昨日、某会議で某先生がとてもかっこいい発言をされる。僕は面倒くさくて傍観していたのだが、勇気ある発言だった。少し自分が恥ずかしくなった。自分の発言に責任と誇りを持つ、というのはこういうことだと思った。
今、ある漫画雑誌(週刊モーニング)にキャリア官僚のエッセイ(?)が載っている(「官僚の言い分」)。これがいけていない。「匿名」なのである。
「政府を批判するようなことは書けない」、からなのだそうだが、ばかじゃねえか、と思う。エッセイの内容はとるにたらない。官僚は世間で言われているほど悪いわけではない。優秀である。まじめである。そんな程度の文章である。この程度の内容、別に名前出して書いたって政府がどうこうするわけではない。第一、本気で政府を批判したいのなら、それこそちゃんと名前を出すべきだ。こそこそ匿名で漫画雑誌なんかに愚痴をこぼしても仕方がない。それじゃ、便所の落書きと同じ価値しかない。
要するに匿名にしておくのは、周囲にあれこれいわれたくないから、とかいう手前勝手な言い訳に過ぎない。甘ったれんじゃないよ。
何かを変えるということは現状にノーと言うことだ。誰かがそのとき不快に思う。それは避けられないことだ。誰も不快に思わない、ということは、何もしていないのと同じである。プロになったのだから、(ある程度)周りに迷惑をかけながら奮闘するのは当たり前だ。そのことに、自分の仕事の原罪的意味に、有責性に自覚的でなければいけない。
だからプロならば、ものを言うときは実名で行うべきだ。自らの有責性に自覚的である、とはそういう意味であるからだ。アマチュアであれば匿名はある程度許容できるが。たとえば、ペンネームや匿名の学術論文は絶対に許容されない。その内容に責任を持つ、という態度表明そのものが論文のクレディビリティーに直結しているからだ。今のデータベースがあれば、理論的には未来永劫、自分の論文は閲覧できる。論文の内容に「時」を超えて責任を取らねばならないのだ(そこが、学会ポスターとの違いだ)。
例外的に、患者のプライバシーやセキュリティーなどに直結する場合、プライベートなコミュニケーションをパブリックで行う場合(こないだはお疲れ様でした、みたいな)があるが、このようなことは極めてまれである。僕も、自分が見解を述べるときに匿名を使ったことは、1回しかない(これが「バイオテロと医師たち」である。このときはしようがありませんでした、、、)。最初に公に対する文章を書いた大学5年生のとき以来、ずっとそうである。
だから、僕は木村盛世さんとか村重直子さんとかはフェアだと思う。高山義治さんも、サンドバッグ状態覚悟で現場の医師と具体的な議論を実名で何度もやっていた。村重さんも高山さんも官僚辞めてしまわれたけど。僕自身の見解は、実は木村さんとも村重さんとも高山さんとも若干異なる部分があるが、「見解の相違」は問題ではない。見解の相違を許容し、議論と対話を継続できるのが大人である。多くの人が「見解の相違」が「人間関係の断絶」につながってしまう。幼児的態度だ。この国には、年を取った「幼児」が実に多い。
僕はこの前の総括会議で尾見先生の態度を批判するコメントをした。このことはとても心苦しいことだった。15年前、学生の僕はマニラに行き、国際保健の未来を語る尾見先生を神のように神々しく思った。世界で通用する医者になりたい、というのが僕の目指すところだったので、それを果たしている尾見先生は憧れの存在なのだ。
だから、文字通り胸を痛めながら、プロとしての矜持をなんとか踏ん張らせて、顔を歪めながら発言しているのである。出来レースの会議と想定されているのかもしれないが、こういうときは事情を知らない、空気を読めないふりをして振る舞うのが一番賢明である。議論にはかならず楔を入れるタイミングがあるからだ。流れを変えるポイントは必ずある。完全なる出来レースは存在しない。
そんなわけで、アマチュアならともかく、プロが匿名で尾見先生を悪く言うコメントをネットで流しているのを見ると、むかつく。こういう卑怯な態度は大嫌いだからだ。少なくとも尾見先生は卑怯ではない。普通の人は国の専門家諮問委員会の委員長なんて拝命したらあそこまで毅然とした態度はとれまい。ほとんどの官僚のように匿名でこそこそ仕事をしているわけでもない。
このブログにもいろいろコメントはもらうが、プロが匿名でコメントする場合、僕はたいてい無視している。自身のコメントに責任を持てないようならば、聞くに値しないからで、内容もたいていは無責任で軽いものになりがちだからだ。言いたいことがあれば、実名でどうぞ。
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