とか、、、の様な形でもたらされるだろう。禁煙活動とは、自らの価値観を押し付けるのではなく、他者の価値観が自主的に変換されていくことを促す活動であるべきだろう。かつては社会が許容したお酒の一気飲みや飲酒運転が許容されなくなったように。
そんなわけで、原発もあくまでも価値の交換作業である。原発反対派の価値観は共有される人とされない人がいる。原発推進派も同様だ。そのバランスが原発の今後を決めると僕は思う。原発反対派も推進派も、究極的には自分たちの価値観を基準にしてものごとを主張しているのだと認識すべきだ。そして、自分の価値観を押し付けるのではなく、他者の価値観に耳を傾けるべきである。なぜならば、原発の未来は日本の価値観の総意が決めるのであり、総意は「聴く」こと以外からは得られないからである。
おそらくは、今の価値観(好み)から考えると、原発を日本で推進していくことを「好む」人は少なかろう。かといって電気がない状態を好む人も少ないと思う(他のエネルギーに代えることが必ずしも解決策ではなさそうなのは、先に述べた通り)。その先にあるのは、、、、ここからは発電の専門家の領域なので、僕は沈黙します。
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