あれです。会議は本来、苦手なのだ。そのことを痛感した一日。短い時間で無理矢理コメントを引き出すのは、民放のバラエティ番組と同じ。これでは議論は深まらない。空回りする意志。進まない議論。
前回の会議の続きをやる、という話だったのが突然キャンセルだったので、うまくコメントできず。自分の振るまい方にも大いに反省の残る会だった。以下、用意した原稿。
広報の問題は、厚労省と感染症情報センターとの関係性の問題でもある。このような本質的な問題をほったらかしにしていてよいわけではない。なぜ、アメリカやオランダや香港にはCDC的な組織があり、日本にはないのか、もうすこし考えてみる必要がある。それを払拭すれば、今日議論した問題のほとんどは解決するはずなのに。
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前回の会議の時、正林さんの報告と尾身先生のステートメントを拝聴して私は強い懸念を感じました。それは、その長い長いステートメントの端々に、私たちの対策は正しい、というメッセージを感じ取ったからです。私たちは正しかった、ちゃんとアウトカムも出ている。あの当時全てのことは予見されていた、われわれはさいしょからすべてわかっていた、すべては正しく準備されていた、目標も達成できた。このような強いメッセージがこめられたステートメント。そのように私には聞こえました。
ヘーゲルの昔より、本来検証とは否定から始まります。自分たちは間違っていたのではないか、ここがおかしかったのではないか、正しいと思っていたことは勘違いだったのではないか、我々の功績と信じたことは単なる偶然、まぐれだったのではないか。このように徹底的な否定的、批判的、弁証法的な態度でものごとを見つめるのが「検証」のはずです。しかしながら、会議の初回にすでに全面肯定的な結論めいたステートメントがなされるということがあってよいのでしょうか。ましてや尾身先生はもしメディアの報ずるところが正しいのであれば、初回の会議に先立つ記者会見でも今回の対策は成功だった、という内容のコメントをされています。
通常、検証の後で結論です。最初に結論ありきの検証は検証ではありません。検証ごっこ、たんなるアリバイ作りになってしまいます。
われわれここにいるメンバーのほとんどが論文の審査をなさっていることと思います。論文の審査をするときに、「とりあえずこのペーパーはアクセプトすることになっているから。その前提で審査してね」と審査委員長に言われたらみなさんはどう思いますか?そんなバカな話があるか、と思うのではないでしょうか。審査は通常、疑いの目を持って見つめられます。文章が言いすぎになっていないか、交絡因子はないか、結論がおおげさになっていないか、データの解釈がまちがっていないか、前後関係と因果関係を勘違いしていないか、厳しい目で、批判的な目で審査するはずです。
そもそも論で申し上げるのならば、通常論文審査は論文執筆者自らが行うものではありません。通常は第三者が行うべきもののはずです。この会議のメンバーのほとんどは対策の当事者であります。それを当事者であえて総括をやるというのであれば、なおさらのこと自らを律し、より厳しい目で自らの行いを振り返る必要があるのではないでしょうか。前回の会議における数々のコメントはそういう厳しさを欠いた非常に甘いものでした。もし、このような甘えの構造が続くのであれば、議長と岩本先生、伊藤先生など当事者でなかったメンバー以外は全部取り替えて第三者で検証をやりなおすべきです。
死亡者が少なかったからよかったのではないか、アウトカムが出ているではないか、と安易に言ってはいけません。死亡者が少なかったことはもう分かっています。しかし、そもそも死者が少なかったことをよりどころにすべての議論がちゃらになるのであれば、この会議のレゾンデートルそのものがなくなってしまうのではないでしょうか。
日本は新生児死亡率、平均余命などを考えると世界でもトップレベルの健康指標のアウトカムを持っています。しかし、その一方で、「医療崩壊」というおぞましいキーワードが象徴するように医療の現場はぼろぼろです。「日本人は外国人より健康だから、いまのまんまでいいじゃん」なんてのんきなことを考えている人は、ここには一人もいないはずです。さすがに今では、厚労省の皆さんもそんな幻想を信じてはいないはずです。なぜならば、そのアウトカムはぎりぎりのところで、非常に危うい体制のなかで歯を食いしばりながら、やっとこさひねくりだしたものだからです。将来にわたって維持できるとは考えづらい状況だからです。現場にいる人間は全てそれを知っている。
SARSで日本に患者が出なかったのは何故でしょう。日本の対策が上手くいったからでしょうか。そういう側面もあるでしょうが、まぐれ、という要素も多分にあったはずです。香港はあのときSARSでたくさんの死者を出し、非常に痛い目に遭いました。そのときの教訓が骨身にしみて、2009年7月に私が視察にいったときには非常に堅牢なインフルエンザ対策を、日本よりも遙かに安定した対策をとっていました。結果オーライだった日本がやらなかったことをすべて香港ではやりました。おなじミステイクを、ここでおかすべきではありません。
尾身先生は過日の会議で、メールや電話ですべてのセクションと連絡を取り合って事情は全部ご存じだとおっしゃいましたが、失礼ながらそれは違います。先生がお話になったのは学会のトップだとか病院のトップだとか、いわゆる「偉い人」たちとの対話のはずです。実際にワクチンを接種された方、1日300人以上の患者が来た病院のドクターやナース、数十時間ぶっ続けで軽症の患者の入院ケアをした医療者、1時間に100件の電話を受けた相談センターの職員の生の声をどれだけ聞いたというのでしょう。
我々は正しかった、という前提でこの会議をし、総括をするということは、次に新興感染症がやってきたときに「同じことをやろうぜ」、ということを意味します。僕は、去年と同じことをまた繰り返せと言われたら、「冗談じゃないぜ、勘弁してくれよ」、と思います。おそらく、多くの現場の方は同じことを考えるはずです
昨年7月、輸入ワクチンを導入するか否かを検討した会議において、私は尾身先生や正林さんたちの前でこのように発言しました。ワクチンは輸入すべきであると。それが正しい選択という補償があるからではなく、逆に間違えるよりましだからだと。ワクチンが必要なのにワクチンがない状態は最悪である。しかし、ワクチンが不要であって間違って輸入してしまったのなら、ここにいる専門家がみんなで頭を下げてごめんなさいと言えばよいのだ。このように申しました。
誰だって間違いはやらかします。プロも例外ではありません。私はプロとして、自分が間違えることそのこと自体は恥ずかしいとは思いません。率直に間違いを認め、反省し、その反省を活かして明日から頑張るのみです。しかし、自分が間違っている可能性を頭から否定し、頑迷に正当性を主張し、私は悪くなかったと言い張るのは、これはプロとしてとても、とても恥ずかしい態度であります。
われわれがここでやるべきは検証であって、感傷に浸ることではありません。おれたちこんなにがんばったよな、会議も夜を徹してやったよな、というのは夜仲間と一杯やりながら語り合えばよいのです。この場で私たちは全ての甘えを捨てなければいけません。クールで冷徹な頭と、熱い正義感に満ちたハートを持って検証を行うべきです。
新型インフルエンザの問題で、ひとつ肯定的にとらえてよいことがあります。それは、今回の問題を通じて、新型インフルエンザという一疾患を通じて、日本の感染症界全体についての問題点が浮かび上がったことです。そしてそれを国民レベル、メディアを巻き込んだ大きな議論に消化できたことです。たとえば予防接種です。過日、上田局長は「不退転の」決意で予防接種のあり方を見直すと断言されました。厚労省がここまで踏み込んだ決意を示すのは私が知る限り初めてのことです。そのことを私は大変喜ばしいと思ったのです。
ここがチャンスです。ルビコン川を渡るべき分岐点です。ここで新型インフルエンザを通じて我々が改善すべきポイントをみんな出し切るべきなのです。それを、まあ、よかったんじゃない?的にお茶を濁して、改善のチャンスを自らつぶすような愚かな選択をしてはなりません。
検証は過去に対して行うものですが、過去のために行うものではありません。それは未来のために行うのです。次回、また新たな感染症がやってきたときに、日本でもっともっとましな対応ができるように、一所懸命考えるのがこの場のはずです。そして、叡智に満ちたこのメンバーであれば、それができると私は信じたいのです。
最後に、誤解のないように蛇足ながら申し上げますが、私は尾身先生の高潔で優しいお人柄をみじんにも疑っていません。なにしろ、学生時代からのアイコン、ヒーローですからね。15年前、まだ学生だったときにマニラで初めて尾見先生にお目にかかり、あつく国際保健の未来を語る姿は今でも覚えています。しかしながら、本会議に限定するならば、その議論の進め方に看過しがたい問題点を感じているだけです。日露戦争の乃木将軍ではないですが、人物の高潔と方法の正しさとを混同して論じてはなりません。分断して論じるべきだと申し上げているのです。
以上です。
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