日本代表とJリーグ選抜の試合を観ていた人は皆、カズに心を動かされずにはいられなかったはずだ。こういう試合のあんなときに、あんなゴールをこの人が決めるか、、、まるでサッカー漫画のような展開に僕は口あんぐり状態だった。本当にすごい人ですね。
年末に古い天皇杯をやっていて、昔の読売クラブと日産の試合を観たのだが、本当に隔世の感がある。プレJリーグの日本の選手は本当にレベルが低かった。カズが当時の日本のトッププレイヤーであったことは目立ち方から分かるのだが、動きに無駄が多く、ミスも多い。あのときのカズを今の時代に連れてきても、日本代表はおろか、J1でも通用しないのではないかと僕は思う(ウソだと思ったら、実際に当時の映像を見てみてください)。逆に言えば、そのくらいこの20年あまりで日本のサッカーは飛躍的に、驚異的に進歩したのである。
当時の日本は韓国に完全に力負け、実力負けしていた。その韓国はワールドカップにでても強豪国にこてんぱんにやられて予選突破すらできなかった。それくらい世界とアジア、アジアと日本の差は大きかったのである。ドーハの悲劇は、結果的には「悲劇だった」けど(そりゃ僕も嘆きましたよ)、今から冷静に思えば最終戦までひっぱって、力が上だった韓国に勝ったのがむしろ驚異的な奇跡だったのである。そのときも、その「奇跡」を起したのもカズだったのだけど。
カズの魅力は、そのカリスマ性、スター性につきる。彼よりもうまくて速くて強い選手は日本にはもちろんたくさんいる。遠藤のフリーキックは素晴らしかった。けれど、こういうチャリティーマッチで口をあんぐりさせるのは彼だけだ。そこが釜本とも、中田とも、本田とも長友とも違うところだと僕は思う。彼は「キング」としての自分のスター性に自覚的だし、また僕ら観客の彼に求めるものを良く理解している。そこには当然含羞もあるのだろうけど、「もう44歳でこんな試合には出られません」とは言わないのである。
ところで、ライターの杉山茂樹が微妙なニュアンスであれを「やらせ」だったのではないかと慇懃無礼な文章でカズを揶揄している。個人的には杉山氏の文章は僕の好みにはフィットしない(あまり好きではない)のでこの文章そのものにじかんをかけたくはない。ただ、あまりに出来すぎの展開にそういう思いがふっと頭をかすめた人も多いと思う。僕もちょっとかすめた。
もちろん、この試合は何が何でも勝つというコンペティティブな試合ではない。それは「手を抜く」というのとはちょっと違う。試合の持つ意味合いを勘案しながらそれぞれが全力でプレーをしていたはずだ。しかし、例えばリーグ戦ならあり得るだろう、超ディフェンシブな逃げ切り策とか、カード覚悟のインテンショナル・ファウルとか、時間稼ぎ的なプレーは「できなかった」はずだ。それは「手を抜く」というのとはちょっと違う。控えの選手が全員出場したのも、この種のチャリティーマッチでは常識だが、公式戦ではもちろん非常識だ(できないし)。もっというなら、本当にピクシーがこの試合に「絶対に」勝ちたかったらカズは試合に出していないはずだ(と僕は思う)。
通常2対0で勝っているチームが後半30分を過ぎていたら、もっとDFは固めるはずである。あのときのロングボールに、通常ならあんなにDFの枚数が少ないのは不自然である。でもこの試合は「そういう試合」だったのである。DFの森脇がFWのカズに振り切られそうになったら、公式戦なら後ろからでもタックルしていたかもしれない。でも「このような試合」では、もちろん出来ない相談のはずだ。
スポーツの世界でこのようなグレーゾーンがあるのは当然だと僕は思う。これはサッカーかどうか、日本かどうかとは関係ない。公式戦でもこのようなことはある。大差がついたプロ野球の試合で勝っているほうが送りバントをするだろうか。完全試合がかかった試合の9回裏ツーアウトで、露骨に四球を狙うバッターがいるだろうか。逆にサイクルヒットがかかった選手の最終打席で、敬遠するピッチャーがいるだろうか。大リーグであってもそれはないんじゃないだろうか。2得点したチームがPKをもらったら、「PKの一番うまい選手」よりハットトリックのかかった選手に蹴らせるのではないだろうか。こういう「暗黙の了解」は洋の東西、スポーツの種類に関係なく、程度の差こそあれ、普遍的に存在する。
スポーツの面白さは、相手を徹底的にたたきのめして勝つことだけではない。フェアプレーが望ましいのは、カードをもらうという戦略上のディスアドバンテージがイヤなだけではなく、フェアに戦うことが美しいからだ。バルサのサッカーが称賛されるのは、勝つからだけではない。そのことは杉山氏が一番ご存知のはずだ。勝利至上主義にクライフやペップが執着したのなら、もっと異なるチームになっていたはずだ。
ところで、相撲では「呼吸を合わせる」のが大事である。通俗的なフェアプレーの精神で、「八百長」が議論されているが、高橋秀実の「おすもうさん」を読むと、そもそも八百長かどうかみたいな「通俗的なスポーツ観」そのものが相撲の世界観にフィットしていないのがよく分かる。相手と呼吸を合わせることそのものが、「フェアに相手を倒す、、、相手の意向とは無関係に」というタイプの格闘技とは全然かみ合わないのである。ちょうど、中国人の世界観が日本人のそれにフィットしないのに無理やり当てはめようとするから中国が理解できない、と内田樹さんが「街場の中国論」で指摘するのと同じ構造である。両者に共通するのは想像力の欠如だ。自分の世界観を全ての世界に無理やり当てはめようとするから、断定的な否定口調、糾弾口調になる。そういえば杉山氏は相撲界も同じロジックで非難していたな。
カズがあの時、あの場面でシュートを打つ「場所」ができたのはああいうタイプの試合での皆が「全力を尽くして役割を果たし続けた」結果である。それは奇跡的な結果だが、そうなのである。それは「わざと手を抜いた八百長」という文脈で語られるべきではない、各選手の全力プレーの結果である。もちろん、カズの全力プレーも含めて、である。
『大人が呼吸を合わせるとき』……タイトルにシビれました。
投稿情報: 園田幸弘 | 2011/04/02 09:32
岩田先生の語りは、
くやしいぐらい
ストンときます。
投稿情報: ちんすこう | 2011/03/31 19:04
あのカズのゴールは、ベガルタ仙台伝説の岩本輝の50Mフリーキックと同じく、私には永遠に記憶に残るゴールです。泣きました。
日本の中に、こんなに明るくできるところがあることを知れてホッとしたし、平日なのに5万人も急遽あつまってくれて、サッカーの試合という「なくてもいいもの」をもりあげて、寄付もあつめていただいたこと、すべてに感謝します。普通にある風景が見れたことで、ホッとしています。人間が生きていくのには「余興」や「ものがたり」が必要なのです。どんどん楽しんで、経済も回してください。
投稿情報: 樋口じゅん | 2011/03/31 13:24