D「たしかに、馬に水を飲ませるのは不可能だ。岩田健太郎も「主体性は教えられるか」(ちくま選書)のなかで、研修医を主体的に仕向けるのは指導医にはできない、と書いている」
S「岩田健太郎、信用出来ないんじゃないんでしたっけ」
D「どんなやつだって、たまにはまともなことを言うんだよ」
S「でも、主体的に仕向けるのは無理ってことは、どうしようもないってことじゃないですか」
D「それは個人レベルでの問題だ。集団レベルなら、介入の余地はある」
S「どういうことですか」
D「日本人は「空気」によって動く民族だ。理屈やデータではなく、雰囲気ができれば右に倣えで動いてしまう。要するに主体性がないんだな」
S「ま、そういうところはありますね」
D「だから、チーム内で雰囲気作りをするんだ。発言する雰囲気、質問する雰囲気。おとなしい奴らだって、ロックコンサートの会場にいたら周りに触発されてノリノリになるだろ。同じだよ」
S「なるほど、活発に診療やカンファレンスに参加している雰囲気を醸し出してやれば、それにつられて積極的になるってことですね」
D「そういうこと。日本人は確かにおとなしい傾向はあるが、「そういう空気」を与えてやれば、いくらでもやんちゃになる。そうだろ?」
S「確かに。でも、それって実は主体的になってるんじゃなくて、そういう雰囲気に流されてるだけの、やはり受動的な人物なんじゃないんですか?」
D「そのとおりだよ」
S「それじゃ、だめじゃないですか」
D「だめなんかじゃない。言ったろ。他人の力でその人物を「主体的にする」なんて不可能だ。人間が主体的になる条件はただ一つ。その人物が主体的になりたいと思ったときだけだ」
S「だから、、、」
D「まあ聞け。確かに他人を主体的にするのは無理だが、「主体的であるかのように勘違いさせること」はできる。確かに、サクラを使って場の雰囲気を盛り上げて、発言や質問を増やしてもそれは一種の「ヤラセ」だ。そんなのにひっかかって、発言、質問が増えてもそれは主体的になったわけじゃない。主体的っぽくさせられているだけだ」
S「ですよね」
D「いいじゃないか。主体的っぽくなっているけど実は主体的でない勘違い。そうかもしれないが、少なくとも発言も質問もないどうしようもない研修医よりは遥かにマシだろ」
S「また、「どうしようもない」とか書くと、クレームきますよ」
D「だってどうしようもないんだからしようがないじゃないか。大学でて医師資格持ってるのに、発言も質問もできないなんてサイテーだ。そんなやつが生き馬の目を抜くこの臨床現場でまともな医者になれるわけがない。でも、たとえそれが儀式ではったりだろうと、ちゃんと発言し、ちゃんと質問していれば、それなりの医者に見えてくるだろ。形って大事なんだよ。形が人を作るんだ。そうやって周りに騙され、自分自身も騙しながら「主体的になってるゴッコ」をしているうちに、
「ゴッコ」と「本質」の境界線はあいまいになってくる。まあ、基本的に人間は自分を騙し騙し生きている存在だ。その1バリーエションってことだよ」
S「うう、なんだかよく分かりませんが、とにかくまた論破されたことだけは分かりました」
D「おとといやってこんかい!」
S「ちきりーん!」
第26回「主体性は教えられるか?」その2 終わり
続く。
この物語はフィクションであり、DとSも架空の指導医です。
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