うちでよくやるぐるぐるシミュレーション(肺に空洞の出来る病気いってみよ、と1人ずつ言わせてぐるぐる回す遊び)。これ、繰り返していると鑑別リスト作りがうまくなります。症候からアプローチするのは勉強になります。とくに「空洞」みたいなよく「ひっかかる」キーワードの時は。
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うちでよくやるぐるぐるシミュレーション(肺に空洞の出来る病気いってみよ、と1人ずつ言わせてぐるぐる回す遊び)。これ、繰り返していると鑑別リスト作りがうまくなります。症候からアプローチするのは勉強になります。とくに「空洞」みたいなよく「ひっかかる」キーワードの時は。
投稿情報: 15:44 カテゴリー: 学生レポート | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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というお題で学生さんにレポートを書いてもらったが、もう一つ議論に深みがない。ワクチンが効くか効かぬか、ではなく「ホメオパシーやってる人の主張にどう答えるか」という課題だったのです。短期間でまとめるのは難しいんですね。論考とは時間をかけて行わねばならないのでしょう、、、
投稿情報: 15:42 カテゴリー: 学生レポート | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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報道に対して、感染症学会は丁寧にQ&Aを作っている。
http://www.kansensho.or.jp/
化療学会も声明があるが、こちらは今ひとつ
http://www.chemotherapy.or.jp/news/gakkai_80.html
環境感染学会
http://www.kankyokansen.org/new/100908_news_MDRAB.html
臨床微生物学会。厚労省からの情報のコピペのみ
http://www.jscm.org/
投稿情報: 14:17 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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ハイデガーの「存在と時間」を読んでいるが、全然分からない。訳の問題かと思ったら、おおむね翻訳の評判はよい。でも、言葉の意味が全然分からない。レヴィナスもすごく難しいし、ポストモダンのフーコーやバルトも難しいけれど、あれは「難しいことそのものを目指した難しさ」なんだな、と納得しながら読める。ハイデガーはページをめくるのが正直しんどい。どうしたらよいんでしょうね、、、、、
存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)
存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)
著者:ハイデガー | |
同時並行して読んでいるのがカントの「純粋理性批判」だが、こちらはめちゃくちゃにおもしろい。分かっているかどうかは自信ないけど、とにかく言葉に納得でき、ページをどんどんめくりたくなる。翻訳の問題かなあ。こちらの受容と需要の問題かしらん。
純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:イマヌエル カント | |
投稿情報: 11:24 カテゴリー: 本、映画、その他 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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国際学会に行かなくても内容が分かる世の中でありがたい。
新しいモップが病室をきれいにするとか
http://www.medscape.com/viewarticle/709367
人工弁のIEにダプトマイシンとホスホマイシンの併用はどや、とか
http://www.medscape.com/viewarticle/709135
フィダクソミシンというヤケクソのような薬が偽膜性腸炎にバンコマイシンよりよい?とか
http://www.medscape.com/viewarticle/728550?sssdmh=dm1.637314&src=nlconfnews&spon=3&uac=46045PX
おしりの培養で多剤耐性グラム陰性菌は見つかりまっせとか
http://www.medscape.com/viewarticle/728417
50回目のICAACは豊作のようです。
投稿情報: 11:04 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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匿名性の妥当性についてもう少し考えてみる。
例えば、ある殺人者に関する情報を市民が通報するとする。このときは匿名性が担保されないといけないと思うのが大勢の見方だろう。もしその殺人者が逮捕され、刑に服し、そして出所したとき本人から、あるいは出所しなくてもその仲間から報復される恐れがあるからである。一般市民が善意で善行をを行う場合、これは割に合わないリスクだ。これはベンサム的な功利主義的な理屈かもしれない、、、とサンデル先生なら言うかもしれない。
では、万が一その殺人者と思った実は無罪であった場合。その場合もこの「密告者」は罪に問われることもなければ、その冤罪の苦痛を受けた人に名前を告げる必要はない。この問題は少し微妙である。冤罪を受けた人も「善良な市民」かもしれない。自分を貶めたにっくき密告者の名前を教えろ、報復してやりたい、謝罪を求めたい、、、こういう感情がわき起こっても少しも不思議ではない。また、間違って密告し、ある無罪の市民を苦痛に陥れた「密告者」の道義的責任はあるのか、ないのか?
これについては「制度的に」密告者の安全は守られ、匿名性も維持されるのが通例だ。これは道義上と問題と言うより、その権利が担保されないと制度そのものが破綻してしまうという形式上の問題だと思う。密告した段階では自分の密告が正当かあるいは不当なのかは「事前には」知りようがない。しかし、たとえ不当な密告であるリスクがあったとしても、その不当な密告はチャラにしますよ、ということを事前に担保していないとこの通報制度は成り立たない。成り立たないから、チャラにするのである。しかし、密告された苦痛を被った冤罪をおわされた市民の名誉は泥にまみれたままで、それを密告者は制度的にも道義的にも補償することはない。
もし、その密告者が「実は密告したのは俺でした。ごめんなさい」と実名をあげ、顔を出して直接謝罪するとしたらどうだろう。多くの密告者は非密告者の知り合いである。家族かもしれない。配偶者かもしれない。このような謝罪は、「密告が善意で行われた場合」つまり、本当に殺人者であると密告者が勘違いしていた場合、すがすがしい告白となる可能性がある。これを美しい行為と考える人も多いのではないか。逆にこのような告白がなければ、非密告者は「俺をちくって陥れた奴は誰だ」と長い間疑心暗鬼になる可能性もある。その苦痛を責任ある匿名の密告者はどのように補償できるだろう。あるいは補償すべきなのか。
密告が「悪意で」行われた場合はどうだろう。当の犯罪の有無にかかわらず、ある人を「貶めてやれ、やっつけてやれ」という悪意の元での密告である。あるいはその人の没落が自身の出世につながっているかもしれない。この場合、その匿名性は正義の名に照らして正当な行為と言えるだろうか。
警察や検察が冤罪が起きても処罰されたり、「冤罪を理由に」起訴されたりしないのは、彼らが「善意でやった」結果なのだから仕方ないのだ、という前提がある。そこには僕らの警察や検察に対する信頼がある。警察や検察に対する信頼が完全に破綻すれば、冤罪は許容できない所行となる。同様の根拠で、僕たちは善意でやった医療の結果、望ましくない結果が生じたからと言ってその医療者を刑罰に処することは不当であると訴えている。
そうすると、ここでの問題は単なるベンサムの功利主義的な理屈を超えた「善意があるかないか」というより道徳、「徳」を考える問題になる。しかし、プラトンが「メノン」でソクラテスに語らせたように、何を持って有徳とするかの判断は極めて難しい。
では、ネットや雑誌の悪意に満ちた匿名のコメントは何を根拠にして許容されるのか。そのコメントがある人物を名指しで非難している場合はどうか。2ちゃんねるのような場合、あきらかな名誉毀損の場合はIPアドレスなどを特定して警察が匿名性を排除することができる。このことは、「実名をあげて人を罵倒するのに、匿名性を悪用することは許しません」という場合があることを意味している。では、どこまでが匿名による実名の非難・罵倒が許容できて、どこからはできないのか。この線引きは簡単ではないように思う。ただ、線が存在しない、つまり何をやってもかまわない、、、という暴論を支持する人は少ないだろう。警察への「間違った」匿名性のある密告が許容されるのはその「善意」が担保されているからだとすると、このような悪意に満ちたネットや雑誌のコメントは許容できないという理屈にはならないだろうか。
有名人や権力者はパワーや金を持っているのだから、そのくらいの罵倒は許容しろ、という意見もあるかもしれない。しかし、権力や金を持っているという根拠で懲らしめてもかまわないというナイーブな感覚を許容すると、彼らに対する不当な攻撃が容易に許容されてしまうことを意味する。現に日本ではこのようなナイーブな攻撃は安易に許容される。官僚が萎縮的になって真に重要なプラニングができないのも、このような不当な攻撃を回避するためである。医者が「立ち去ってしまう」のも同様の根拠だ。何かを有しているから攻撃してもかまわないというのは手前勝手な議論である。それが実名であれ、匿名であれ。
相手が権力者だろうが何だろうが、その名をあげて攻撃をするとき、その攻撃の正当性を担保するのは自分も実名をあげることである。自分だけは安全なところにいて人に石を投げるのを美しい行為とは普通考えないだろう。
勇気が美徳であることに異論は少ないだろうが、では勇気とは何かというと、パワーがありそれを行使することではない。アリを踏みつぶしてもそれは勇気とは言わない。酒に酔って暴言を吐くのも勇気ではない。自分が苦痛を受けるのを予測の上で、それを十分に認識した上であえてそのような行為に至ることを僕らは勇気と呼ぶ。勇気ある行為とはその人のパワーの有無とは関係なく、むしろパワーのない人物にこそ勇気ある行動のチャンスは大きい。匿名性を確保し、相手に攻撃されないことを承知の上で他人を罵倒するのはもちろん勇気ある行動ではない。その一方向性(ユニラテラリティー)を保証するのはなにか。相手が権力や金を持っていることはユニラテラルな攻撃の根拠とならないことは先に述べた。では、なぜどのような根拠でそれは許容されるのか。
さて、雑誌の記者はプロフェッショナルである。記事の内容のクレディビリティーが最大限に上がるよう努めるのがプロの本分である。プロの活動において、匿名性はそのクレディビリティーを下げることは先に書いた。医者やナースは実名で診療するし、学者は実名で論文を書く。裁判長は実名で判決を下す。これはプロの営為のクレディビリティーをあげるための工夫だ。ネームプレートもなく、スキー帽とサングラスで顔が見えないようにした医者の診療など(その医者の技量にかかわらず)誰が受けたいと思うだろう。顔も出さず、名前も公表しない裁判官の判決など誰が信頼するだろう。
匿名性がプロの営為のクレディビリティーを下げるのは明らかである。ということは、メディアにおいて匿名記事を書くということは、その記者は自ら進んで自分の記事のクレディビリティーを下げることに加担していることになる。このような奇妙な行為を何故とるのかというと、「クレディビリティーは犠牲にしてもよいから、要はおもしろおかしくて読者が喜んで(雑誌が売れれば)いいんだよ」という発想に基づいているのではないか。そして、日本のマスメディアが没落し続けているのは、この「内容はだめでもおもしろくて売れればいいんだ」という世界観に支配されてきたからなのではないのか。
さて、僕は先に「善意に基づいた行為は匿名性を担保するかもしれない」という話をした。しかし、そもそも「善意」はそれを担保する根拠になるのか。善意は善行を保証しない。むしろ善意に満ちた悪行ほど恐ろしいものはない。オウム真理教の信者は善意でサリンを蒔き、多くの国は善意であちこちの国に戦争を仕掛けた。原爆も「戦争を早く終わらせたい」という「善意」で落とされた(とアメリカは主張している)。
したがって、匿名性を担保するのは善意があるかどうかではなく、それが善行であったかどうかで議論されるべきなのだろうか。しかし、善行は結果論である。これを援用すると医療事故は善行という結果にならないという理由で処罰される。
善意も善行も絶対的な行動規範にならない。その規範が匿名性をどのように担保するのかは難しい問題である。
次に無記名投票について考える。無記名投票も匿名性を担保したシステムだ。無記名だから、あとであれこれ言われることもなく、自分の推挙する人物に投票できる。たとえ自分が支持する人が当選しなくても、あとで意趣返しされるリスクもヘッジできる。リスクヘッジ、ここでも功利主義的な原則に基づいている。
しかし、無記名投票にはそれそのもののリスクもある。自分の投票に責任をとらなくてもよいと担保されているのが無記名投票の(そして匿名性そのものの)特徴だから、いい加減な、無責任な投票を容易にする。あからさまな保身のための投票も正当な一票なら党派性丸出しのダーティ・ポリティックスに走った一票も同様だ。民主党代表選挙でも、ちゃんと国のことを考えて責任をもった票にするならば国会議員は全て自分の票を公開すべきだ、という意見があった。国会議員が投票先を公開しないと言うことは、「俺は国民に対して俺が何を考えているのか、教えるつもりはありませんよ」という意思表示である。それは国会議員に与えられた責任と権利に照らし合わせて、また国民から選ばれて今の自己があるという責任に照らし合わせて、果たして許容される行為なのか、ここは一考を要すると思う。
このように匿名性については非常に難しい問題だと僕は思う。匿名性が担保されてよい条件は、おそらくある。匿名性が倫理的にもプロフェッショナリズムの観点からも許容できないシチュエーションは、これもおそらくある。どちらとも言い難い微妙なシチュエーションも、やはりある。ここで大切なのは丁寧に各論的にどこがどこに所属するのかを突き詰めることで、信念的に「弱者を守るために匿名性は担保できなくてはならない」「匿名性は常に否定されるべきだ」という安易なスローガンを叫んではならないと言うことだ。どのシチュエーションにおいて誰に対してどのような根拠で匿名性は許容できるのか。これは一般化してはいけない問題なのである。一般化してはいけない問題ということは、安易なアナロジーや極論を使ってはいかん、という意味でもある。
最後まで読んでいただいた方、どうもありがとうございます。
投稿情報: 09:49 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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院内感染対策は専門性、総合力、そしてビジョンの問題
岩田健太郎
神戸大学医学部附属病院感染症内科
2010年9月9日の産経新聞によると、厚労省は「帝京大病院の多剤耐性アシネトバクターによる院内感染問題や国内で新型の耐性菌が検出されていることを受け」、多剤耐性菌の発生動向把握のための具体策の検討を始めたという。
厚労省が耐性菌の問題に注目することそのものには、特に問題はない。問題は「発生動向把握」のために策を練るという目的にある。
我が国の奇妙なところは、何か問題が生じると早急に何らかの対策を立てなければならない、と浮き足だってバタバタと走り出してしまうことにある。感染症対策、高齢者の戸籍問題など、ほとんど全ての問題が同じパターンで、同じ構造で、毎度毎度繰り返される。騒ぎ立て、「何とかしろ」というマスメディアとそれに呼応して政治的に正しく振る舞おうとする政治家が、「早くしろ、対策を立てろ」と急き立てるのである。我が国の官僚は常に多忙であるが、その割に生産性が低いのはこのような脊髄反射的な仕事に追われているためである。
すでに多剤耐性アシネトバクターは全国の多くの医療機関で検出されていることが分かっている。同等の耐性を持つ緑膿菌も、その他のグラム陰性菌も普遍的に日本中の病院に存在することは我々専門家は「昔から」分かっている。報じられたNDM-1産生菌についても、特に他の耐性菌と本質的に異なったり、対策に違いがあるものではない。つまり、日本の耐性菌問題は何年も何十年も恒常的に継続されている慢性的な問題なのである。慢性的な問題に可及的速やかな対策をとる根拠は二つしかない。メディア対策と政治的自己満足である。そこでは病院の医療者やそのユーザーたる患者の利益はまったく顧慮されていない。
なぜ、耐性菌の動向を把握するのか。この質問を先日、厚労省結核感染症課の官僚に尋ねたが、「それは耐性菌の状況を把握して情報提供し、耐性菌対策の助けにするためだ」と立て板に水のような「模範解答」が返ってきた。しかし、そのような机上の観念と現実は(他の多くの医療行政がそうであるように)かなりの乖離がある。
すでに耐性菌の報告システムは日本に存在している。例えば「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(いわゆる感染症法)」では、1999年より耐性緑膿菌の定点報告を義務づけており、その発生動向を調査している(2003年より5類感染症)。
しかし、この報告が医療現場の助けになることはほとんどない。なぜなら、耐性菌の情報とは「全国がどうなっていますよ」という情報ではなく、「うちの病院ではこうですよ」「私のいる病棟ではこうですよ」という情報こそが大切だからだ。こういう情報を我々はローカルな情報と呼ぶ。だから多くの病院では「アンチバイオグラム(病院や病棟における耐性菌情報)」を作成して、実地診療に役立てている。
では、行政として耐性菌の発生動向を把握する意味はないかというとそんなことはない。多剤耐性緑膿菌(MDRP)は日本で承認されている抗菌薬が全く効かない耐性菌である。したがって、その発生動向を調査すれば日本でこの菌が普遍的に検出されているリアルな問題であることが即座に理解できる。もし耐性菌情報を現場の医療に活かそうと官僚が本気で考えているのなら、「これではいかん」とMDRPの治療薬の緊急承認や普及に尽力を尽くすのが筋であろう。
しかし、厚労省はこれまで「耐性菌対策と医薬品承認・審査は担当が違う」「製薬メーカーから申請が来ていない」という誠に「官僚的な」言い訳で知らんぷりを決め込んでいた。対策もとらず、ただ病原体を届け出させて数を数えているのなら、これは子どもの夏休みの絵日記と同じである。「今日はとんぼを2匹見つけました」と日記に書くのと構造的に同じだ。
得られた情報に呼応する対策が講じられない限り、病原体の「届け出」には意味がない。それは「対策をとっていますよ」というポーズ、アリバイ作りにしかならない。あるいは研究者の研究材料にしかならない。現場の医療者は、そして患者はひとつも得をしないのである。
感染症対策の先進国であるオランダでも届け出感染症は存在する。ただし、「届け出することで対策をとり、公衆衛生的な介入をかけ、そして減らすことが可能な」感染症のみが届け出義務を有している。しかも、多忙な医療者の便宜を図り、報告は電話でもファックスでもメールでもOKである。これに対し、日本の感染症では多くの場合、「届けて何をするか不明瞭な感染症に」報告義務を課している。例えば、「急性ウイルス肝炎」には届け出義務があるが、急性肝炎を報告しても肝炎は絶対に減らない。もしウイルス性肝炎を本気で減らしたいのであればキャリア(ウイルスを有するが症状のない場合)の数を調べなければならないのだ。日本の届け出用紙は記載事項が多く、これも現場の医師には評判が悪い。デング熱の届け出をするのにどうして患者の住所や氏名が必要なのか。ヒトーヒト感染をしないデング熱の場合、発生数さえ把握できていれば感染対策上問題はない。感染対策を何故やるのか、という根源的な理由を理解しないまま多くの保健所は「報告を受けたので」という理由で患者の家に電話をかけて「情報収集に」あたっている。対策に寄与しない不要な個人情報の漏洩である。
このように、日本では感染症発生動向把握に対するビジョンやプリンシプル(原則)がないのである。動向を把握してどうしたいのだ?という目標がないのである。ただ場当たり的にメディアに呼応し、それを報告させて対策をとっているふりをする。これが重なって現場はますます疲弊するという構造である。
繰り返すが、日本の耐性菌問題は昨日今日起きた緊急の問題では決してない。長い間、我々専門家が必死で取り組んできた慢性的な問題である。プロが長い間取っ組み合ってきた問題であるということは、この問題に「イージーなソリューション(解決策)が存在しない」ことを明白に示唆している。イージーなソリューションがない問題に、安直な届出制度を作ることで「解決してしまったふり」をしてはならない。
耐性菌の問題は、耐性菌の数を数えたからといって解決するわけではない。検査の方法、日常の抗菌薬の適正使用、病棟における感染対策、そして耐性菌感染症の治療戦略など、たくさんの施策を重層的に駆使して対策する。病院の総合力が大切なのである。ならば厚労省がもっとも心を砕くべきは病院の総合力アップのための施策である。それは病院で感染症のプロがフルタイムでコミットしやすい施策であり、病棟が安全に運用されるための施策であり、抗菌薬が適正に使用される施策でもある。
一方、病院は「耐性菌対策のため」に存在するわけではない。過剰な耐性菌対策はコストもかかるし日常診療を圧迫する。日常診療を円滑に進めつつ、適切な感染症対策を継続する「塩梅」が大事になる。塩梅、微調整が必要となる問題については専門家がよくよく現場を俯瞰して、その場その場の「妥当な振る舞い」を決めなければならない。中央が一意的に計画書をたてるような対策法は、「塩梅」の重要な院内感染対策にはそぐわない。ことあるごとに厚労省や保健所が調査に入るような「労多くて益少ない」対策だけはごめん被りたい。
厚労省は何も慌てる必要はない。時間をかけるべきである。まずは多種多様な感染症の専門家の意見をじっくりと時間をかけて聞いてほしい。そしてなによりもまず最初に、我々はどのような院内感染のあり方を目指しているのか、ビジョンを明確にすべきである。病院が病院である限り院内感染はなくならない。なくならない、という前提でどこまでの対応が妥当なのか「塩梅」探しの模索をすることこそがビジョンの追求である
投稿情報: 17:32 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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集中という雑誌は立派なメディアであり、社会的に力がないとは考えづらい。役所が権力を発動して取材の妨害をする?とかいうシナリオはあると仮定しても、それは「集中」取材お断りになるので、個人の記者がどうこう言う問題ではない。匿名性を擁護するあまりに論理破綻が起きている。
多くのプロの社会では実名をあげるのは常識だ。学術界では「匿名」の論文は絶対に採用されない。医者が「匿名」で患者を診療することなどありえない。たとえモンスターペイシェントに攻撃されようと(そういう意味ではとても弱い立場にいるんだけど)、その点は譲れない。匿名性そのものが内容のクレディビリティーを下げるからである。同様の理由で新聞記事も多くの国では署名記事が常識である。匿名性を許容しないソサエティーなどそれこそたくさんあるのだ。それを狭量というのであれば狭量かもしれない。しかし、プロの世界はこのような制約くらいは乗り越えなさいよ、という厳しい世界である。
しつこいようだが、僕は匿名の全てを否定していない。「とにかく匿名はけしからん」と言っているようにしか見えないのです、、、と言われても知りません。アマチュアの世界ではOKです。もう一度文章をよく読んでくださいね。
プロの世界では実名が常識だよ、と申し上げているだけだ。医者はプロである。官僚もプロである。ジャーナリストもプロである。プロはプロとして最低限のルールとモラルを守る義務がある。寛大な社会とはなんでもありの社会とは違う。プロの物書きが実名をあげて官僚を非難するのに、自分は名前を出さないという品のなさを「弱い立場なのだから」と許容する理由はない。
投稿情報: 16:52 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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・3歳以下では菌血症の頻度が高く、適応は高い。
・感染巣が明確でないことが多く、その場合にも必要。
・小児における血液培養の適正な血液量とセット数
総血液量ml 採血量ml セット数 総採血量ml 採血量/総血液量の割合(%)
体重1kg以下50−99 2 1 2 4
1.1−2 100−200 2 2 4 4
2.1-12.7 >200 3? 2 6 3
12.8-36.3 >800 10 2 20 2.5
>36.3kg >2200 20 2 40 1.8
ポイントは、血液培養は体重1kg以下でも必要なこと、1.1キロあれば2セット必要なこと、36.3kgより大きければ大人と同じ採血量(40ml)なことである。
・採血量が小さい場合、嫌気ボトルは必要ないことが多い。
・例外は、口腔内感染、慢性副鼻腔炎、脳膿瘍、ヒト咬傷、レミエール症候群、腹腔内感染、肛門周囲の蜂窩織炎、潰瘍、ステロイド高容量服用中の好中球減少時発熱(腹部所見がマスクされるリスクあり)、前期破水18時間以上、母胎絨毛羊膜炎。
・抗菌薬が入る前に2セット。1セットとって抗菌薬入れて、次の日もう1セットはダメ。
参考 齋藤昭彦 ONE POINT MEMO 臨床検査ひとくちメモ モダンメディア 56巻4号 2010
投稿情報: 09:36 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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高知大学の荒川先生(感染制御部の荒川教授の息子にあらず)からです。丁寧な報告、ありがとうございました。
http://www.medical-bridge.jp/voice.html?tvid=12820103918967
みなさんも是非ご参加ください。いくつか事業があります(仕分けられなければ)。それ以外の地域からも、研修は可能です。ご相談ください。
http://www.medical-bridge.jp/index.html
http://www.gp-renkei.jp/
投稿情報: 15:47 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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