匿名性の妥当性についてもう少し考えてみる。
例えば、ある殺人者に関する情報を市民が通報するとする。このときは匿名性が担保されないといけないと思うのが大勢の見方だろう。もしその殺人者が逮捕され、刑に服し、そして出所したとき本人から、あるいは出所しなくてもその仲間から報復される恐れがあるからである。一般市民が善意で善行をを行う場合、これは割に合わないリスクだ。これはベンサム的な功利主義的な理屈かもしれない、、、とサンデル先生なら言うかもしれない。
では、万が一その殺人者と思った実は無罪であった場合。その場合もこの「密告者」は罪に問われることもなければ、その冤罪の苦痛を受けた人に名前を告げる必要はない。この問題は少し微妙である。冤罪を受けた人も「善良な市民」かもしれない。自分を貶めたにっくき密告者の名前を教えろ、報復してやりたい、謝罪を求めたい、、、こういう感情がわき起こっても少しも不思議ではない。また、間違って密告し、ある無罪の市民を苦痛に陥れた「密告者」の道義的責任はあるのか、ないのか?
これについては「制度的に」密告者の安全は守られ、匿名性も維持されるのが通例だ。これは道義上と問題と言うより、その権利が担保されないと制度そのものが破綻してしまうという形式上の問題だと思う。密告した段階では自分の密告が正当かあるいは不当なのかは「事前には」知りようがない。しかし、たとえ不当な密告であるリスクがあったとしても、その不当な密告はチャラにしますよ、ということを事前に担保していないとこの通報制度は成り立たない。成り立たないから、チャラにするのである。しかし、密告された苦痛を被った冤罪をおわされた市民の名誉は泥にまみれたままで、それを密告者は制度的にも道義的にも補償することはない。
もし、その密告者が「実は密告したのは俺でした。ごめんなさい」と実名をあげ、顔を出して直接謝罪するとしたらどうだろう。多くの密告者は非密告者の知り合いである。家族かもしれない。配偶者かもしれない。このような謝罪は、「密告が善意で行われた場合」つまり、本当に殺人者であると密告者が勘違いしていた場合、すがすがしい告白となる可能性がある。これを美しい行為と考える人も多いのではないか。逆にこのような告白がなければ、非密告者は「俺をちくって陥れた奴は誰だ」と長い間疑心暗鬼になる可能性もある。その苦痛を責任ある匿名の密告者はどのように補償できるだろう。あるいは補償すべきなのか。
密告が「悪意で」行われた場合はどうだろう。当の犯罪の有無にかかわらず、ある人を「貶めてやれ、やっつけてやれ」という悪意の元での密告である。あるいはその人の没落が自身の出世につながっているかもしれない。この場合、その匿名性は正義の名に照らして正当な行為と言えるだろうか。
警察や検察が冤罪が起きても処罰されたり、「冤罪を理由に」起訴されたりしないのは、彼らが「善意でやった」結果なのだから仕方ないのだ、という前提がある。そこには僕らの警察や検察に対する信頼がある。警察や検察に対する信頼が完全に破綻すれば、冤罪は許容できない所行となる。同様の根拠で、僕たちは善意でやった医療の結果、望ましくない結果が生じたからと言ってその医療者を刑罰に処することは不当であると訴えている。
そうすると、ここでの問題は単なるベンサムの功利主義的な理屈を超えた「善意があるかないか」というより道徳、「徳」を考える問題になる。しかし、プラトンが「メノン」でソクラテスに語らせたように、何を持って有徳とするかの判断は極めて難しい。
では、ネットや雑誌の悪意に満ちた匿名のコメントは何を根拠にして許容されるのか。そのコメントがある人物を名指しで非難している場合はどうか。2ちゃんねるのような場合、あきらかな名誉毀損の場合はIPアドレスなどを特定して警察が匿名性を排除することができる。このことは、「実名をあげて人を罵倒するのに、匿名性を悪用することは許しません」という場合があることを意味している。では、どこまでが匿名による実名の非難・罵倒が許容できて、どこからはできないのか。この線引きは簡単ではないように思う。ただ、線が存在しない、つまり何をやってもかまわない、、、という暴論を支持する人は少ないだろう。警察への「間違った」匿名性のある密告が許容されるのはその「善意」が担保されているからだとすると、このような悪意に満ちたネットや雑誌のコメントは許容できないという理屈にはならないだろうか。
有名人や権力者はパワーや金を持っているのだから、そのくらいの罵倒は許容しろ、という意見もあるかもしれない。しかし、権力や金を持っているという根拠で懲らしめてもかまわないというナイーブな感覚を許容すると、彼らに対する不当な攻撃が容易に許容されてしまうことを意味する。現に日本ではこのようなナイーブな攻撃は安易に許容される。官僚が萎縮的になって真に重要なプラニングができないのも、このような不当な攻撃を回避するためである。医者が「立ち去ってしまう」のも同様の根拠だ。何かを有しているから攻撃してもかまわないというのは手前勝手な議論である。それが実名であれ、匿名であれ。
相手が権力者だろうが何だろうが、その名をあげて攻撃をするとき、その攻撃の正当性を担保するのは自分も実名をあげることである。自分だけは安全なところにいて人に石を投げるのを美しい行為とは普通考えないだろう。
勇気が美徳であることに異論は少ないだろうが、では勇気とは何かというと、パワーがありそれを行使することではない。アリを踏みつぶしてもそれは勇気とは言わない。酒に酔って暴言を吐くのも勇気ではない。自分が苦痛を受けるのを予測の上で、それを十分に認識した上であえてそのような行為に至ることを僕らは勇気と呼ぶ。勇気ある行為とはその人のパワーの有無とは関係なく、むしろパワーのない人物にこそ勇気ある行動のチャンスは大きい。匿名性を確保し、相手に攻撃されないことを承知の上で他人を罵倒するのはもちろん勇気ある行動ではない。その一方向性(ユニラテラリティー)を保証するのはなにか。相手が権力や金を持っていることはユニラテラルな攻撃の根拠とならないことは先に述べた。では、なぜどのような根拠でそれは許容されるのか。
さて、雑誌の記者はプロフェッショナルである。記事の内容のクレディビリティーが最大限に上がるよう努めるのがプロの本分である。プロの活動において、匿名性はそのクレディビリティーを下げることは先に書いた。医者やナースは実名で診療するし、学者は実名で論文を書く。裁判長は実名で判決を下す。これはプロの営為のクレディビリティーをあげるための工夫だ。ネームプレートもなく、スキー帽とサングラスで顔が見えないようにした医者の診療など(その医者の技量にかかわらず)誰が受けたいと思うだろう。顔も出さず、名前も公表しない裁判官の判決など誰が信頼するだろう。
匿名性がプロの営為のクレディビリティーを下げるのは明らかである。ということは、メディアにおいて匿名記事を書くということは、その記者は自ら進んで自分の記事のクレディビリティーを下げることに加担していることになる。このような奇妙な行為を何故とるのかというと、「クレディビリティーは犠牲にしてもよいから、要はおもしろおかしくて読者が喜んで(雑誌が売れれば)いいんだよ」という発想に基づいているのではないか。そして、日本のマスメディアが没落し続けているのは、この「内容はだめでもおもしろくて売れればいいんだ」という世界観に支配されてきたからなのではないのか。
さて、僕は先に「善意に基づいた行為は匿名性を担保するかもしれない」という話をした。しかし、そもそも「善意」はそれを担保する根拠になるのか。善意は善行を保証しない。むしろ善意に満ちた悪行ほど恐ろしいものはない。オウム真理教の信者は善意でサリンを蒔き、多くの国は善意であちこちの国に戦争を仕掛けた。原爆も「戦争を早く終わらせたい」という「善意」で落とされた(とアメリカは主張している)。
したがって、匿名性を担保するのは善意があるかどうかではなく、それが善行であったかどうかで議論されるべきなのだろうか。しかし、善行は結果論である。これを援用すると医療事故は善行という結果にならないという理由で処罰される。
善意も善行も絶対的な行動規範にならない。その規範が匿名性をどのように担保するのかは難しい問題である。
次に無記名投票について考える。無記名投票も匿名性を担保したシステムだ。無記名だから、あとであれこれ言われることもなく、自分の推挙する人物に投票できる。たとえ自分が支持する人が当選しなくても、あとで意趣返しされるリスクもヘッジできる。リスクヘッジ、ここでも功利主義的な原則に基づいている。
しかし、無記名投票にはそれそのもののリスクもある。自分の投票に責任をとらなくてもよいと担保されているのが無記名投票の(そして匿名性そのものの)特徴だから、いい加減な、無責任な投票を容易にする。あからさまな保身のための投票も正当な一票なら党派性丸出しのダーティ・ポリティックスに走った一票も同様だ。民主党代表選挙でも、ちゃんと国のことを考えて責任をもった票にするならば国会議員は全て自分の票を公開すべきだ、という意見があった。国会議員が投票先を公開しないと言うことは、「俺は国民に対して俺が何を考えているのか、教えるつもりはありませんよ」という意思表示である。それは国会議員に与えられた責任と権利に照らし合わせて、また国民から選ばれて今の自己があるという責任に照らし合わせて、果たして許容される行為なのか、ここは一考を要すると思う。
このように匿名性については非常に難しい問題だと僕は思う。匿名性が担保されてよい条件は、おそらくある。匿名性が倫理的にもプロフェッショナリズムの観点からも許容できないシチュエーションは、これもおそらくある。どちらとも言い難い微妙なシチュエーションも、やはりある。ここで大切なのは丁寧に各論的にどこがどこに所属するのかを突き詰めることで、信念的に「弱者を守るために匿名性は担保できなくてはならない」「匿名性は常に否定されるべきだ」という安易なスローガンを叫んではならないと言うことだ。どのシチュエーションにおいて誰に対してどのような根拠で匿名性は許容できるのか。これは一般化してはいけない問題なのである。一般化してはいけない問題ということは、安易なアナロジーや極論を使ってはいかん、という意味でもある。
最後まで読んでいただいた方、どうもありがとうございます。
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