EBICセミナーがあります。僕もひさしぶりに参加です。
http://www.ebic.jp/news/news_se12.html
今回は、スライドもハンドアウトもなしです。その理由は以下の通り。
パワーポイント資料を配付しない理由の説明(言い訳)
岩田健太郎 神戸大学病院 感染症内科
2010年4月27日、ニューヨーク・タイムズ紙にセンセーショナルな記事が掲載されました。「敵に出会った。その名はパワーポイント」というものでした。アフガニスタン攻略のための作戦を立案するときに米軍はパワーポイントを多用しましたが、そのことが知的営為を減らしてしまっている、という主旨でした。この記事は医学教育関係のメーリングリストに紹介され、世界中の反響を呼びました。多くは共感をもって迎えられました。なぜなら、パワーポイントは「話者の都合、話者の便利」には合致していますが、それが学びの向上に結びついたことはなかったからです。
パワーポイントの華麗なプレゼンテーションをパラパラ見ていると、我々は「分かったような気」になります。しかしその実、何も理解していないことも多いのです。理解していないのに理解しているような気分にさせる、そのようなトリックがパワーポイントにはあるのです。パワーポイントはプレゼンテーションには便利なソフトですから、そのしゃべりはスピードを増していきます。聴く者が考えるチャンスを失います。なんかよく分からんが、分かったような気になるのはそのためです。
多くの方が自分の頭でついて行くくらいのスピードで理解できるのは、実は黒板で板書するくらいのスピードなんだそうです。まあ、マシンガントークの岩田が何を言うか、という感じですが、僕も最近は反省して学生のレクチャーやナースとのワークショップは対話型にしており、こちらが一方的にしゃべくり倒すというスタイルを改めつつあります。
黒板、板書の時代に還れ、と年寄りじみたことを言っているのではありません。黒板、板書のプレゼンテーションはそれはそれで問題です。まず、アイコンタクトができません。おしりを向いていますからね。大勢を相手にする場合は、字が小さすぎて読めない、ということもあるでしょう。僕が学生時代は多くの教授は黒板に板書でしたが、それを有効に使っている人は希有でした。
実は、文字にする、そのことだけでも僕たちの知的労働は怠けに入ってしまうのです。みなさんは、アフリカ大陸に「文字のない社会」があるのをご存じでしょうか。情報は口伝えに代々先祖から子孫に伝えられます。ずいぶん遅れた、知的レベルの低い人たちだなあ、と思ってはいけません。彼らの知的営為は文字を残して頭に残すことをサボってしまう僕たちよりもはるかに高い部分もあるのです。そのことを看破したのが川田順造という文化人類学者でした。川田順造の師匠筋に当たるのが先日他界したレヴィ・ストロースです。レヴィ・ストロースは知的レベルが高いと信じていた西洋の価値観が、実は「価値の一つ」に過ぎないということをブラジルの森の中で発見し、それを看破したのでした。「構造主義」と今我々が呼んでいるものはレヴィ・ストロース(とソシュール)が成立させたのです。構造主義?そんな難しい話は私たちには関係ないわ、と思ってはいけません。今僕らが問題にしているインフルエンザの問題はまさに構造主義そのものを、つまりはシニフィアンとシニフィエ、名前と名前をつけられるものとの「関係性」に依存しているのです。
我々は、自分たちの考えや知識やコンセプトを人口に膾炙するために文字を発明し、活用してきました。マルティン・ルターが一所懸命聖書をドイツ語に訳したのがそうですし、グーテンベルグが活字を発明したのがそうですし、杉田玄白らが解体新書を作ったのも文字化の功績です。インターネットや電子メール、最近ではTwitterやらFacebookと呼ばれるものも文字の功績です。一般に知的コンセプトを広める際、文字はとても有用なツールです。
人々に何かのコンセプトを広げる有用なツールにテレビがあります。今ならYouTubeがそうでしょう。そういうツールを僕も活用しますし、全然否定はしません。
ただし、これらのツールは僕らが「ものを考える」上ではむしろ邪魔になります。サボってしまうからです。平坦な情報開示には文字や映像はよいでしょう。しかし、ものを考えるときには、我々は異なるツールを必要とします。
このことを最初に看破したのはギリシャの哲人、ソクラテスでした。ソクラテスは一切文字に残しませんでした、自分の考えを。ソクラテスの言葉はプラトンによって、その「対話篇」によって示されたのです。日本には「古事記」という書物があります。これは稗田阿礼という人が口述したものをまとめたものなんだそうです。古事記をまとめて、「古事記伝」を書いたのが江戸時代の本居宣長という人です。その宣長を現代に紹介したのは文芸評論家の小林秀雄でした。
小林秀雄は、レトリックを批判し、ダイアレクティクを推奨しました。レトリックとは、要するに「雄弁」です。説得と呼んでも良い。私はこんなに正しいですよ、と他人を説得するのです。しかし、小林は「説得」は学問としてはよろしくないことだ、と考えました。学問は説得することではない。自分が正しいと自己の正当性を主張し、他人の間違いをあげつらうことではない、と。
説得にかかると、全てのデータが自分の主張に都合良く移ります。自分に反する都合の悪いデータは否定にかかります。残念ながら、日本の学術界もこのような「説得」型の議論が多いです。曰く、タミフルを飲ませるのが正しいのか、どうか。ワクチンは1回がよいのか、2回か。私は正しい、あなたは正しくない、という定型でもって議論が行われます。これは、有り体に言うと、あまり賢い議論の仕方ではありません。
ダイアレクティクとは、簡単な言葉で言うと「対話」です。プラトンが、ソクラテスがやったことを指したのと同じです。今では辞書を引くと、ダイアレクティクは「弁証法」というややこしい訳がついています。これはヘーゲルというややこしい人が難しくしちゃったのでそういうめんどくさい名前になりました。
対話、つまり「自分はこんなに正しい」、ではなく、「自分は正しいんだろうか?」と問いをたてるのです。これに答えを与える。また問いを出す。答える。こういうことを繰り返していくと、なんとか妥当なゴールに近づいていく、こういうことです。
対話=ダイアレクティクに比べると、「私は正しい」=レトリックという主張は非常に幼稚な議論であることが分かります。残念ながら、日本の学術界は非常に幼稚な、僕の言う「白髪の小児」が多いのです。これではいけません。僕らは「自分はこれが分からない」「理解できない」「どうしてなんだろう」と問いを立て続けることだけが大事なのです。
残念ながら、感染症界も例外ではなく、残念ながら感染管理の世界も例外ではなく、感染管理看護師の多くもその例外ではない、と僕は申し上げなくてはいけません。「何が正しいの?教えてちょうだい?」というばかりで、自分で考えないのです。EBICセミナーでも、僕がしゃべると「岩田はこう言っていた」と丸呑みされてしまうのです。岩田の言っていることは、本当だろうか?と吟味する。問いをたてる態度がICNには必要です。ですから、こういうセミナーで僕らのしゃべることを一所懸命飲み込み、ハンドアウトにメモリ、それを取り出して「岩田がこういっていた」と開陳するのは、あまり意味がないのです。
ICNの黎明期であれば「CDCはこう言っている」みたいな事実を飲み込むことには意味がありますが、我が国の感染対策は、そろそろそういう時期を乗り越えるべきだと思います。CDCはなぜそう言うに至ったのか?それは妥当なのか?我々の現場にapplicableなのか?こういう吟味が必要です。
ハンドアウトの話がでました。「ハンドアウト」も、「抄録」も僕は原則渡したくないのです。そりゃ、当然です。ハンドアウトを渡すと言うことは、僕がしゃべり、主張し、結論づけるところがもう事前に決まってしまうからです。これはレトリックであり、一つ下のレベルの議論になります。なるほど、PTAの会や市民講座ではこのようなやり方もあるでしょうが、プロ集団を相手にする場合はもうすこし異なるやり方もあって良いと思います。落語家も真打ちレベルになると、何をしゃべるか決めずに高座に上がります。高座に上がって聴衆を見回して、彼らの顔つき、表情を見て「今日はこの題目でいこう」と決めるわけです。落語家は、一見一方的にしゃべっているように見えますが、実は聴衆の表情や呼吸を読んでしゃべっています。実は対話しているのです。ここでもディアレクティクなのです。
ハンドアウトを渡すと、議論の先が読めてしまいます。結論も決まってしまいます。また、メモを取るために目線は下に向き、話者とのアイコンタクトが妨げられます。周知のように、コミュニケーションの大部分はノンバーバル、言葉でない部分で行われます。アイコンタクトのない対話は実りが小さいのです。
新型インフルエンザを巡る問題は、答えよりも「問い」の多い問題です。「どうしたらよいか分からないから、答えをちょうだい」と我々が言うから、(できもしないのに)厚労省は一所懸命細かいガイドラインを作りました。これが我々の現場での営為を非常に困難にしたのは記憶に新しいところです。自分の頭で考え、判断し、決断しなければ、進行・再興感染症には立ち向かえないのです。もう、お上にお願いします、と丸投げにしてはいけないのです。我々はそろそろ、成熟したプロになるべきです。
そんなわけで、プロ集団であるEBICセミナーでは、僕はパワーポイントなしで、皆さんの目を見ながらお話ししたいと思います。皆さんも僕の目を見ながら話を聞いてください。メモを取る必要はありません。手を動かすのではなく、頭を一所懸命動かして、「私」はどう考えればよいのか、どうすればよいのか、一緒に悩みましょう。
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