いよいよ創刊です。
「感染症に詳しい」と自負したい人が、絶対に読まざるをえない雑誌のはずです。「俺は博覧強記な内科医だ」の人がNEJMを開いたことがない、はありえないように。ぜひ、開いてみてください。特定のトピックに興味のある人は、必ずあなたの興味のあるトピックを見出すでしょう。トーマス・ハクスレーのように「何かにおいてすべてを、すべてにおいてなにかを」を目指す人は、やはり本書に「それ」を見出すでしょう。
巻頭の言をここに引用します。
感染症がコンテンツ・リッチな領域であることは、ハリソン内科学を縦に置いて、背表紙の反対側から眺めてみれば、すぐ分かる。領域ごとにページが色分けされている。どの専門分野よりもページ数が多いのが感染症だ。ぼくはハリソン内科学の感染症のところを監訳していて、改めてこの領域のコンテンツが膨大なことに頭がクラクラしたのである。
コンテンツの豊かさは量の問題のみならず、質の問題でもある。医療が扱う問題は顕微鏡的であり、また望遠鏡的でもある。感染症の顕微鏡的な側面は毎日観察するグラム染色像から身体的に感得できるが、もっとミクロな分子生物学的領域もまた感染症世界を構成する一側面だ。マラリア原虫がいかにして人間の免疫機構を回避するのか。抗HIV薬はこの微細なウイルスのどの部分に作用するのか。微細さはどこまでいってもさらに微細である。逆に、マクロの視点もまた限りなくでかい。公衆衛生学や疫学、感染症流行の数理モデルから水の質管理、地球の温暖化、ジェンダーや貧困といった社会科学の扱う問題、さらには政治経済学までもが感染症世界の構成要素となっている。
コンテンツの豊かさはリスクでもある。我々「専門家」と呼ばれる存在ですら、感染症世界の全てを丸のままで睥睨し、咀嚼することはできない。研究者は研究者の、臨床家は臨床家の、公衆衛生、行政、検査、看護、薬事、、様々な立ち場から感染症世界は観察できるが、どの視点から感染症世界を観察しても、その世界全体は見えないのである。完全観察のできない、カントのいう「物自体」だ。だから、自分の視点を離れ、「鳥の目」で上から見たり「虫の目」で細かく見たり、あちらこちらから眺め回す必要があるのが感染症世界だ。フッサールの「間主観的」眺め回しだ。逆にこのような間主観性に無自覚でいると、己の見ている世界だけが世界の全てと勘違いし、夜郎自大な、雑な把握しかできなくなる。だからリスクなのだ。
質の問題は関係性の問題でもある。病原体とホストの関係性が感染症の像を構成する。感染経路がその流行を規定する。関係性そのものは目視できない。ネット社会において物量的な情報をいくら積み上げても感染症世界を把握したことにはならないのは、そのためだ。
そこで雑誌である。出版文化、雑誌文化は終焉を迎えつつあると嘆く向きもある。そうではない、とここで申し上げておきたい。
ネット・サーフィングという言葉があるが、我々は自由に情報の波を泳いでいるのではない。泳がされているのである。グーグルを使おうが、ヤフーを使おうが、そのアルゴリズム化された情報機構は我々に親和性の高い、「我々の見たい情報」しか見せてくれない。よって、情報量の多いネット社会においては、逆説的に我々はどんどん狭量になっていくのである。
感染症世界はコンテンツ・リッチでかつ多様である。世界の全ては睥睨できなくても、我々はそれを見たいという欲望を抑えきれない。そういう欲望こそが感染症屋の持つべきほとんど唯一のプロパティだ。
「己の知る、己の立ち場から見える世界」ではない世界を見てみたい。ぼくらはそれを「冒険」と呼ぶ。冒険は、リスク覚悟で自分たちの知らない未知の世界に飛び込んでいく営為だ。欲望のままに。「ネット・サーフィング」では味わえない感覚だ。
本誌が目論むのは読者諸氏を冒険にいざない、ワクワクさせることにある。そのために「仕掛け」をあちこちに施した。あちこち読み回して、それを発見してほしい。
本誌を手に取り、皆さんがドキドキ・ワクワクと頁をめくっていただければこの上ない幸いである。まるで子どもの時にむさぼり読んだ少年ジャンプのように。
最近のコメント