ようやくできました。この本は本当に難産でした。記録を見ると、少なくとも2013年から取っ組み合っています。ようやく世に出せました。長いけど「はじめに」を引用。
みなさん、こんにちは。岩田健太郎といいます。
ぼくは医者だ。専門はいろいろあるけど、とくに感染症をメインに取り組んでいる。
この本は性教育についての本だ。読者のみなさんのなかにも性教育、受けたことがある人もいると思う。ぼくは学校の先生じゃないんだけど、これまで長い間性教育に取り組んできて、ときどき学校で授業をやったりもしている。どうしてそうなったのかは、あとで説明するけど、まあそんなわけでこの本も書いているというわけだ。
みんなは「どうして数学を勉強しなきゃいけないの?おとなになったら方程式とか使わないのに」とか、「歴史の授業なんて本当に意味があるんだろうか」なんて考えたことないかな。とくに試験の前で「勉強なんてイヤだ」モードになった時はそういう気分にならないかい。ぼくはよくそんな気分になったな。
で、ここでは「どうして性を学ばなければならないの?」という疑問を考えてみたいと思う。
どうしてかというと「性教育なんて必要ない」と反対している大人もいるからなんだ。
さあ、そこでみんなに考えてほしい疑問その1。なんで多くの日本の大人は「性教育なんて必要ない」と思っているんだろう。
そして、疑問その2.その意見は正しいんだろうか。
さらに疑問その3。仮にそういう大人の意見が正しくなくて、やっぱり性教育が必要なんだ、としようか。では、「正しい性教育」、「必要な性教育」ってどういうものなんだろうか。文部科学省は学習指導要領に小学校、中学校、高校における性教育について記載している。「そういうの」があるべき性教育なんだろうか。
というわけで、本書はまず日本の性教育の歴史を振り返る。そして、性教育の必然性について考える。必然性っていうのは「それがなくてはならない理由」ってことだ。鉛筆があるのは、それがないと困るからだ。では、性教育はないと困るんだろうか。鉛筆がないと困るように。
つぎに、本書では性教育はどうあるべきか、を考える。どんな教育でもよい方法とそうでない方法があるんだと思う。では、「よい性教育」とはどんな性教育なんだろう。それもいっしょに考えてみたい。ぼくが現在実践している性教育をそこで紹介してみたい。
さらに、もうひとつ。本書が他の性教育本(?)と大きく違う点なんだけど、最後に「絶対恋愛」の可能性を論じてみる。絶対恋愛ってなんや?って、みなさん思うだろうけど、この話はややこしいので、あとでゆっくり説明する。もっとも、ややこしくて説明はちょっと長くなるけど、全然難しい話ではないのでご心配なく。そしてお楽しみに。
ところで、ぼくみたいな医者がなんで性教育をテーマにした本を書くんだろう。まずはそれを説明したい。
ぼくは感染症のプロなんだけど、世の中には本当にたくさんの感染症があるんだ。みんなが聞いたことがありそうな感染症としては、たとえば、エボラ出血熱。2014年にアフリカで流行したこの感染症は世界を震撼させた。実はぼくも2014年の12月から1ヶ月程度西アフリカのシエラレオネにWHO(世界保健機関)のコンサルタントとしてエボラ対策に取り組んでいた。当時はたくさんの人がエボラで亡くなっていたから、その対策はけっこう大変だった。
感染症の対策としてはざっくり大きく分けると治療と予防に分けられる。治療はエボラになった患者さんを治すことで、予防はエボラになってない患者さんがエボラにならないようにすることだ。
感染症を予防するためには、感染症がどのようにして起きるかを知っておかねばならない。例えば、風邪はくしゃみや咳で感染する感染症だ。だから、咳で伝染らないようにマスクをしたり、咳をするとき腕で口の前をおおったりするんだ(こういうのを咳エチケットといいます)。
エボラの場合は、エボラウイルスの入っている患者の体液を触ることで感染する。汗とか、涙とか、血液とか、唾液(つば)とか。とにかく患者には素手で触らないようにしないといけない。こういう指導が「予防対策」ということになる。
ところが、エボラについてはあまり知られていない事実があるんだ。それは、エボラがセックス(性行為)でうつるということ。
セックスによってうつる感染症を性感染症と呼ぶ。英語ではsexually transmitted diseasesという。Sexually は「sexで」という副詞、transmittedは伝染るという意味、で、diseasesは病気のことだ。略してSTD(エス・ティー・ディー)とも呼ぶ。
エボラもセックスで感染する。だから、エボラも大きな意味ではSTDの一種なんだ。実際、エボラにかかった男性患者が回復しても、数ヶ月も精液の中からはエボラ・ウイルスが見つかることがある。エボラが治ったと喜んでセックスしてしまうと、相手にもエボラが伝染ってしまう。
ぼくたちはエボラ出血熱から回復した患者をサバイバー(生存者)と呼んでいた。エボラは死亡率が高いから、まさに「生き残った」って感じだったんだ。けれども、彼らが他の人にエボラう・ウイルスを感染させるのは困る。そこで、こういうサバイバーたちに適切な性教育を行い、彼らの大切なパートナーや家族がエボラの危険に晒されたりしないよう取り組んできた。
本稿執筆時点(2016年7月)では、ブラジルなど多くの国で猛威を振るっているのがジカ熱だ。これは蚊に刺されて感染するウイルス感染で、妊婦が感染すると胎児に小頭症という先天奇形が起きる可能性がある。大変な問題だ。
ジカ熱は昔からある病気だけど、蚊がうつす病気なので人からは直接感染しないと思われてきた。ところが、最近になってジカ熱がセックスで感染することが判明したんだ。つまりジカ熱もまた、STDの側面を持っているってことだ。
エボラ出血熱やジカ熱のみならず、世の中にはたくさんのSTDがある。梅毒(ばいどく)、クラミジア感染、そしてエイズ。
ぼくたち感染症のプロは、たくさんのSTDと日夜取っ組み合っている。梅毒やクラミジアは抗生物質で治療ができる。でも、エボラやジカ熱には有効な治療薬はまだない。それに、梅毒はときに神経や血管に重い後遺症を残す。クラミジアも女性の不妊の原因になったりする。診断が遅れれば、抗生物質もこうした合併症を克服できない。なかなかやっかいだ。「薬を飲めば、大丈夫」という簡単な病気じゃあないってことだ。
それから、忘れちゃいけないのがエイズ。あとで詳しく説明するけど、日本ではHIVというエイズの原因ウイルスに感染している人が年々増加している。これも深刻な問題だ。
感染症は治療も大事だけど、同じくらい、いやそれ以上に予防も大事だ。エボラのところでそれは言ったよね。病気は治すことより、かからないことのほうが遥かに大切なんだ。
STD=性感染症を予防する方法はいくつかある。でも、いちばんパワフルな予防法は性教育だ。性を学ぶ理由のひとつが、ここにある。一見、性教育とは関係なさそうな内科医のぼくが、長い間性教育に関わってきた理由もそこにある。
性感染症(STD)はセックスによって起きる。性教育があれば、そのリスクを回避できる(可能性が高い)。
いや、STDだけじゃない。他にもセックスにはいろんなリスクがついてまわる。たぶん、そういうリスクは、みんなが想像しているよりもずっとたくさんある。そういうリスクを回避するにも、性教育は有効だ。どんなリスクがあるのかってことはあとで詳しく説明する。
学校教育の目的はたくさんある。でも、そのなかでも特に大事なのは「生き延びるためのスキルを学ぶこと」だとぼくは思う。文部科学省も学習指導要領のなかで「生きる力」と銘打っている。
「生きる力」「生き延びるためのスキル」というのは、リスクを回避したり、リスクを克服する能力だと言い換えてもよい。しかし、リスクを回避したり克服するには、まずそのリスクを認識できないとだめだ。認識できないリスクは回避も克服も不可能だ。
セックスにまつわるリスクがある。感染症もその一つだが、それだけじゃない。そういうリスクを回避し、あるいは克服するにはセックスにまつわるリスクの認識が不可欠だ。どうやったらその認識が可能になるか。
それは「学び」による以外に他はない。よって教育が必須ということになる。
でも、すでに述べたように世の中には「性教育なんて必要ない」「寝た子を起こすな」と性教育に否定的な見解を持つ人もたくさんいる。しかし、そのような見解は短見というものだ。それが短見である理由も本書で解き明かしていく。
ただし、本書はそこで終わりにはならない。
ぼくの本は、たいてい二重仕掛けだ。
以前、「一秒もムダに生きない」(光文社新書)という本を書いたことがある。これは一種のタイム・マネジメントの本で、時間をいかに有効に活用するか、そのスキルを伝授する本だった。
でも、この本はただのスキル集じゃない。単に時間を有効に使うだけでは、時間に追われる悲しい人生にしかならない。
ミヒャエル・エンデは「モモ」という童話の中で「時間泥棒」を紹介していた。あくせくと時間に追われて生きる虚しい人生がそこにはあった。それじゃだめで、スキルを使って獲得した時間をどうやって使うかが大事だ。大切な家族との時間、ゆっくりとした思考の時間、豊かな生活のための時間に転じる必要があるのだ。それがなければ、時間を削り取るスキルを獲得しても意味なんてない。そこを伝えずに、単に時間を削り取るスキルばかり紹介しても、意味がないとぼくは思っている。
同じように、セックスに関するリスクを認識し、回避し、克服するスキルだけ学んでも不十分だとぼくは思う。本書も、単なるリスク回避のスキル本、マニュアル本にはしたくない。
いったんある議論を展開しておいて、それを否定し、ひっくり返すような議論を弁証法的な議論とここでは呼んでおきたい。
みんなが学校で学ぶことはたいてい「正しいと分かっていること、正しいと決まっていること」だ。だから、教わったことをそのまま受け入れ、記憶し、飲み込めばいい。
でも、勉強科目の全てが「正しいと分かっていること、正しいと決まっていること」とは限らない。「それが正しいんですね」と素直に受け入れる勉強もあるけれど、「それは本当に正しいんだろうか」と疑ったり、悩んだりする勉強もあるんだ。
日本ではこういう「疑う」「問う」「悩む」タイプの勉強が少なすぎるとぼくは思っている。性教育にもそういう「疑う」「問う」「悩む」部分を残しておきたい。否定したり、ひっくり返したりしながら「グズグズと悩む、考える」弁証法的な議論をしたい。
そういうわけで、本書でも「生き延びるための」方策としての性教育の必要性をまずは論じていきたい。けれども、その議論の先にあるものは「それだけではだめだ」なんだ。弁証法的な議論というわけだ。
時間を削りとるだけのタイム・マネジメントは虚しい。同じように、リスク回避、安全追求のためだけの性教育も等しく虚しいとぼくは思う。そこから導き出された本書の後半に出てくるのが「絶対恋愛」の存在可能性、というわけだ(まだ全然説明してないけど)。みんなに疑い、問い、悩んでほしいところだ。
投稿情報: 09:05 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (0)
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内田樹先生と姜尚中氏の「世界「最終」戦争論」を読んでいる。不寛容が怒りを醸造し、テロなどの攻撃の連鎖を生み、さらに差別の構造が先鋭化するという悪循環。大戦後のフランスの無反省がその遠因になっている、「フランス(ここではヴィシー政権のこと)は敗戦国である」という事実を隠蔽した「最大の罪」が看破される、、、
特に内田先生の次の一言は一般性がある。一般性、というのは他の問題についても適応可能だ、ということだ。
「誤解している人が多いですけど、知識人の知性は、他人の欠陥をあげつらうときの舌鋒の鋭さによってではなく、自分の犯した失敗や罪過について、その由来や成り立ちを明快に説明できるかどうかによって判定されるべきものなのです。おのれの失敗をクリアカットな言葉で記述し説明できるなら、知識人の知性は、それ以外の論件についても、適切に機能する可能性が高い」
さて、ようやく長谷川氏の話に戻る。
長谷川氏は自堕落な生活をおくったがゆえに病気になり、日本の医療制度を利用して多額の医療費を使っている事例を見たか、誰かに聞いたかして憤慨したのだと思う。それはアンフェアであると。また、そのようなアンフェアな事例が日本の財政事情を悪化させており、その結果暗澹たる未来が訪れるに違いないのだと。「今のシステムは日本を滅ぼすだけだ!!」というセリフは彼の公憤、義憤の表現なのだと思う。
このような意見は昔からあった。医療費亡国論である。そして、その意見は必ずしも暴論ではない。医療費は無尽蔵に捻出できるものではない。その医療費はどんどん増加し続けている。医療費の原資は保険料や税金やその背後に隠れた借金だが、今後はその支払い手はどんどん減少する。現在のように医療費が無尽蔵であるかのような医療費の使い方をしていたら、現行の医療制度は破綻する。「滅ぼすだけだ」というわけだ。
よって、長谷川氏は悪意の人ではない。むしろ(主観的には)善意の人であろう。彼を悪辣非道で残虐な人物と解釈するとこの問題は水掛け論になる。だから、現在起きつつある長谷川バッシングには賛成しない。それはまたもう一つのイジメの構造を作るだけだ。
もちろん、善意だからよいと言っているのではない。うかつでナイーブな善意は悪意よりもやっかいだ。長谷川氏は、そういう意味で実にうかつだったとは言える。ただ、繰り返すが人間が迂闊であるという理由でいじめられてよいとはぼくは思わない。生活習慣を根拠に透析患者をバッシングしてはならないのと同じ根拠で、だ。
長谷川氏は文章表現の問題で致命的なエラーをしている。表現が過激とかいうところではない。より深刻な問題は文章の両義性だ。つまり、「自業自得の透析患者」という表現だ。「自業自得の」が限定句としてもちいているか、形容句としてもちいるかで
自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担せよ!
の意味は異なってくるのだ。
A 人工透析患者という群の中に「自業自得である人工透析患者」がいて、そのサブグループに限定して「全員実費負担せよ」と意見しているのか、
B 人工透析患者とは自業自得である。そして彼らに全員実費負担させよ、と主張しているのか、
がはっきりしない。両義的な文章なのだ。
長谷川氏はおそらく前者の意味で用いたのだろう。多くの人(とくに透析患者)は後者の意味にうけとって憤ったのだろう。言葉のプロたるべき元アナウンサーとしては致命的なエラーであったと思う。しかし、ヒューマンエラーなのだから、さっさと謝罪して撤回すればよかった。それをしなかったのはもっと重大な、(文字通り)致命的なエラーであった。冒頭の内田先生の言葉が思い出される。
しかし、仮に長谷川氏が(彼の定義する)「自業自得である人工透析患者」というサブグループを批判していたとしても、この意見にぼくは同意しない。
透析患者の相当数は糖尿病患者である。では、糖尿病は「自業自得の」疾患であろうか。
1型糖尿病はそうではない、と多くは思うであろう。では、タイプ2はどうか。糖尿病の発病機序をレビューするとそうとはいえないことが分かる。そこには遺伝的な素因があり、生活習慣があり、母体の体内での育ち方があり、あるいは(ステロイドなど)医薬品の影響がある。あるいは(悲しいことだが)医者の処方が適切でなかった場合もある。糖尿病患者の腎疾患を予防できるというエビデンスは豊富ではなく、そしてそのようなエビデンスに基づいた治療を多くの糖尿病患者は受けていない。
生活習慣「だけ」で糖尿病になることはむしろ珍しく、また仮にそのような事例があったとしてもそうと(生活習慣以外の要素がゼロである)証明することは極めて難しい。だから、同じ生活習慣をもっていてもある人は糖尿病となり、別の人は糖尿病にならない。また、「生活習慣」といってもそれが運動の話をしているのか、食事の話をしているのか、その食事のカロリー数の話をしているのか、あるいは個別な栄養素の話をしているのか。
多くの疾患の発症はこのように複合的な要因で起きる。ボタンを押すとジュースが出てくる自動販売機のように、その因果関係はシンプルではない。AをやったからBという病気になったのだ、とシンプルな因果を作ることができない。
同じ生活習慣をもっていても、糖尿病になる人と、ならない人がいる。もし疾患が(神かだれかが与えた)不道徳に対する罰だとすれば、これはアンフェアだということになる。罰であれば、同じ基準で同じ罰となるべきであろう。
疾患は罰ではない。それは複合的に起きた現象に過ぎず、自然界や生命現象には人間的な善悪の基準を持たない。ぼくがよくみる性感染症も、したがって罰ではない。性行動にも微生物にもそのような観念は備わっていない。備えたのは後知恵でそう説明しようとする人間だけである。
もし、医療者が交通事故の外傷患者に対して、「この人の事故は自業自得の事故なのか、不可避で気の毒な被害者にすぎないのか」を度量してから患者の治療するか否かを判断したらどうだろう。長谷川氏の主張は「そういうこと」である。しかし、そのような判断をするのは司法の仕事である。医療の仕事ではない。道路交通法に違反した人は法律に従って罰せられるのであり、医療が「こいつはひどい運転をして事故ったのだから助けてやらない」といえば二重罰になる。医療には患者にそのような二重罰を与える権利はない。同様の根拠で透析患者に処罰的な態度をとる権利は我々にはない。
そしてもし、医療が患者の素行を評価し、それが自業自得に値するのか評価しようと試みると何が起きるか。患者は沈黙し、自らの生活習慣を完全に沈黙するようになるだろう。そして医療サイドと患者のコミュニュケーションは著しく阻害されるようになるだろう。医療者は患者のどこに健康問題の根っこが存在し、どこに介入したらよいのか全く分からなくなってしまうだろう。そして患者の健康という一番大事なアウトカムは得られなくなるだろう。
というわけで、ぼくは長谷川氏の「自業自得論」には賛成しない。一つは医療には患者の「自業自得」性を度量する能力を持たない。疾患は司法以上に複雑な振る舞いだ(ぼくが医療を裁判で評価するのに基本的に反対なのはそのためだ)。つぎに、道義的な理由において、医療には自業自得を罰する資格がない。最後に、自業自得論は医療の質を落とす。医療の質が低い国家というレッテルを張られることによって、日本の国益を損なう結果になるだろう。
医療のコストと倫理の問題は深刻だ。実際、血液透析という技術の黎明期にはこのテクノロジーは希少なテクノロジーで、だれにそのテクノロジーを提供するか、倫理的な議論が行われた。そのときに、「より価値の高い人間」が優先的に透析を受けるべきだ、という意見がでたが、なにをもって「より高い価値」とみなすかの基準が見つからずに、ほどなくこのナイーブな見解は棄却された。人間が人間の生命に優先順位をつけるなど、一種の優生思想だからだ。例えば、刑務所にいる受刑者でも、受刑者でない人間よりも医療の優先順位を勝手に下げることは許されない。感情に溺れて行った判断はアンエシカルな判断になりがちである、という厳しい教訓で、我々はしばしばこの手の間違いを行っている。肥満者や喫煙者を医療から締め出せ、と思っている人は一般の方にも、医療者にもとても多い。長谷川氏がプリミティブでカリカチュアな表現をしたためにそのへんが先鋭的になっているけれども、彼みたいな考え方は実はそんなに珍しくはない。だから、非常に危険なのだ。
http://cjasn.asnjournals.org/content/6/9/2313.long
http://medicalxpress.com/news/2016-02-history-hemodialysis-ethical-limited-medical.html
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2003dir/n2547dir/n2547_06.htm#00
他者への寛容が個人を、そして国家を救う大切な手段である。それは目的でもある。それを忘れた時、不寛容をよしと考えるようになった時、個人も医療も国家も、その自らの不寛容のために復讐されるのである。
投稿情報: 15:31 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (0)
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以下、明日からの診療に全く役に立たない話です。
以前から「これは抗生物質というのは間違いで、本来ならば抗菌薬と呼ぶべきところだ」みたいなコメントに奇異を感じていた。そもそも、そんな区別をつけることに意味があるのだろうか?意味がないのであれば、なぜそのような区別に拘る必要があるのか?と思っていたのだが、素朴な感想で終わってしまい、それ以上調べてみることはなかった。
「サルバルサン戦記」で書いたように、世界で初めての「抗生物質」は1910年のサルバルサンで、パウル・エールリッヒと秦佐八郎が開発した。当時は「抗生物質」といったジャンルは存在せず、エールリッヒはこれをChemotherapieと呼んだ。化学物質によってピンポイントで病気の原因を狙い打ちにし、病気の原因を直接叩くことで病気を治すという方法だから、Chemotherapieと呼んだのだ。
ひまし油を飲ませたり、瀉血をしたりという現象面での治療が主体だった医学の世界において、画期的なパラダイムシフトであり、そのパラダイムと原則は現在の分子標的薬など、モダンな治療にも生きている。秦はこれを当初「化學的療法」と訳し(講義 化學的療法ノ研究 1911 (明治44年)「秦佐八郎論説集」(北里研究所・北里大学)収載)、後に「化學療法」と呼んだ(講演 化學療法ノ一班 同上収載。大正時代の講演か?)。秦の先輩だった志賀潔もサルバルサンを「化学療法」と呼んでいる(「化学療法の現実」昭和24年 「志賀潔」(日本図書センター)収載)。
日本臨床第一巻第一号は昭和18年(1943年)6月に発刊されている。ここに新潟医科大学の柴田經らによる「肺炎に使用される新ズルォフンアミド剤に就て」という論文が載っているが、この薬に対する一般的呼称は用いられていない。「ペニシリン注射も肺炎治療には偉功を奏すと伝えられているが、私は経験をもたない」と書かれている(新仮名遣に改めた)。日本で「碧素」が作られたのが翌1944年である。当時の医学界では感染症治療薬の一般呼称はなかったか、あっても一般的でなかった可能性がある。
昭和32年(1957年)4月の日本臨床では、「抗生物質」というタイトルの総説がある(東京大学小児科 藤井良知)。「抗生物質が実用化されて約10年間、、、」という冒頭で始まるこの総説では特に抗生物質の定義はなされていない。ペニシリンショックが問題となった時期だ。
「医科薬理学」第三版(1998、南山堂)によると、「そんななか、微生物が産生し、腫瘍細胞など動物細胞の増殖を抑制する物質や免疫系細胞の機能を抑制 する物質(例、シクロスポリン)が現れるに及んで、抗生物質の定義に混乱が起こってきた。1972年、梅沢浜夫はこれらの事情を踏まえて抗生物質を”微生物によって産生され、細胞の生命に関与し、細胞の初一句に重要な酵素反応を阻害する物質”と定義した」とある。ようやく定義者が分かった。梅沢浜夫はペニシリン国産化などに尽力した微生物学者だ。
1981年の日本臨床では「感染症治療法」の特集が組まれ、「治療総論」を清水喜八郎が書いている。ここでは「化学療法」と記載され、「感染症の化学療法は抗菌薬(antimicrobial agent)が主流である。従来の抗生物質と狭義の化学療法薬に分けられていたが、現在は多くの抗生物質が合成されるので、その区別がなく、上述のごとく 抗菌薬という表現が多く用いられる」とある。「抗生物質が合成される」と書いている時点で、すでに当初の定義を逸脱している。ここでの「化学療法」は合成物質の使用を内意しているように解釈される。
なお、同号には渡辺康の「広範囲抗菌薬(総論)」がのせられている。少し、引用する。
「最近の抗生物質の開発は、まことに素晴らしい。とくに日本の抗生物質の開発は世界一であると評価されている。
このように世界に先駆けてつぎつぎに開発されてくる抗生物質で治療を受けることができる日本人は世界の他の国々の人よりも幸福であるといえよう。しかし、このような大きな長所の反面には日本独特の抗生物質の使用方法による耐性菌の増加、感染症の変ぼう、さらには副作用の出現など多くの問題があることも各方面から指摘されている(以下略)」
1988年日本臨床特別号でも特集が組まれ、藤井良知の「わが国における化学療法の歩み」という総説がある。ここではサルバルサンなどの治療効果が低かったことから1935年のドーマクのプロントジル(スルホンアミド)をもって化学療法の嚆矢と捉えている。なお、本説は本題どうり日本の歴史を振り返っているが、興味深いのが「昭和50年代ー日本のセファロスポリン時代」である。引用する。カッコの注は岩田が付記した。
「かつて第一位の座にあったCP(クロラムフェニコールのこと)が副作用問題で急速に使用されなくなり、TC・MLの消費が低下するのと逆にβ-lactam剤は主流となり、世界先進国の中では日本がはじめて高価なCEP(セフェムのこと)がPC(ペニシリンのこと)を抜いて首位を占めるに至ったのである。(中略)CEPは重量では全体の約55%、金額の70%を占めることをみてもCEP時代にあるといえよう。日本がそれに耐えられるのは、社会保険制度と経済の高位ゆえであろう。(中略)特異なのは日本で発見された抗菌剤が20, 30年代には20%台であったものが、40年代に39.1%に上昇し、50年代には55.2%と過半数が日本の発見によるものなのである。碧素とGHQの好意と日本人の熱意が、ついに世界第一位までに抗菌剤研究・生産・消費(!)を押し上げたといってもよい」
というわけで、ドーマクのようなスルホンアミドら合成したものは化学療法薬、天然のものは抗生物質と定義したものの、前者は後にがんの治療薬として取って代わられる。現在「化学療法」を感染症の治療薬に用いる人はほとんどいない(いても通じないだろう)。両者をまとめて抗菌薬、と呼ぶのが現在の流れである。
AACという雑誌が示唆するように、時代的には英語圏もchemotherapyとantibioticsであった。しかし、前者は同じ理由で廃れてしまう。
グッドマン&ギルマン第8版日本語版を読むと、次のようにある。
「しかし、抗生物質antibioticsという語を普通に使用する時には、スルホンアミド、sulfonamidesやキノロンquinoloneのような微生物の生産物でない合成抗菌薬をも含めてしばしば拡大して用いられる」
ここで分かるのは日本語の抗生物質に相当するのが英語のantibioticsであることと、グッドマン&ギルマンの定義ではantibioticsが合成抗菌薬をも内包する存在として用いられている、ということだ。原書11th ed.では「Common usage often extends the term antibiotics to include systhetic antimicrobial agenst, such as sulfonamides and quinolones」と上述の言葉がそっくりそのまま残っている。ちなみに、手元にあるGoodman & Gilmanの12th edでは、antimicrobialsとかantibioticという用語を用いているが、その定義や守備範囲にはもう言及がない。
もともと抗菌薬は「化学療法薬」として開発された。しかし、化学療法薬という呼称はがんの治療薬に取って代わられた。現在、英語圏ではantimicrobials、antibioticsという言葉はほとんどinterchangableに用いられている。antibacterialsは正確な呼称だが、少なくとも診療現場で使う人はほとんどいない。アメリカの診療現場では、ぼくの知る限り「antibiotics」が一番通りがいい。
日本の診療現場では現在、医者の間では抗菌薬が一番使われる。が、患者の間では抗生剤、抗生物質のほうが普及している。ナースの間では両方使われているようである。梅沢の定義は学術的には意義があるが、歴史的には古いものだし、清水の指摘するように臨床的にはその分類意義を失ってしまっている。カウンターパートたる「化学療法薬」もすでに存在しない。
というわけで、この問題について「正しさ」を追求するのはあまり意味がないものと思う。要は、会話が成立し、通じて、問題がなければそれでよいのだ。抗菌薬=抗生物質でさしつかえなかろう。
ときに、「サルバルサン戦記」のサブタイトルは「世界初の抗生物質を作った男」である。もちろん、わざとだ。正確には「世界初の化学療法薬を作った男」である。しかし、それでは意味が通じず誤解のもとだ。コミュニケーションは伝わることが大事なのである。
投稿情報: 16:07 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (0)
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これまでぼくは医師が医療・医学についてコメントする場合は実名、もしくは自身がアイデンティファイされる名前(芸名やペンネームなど)を用いるべきだと主張してきました。匿名発言が実名発言より正しくない、という主張ではありません。万が一その発言が間違っていた時に匿名を理由に批判をすり抜け、責任もとらないのはフェアではないと考えたからです。実名コメントだって間違えることはありますが、その間違いに有責性をくっつけることは可能です。そうぼくは考えていたのでした。
しかし、本日をもってぼくはこの過去の主張を全面的に撤回します。医師が匿名で医療・医学についてのコメントは全面的に許容されて良いと思い直しました。とくに匿名で発言されている医師の皆様には、過去の主張についてお詫び申し上げます。申し訳ございません。
ここまでが結論です。では、撤回に至った理由について以下に説明します。長くなりますので、結論以外に関心のない方はお読みにならなくても問題ありません。
以前勤務していた病院の幹部(欧米人)が「医師がジーンズをはいて診療するのはよくない。ドレスコードに違反する」と主張しました。実際にはその病院には明文化されたドレスコードはなかったのですが、幹部の意見ゆえこの主張は通りそうになりました。
ぼく自身はジーンズで診療はしていませんでしたが、この主張には違和感がありました。なぜなら、ドレスコードは国や文化によって異なることをぼくは学んでいたからです。米国では当直はたいていスクラブを着て行いますが、英国でトレーニングを受けた医師は、「英国ではスクラブは認められず、当直時も(男性医師は)ワイシャツとネクタイ着用が義務だ」と言っていました。もっとも、その後の研究でネクタイは感染リスクを増すという理由から、英国でのネクタイ着用はなくなりましたが。
そんなわけで、ぼくはその病院の総合診療外来通院患者にアンケートを取り、ジーンズを含めたいろいろな服装について好悪と是非を問いました。その結果、患者の殆どは医師がジーンズを着用することについて何ら嫌悪感を持っておらず、受け入れるとのことでした。実のところ、ほとんどの質問事項については患者は全然気にしておらず、我々がしばしば語る「医師たるもの、○○な服装をすべし」的な主張は、単なる医師の独りよがりな思い込みに過ぎないことが分かったのです。
匿名発言については上記の理路でぼくの主張はなりたっていたのですが、そのときふと、このジーンズの話を思い出しました。演繹法は帰納法による検証が必要なわけで、机上の空論になってしまってはいけないのだと。
そこで、ぼくは1週間の期間を限定して、ネット上で簡単なアンケートを取りました。「医師がツイッターなどSNSを利用して医学医療についてコメントするとき、それは実名で行われるべきでしょうか。それとも匿名でOKなのでしょうか」という極めてシンプルな作りのアンケートです。
まあ、対象者のセレクションバイアスの問題とか、細かいことを言えばいろいろ瑕疵のある「ざっくり」アンケートです。身分のなりすましの可能性(医師が医師じゃないと申告するなど)もありますし、複数のIPアドレスを用いた組織票もやってやれないことはありません。が、短期間のシンプルなアンケートで「だいたいのところ」が分かればぼくは満足ですし、ネットにアクセスがない方にこのようなアンケートをしても意味がありません。不正行為がゼロという確証はありませんが、アンケートの性格上、その影響は微々たるものだと思います。
では、結果です、アンケート締め切り時点では、以下の様な結果になりました。
次に、医師以外の医療者の回答です。回答数は少ないですが、医師とほとんど同じプロポーションになっています。カイ二乗検定を行うとp=0.83でした。医師と医師以外の医療者が見解を同じくするというのは少し意外な気がしましたが、そういう結果でした。
最後に、医療者以外の回答です。こちらは、「実名にすべき」が減って、「本人が特定できるべき」が増えています。医師と比較するとp=0.02で統計的有意差があり、医師と医療者以外では回答の傾向に違いがあることが分かります。
しかしながら、どの対象でも「匿名でもOK」が6割を占める多数派であることには変わりありません。医師、医師以外にかかわらず、医師の匿名コメントは許容する人が多いのです。
もちろん、多数決は真実や正義を決定するものではありません。日本の抗菌薬の使用実態を調べれば、「正しい」抗菌薬の使い方が分かるわけではないように。だから、これをもって医師の匿名であることの理論的整合性や倫理的な正しさが決定されるわけではありません。
しかし、ぼくは医療においては「正しさ」よりも上位の概念があると思っています。それが「合意の形成」です。価値と言い換えてもよいかもしれません。価値観と言い換えてももよいかもしれません。価値観は、正義や理論の上位にある医療の概念なのだと思います。
どんなに「正しい」と考えられている医療でも、患者(市民)の合意が得られなければ許容される医療とはなりません。脳死や臓器移植や、人工呼吸器の中断や安楽死といった問題は全て、そういう前提のもとで議論されています。
もちろん、少数意見も大事です。大事ですが、合意から外れた少数意見のアプライされるところは、その少数者個人に対してのみとなり、全体にアプライはできないのです。「ナースはナースキャップをかぶるべきだ」という少数者の意見は全体に反映されません。自分でプライベートなナースを雇ってかぶらせる以外にないのです(昔、そういう大富豪の診療をしたことがあります。ナースは全部自前でつきっきりでした)。
なので、英国や米国のガイドラインがどうであろうと、あるいは理念的な議論がどのような結論を導こうと、そういうものとは関係なく、日本においては医師の匿名コメントが医療・医学を語るのを許容すべきなのです。「それは許容できない」という少数派はそういう発信そのものを否定し、その発言を目にしない権利を持っていますが、発言の存在そのものを否定する権利を持たないのです。ぼくのささやかなアンケートを凌駕する、新たなエビデンスでも現れないかぎりは。
以上のようなデータとその解釈から、ぼくは変心したのでした。
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こういうのは思弁的なだけではなく実証も大事やと思うに至りました。てなわけで、よかったらご意見ください。以下クリックすれば数秒で回答可能です。
https://jp.surveymonkey.com/r/VQRFK5Q
アンケートは火曜日(2016年7月19日)の午前6時まで受け付けます。
投稿情報: 21:57 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (2)
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子宮頸がんワクチン副作用を調査する池田班の厚労省発表に捏造疑惑が生じました。報じたのは医師でジャーナリストの村中璃子氏で、Wedgeという雑誌に記事が掲載されました。
本稿執筆時点では、この記事は関係者の証言を元にまとめられており、かつその証言は匿名のままです。よって、記事の内容の真偽は不明です。しかしながら、記事が真実だとしたら日本、いや世界医学史上に残る大スキャンダルでして、そのもたらす影響は多くの国民の健康に関係するでしょう。
私はテレビをほとんど観ないので存じませんが、池田班の発表はテレビで大々的に報じられたと聞きます。ならば、その発表そのものが捏造であった場合は、発表報道以上に大々的に問題視するのがラージ・メディアの責務であると思います。また、池田班自身も、このような報道に対して即座に反論を表明するのが筋だと思います。報道が誤りだとすれば、ですが。
しかし、私の知る限り、テレビも新聞もこの捏造疑惑問題を無視しました。毎日新聞など一部のメディアは信州大学で調査委員会が設置されたことなどを小さく報じましたが、Wedgeの記事についても村中氏の見解についてもまったく黙したままでした。東京都知事がファーストクラスに乗ったとか、高級旅館に泊まったとかいう、私(わたし)的には極めてトリビアルな話題にはあれだけ熱狂的に追求したのに、です。
医師で業界筋に詳しい上昌広氏によると、これはメディアの中に子宮頸がんワクチン副作用「被害者」の立場にたつ者がいて、そういう人たちが報道をさせないよう、圧力をかけているのだそうです。そのような圧力はジャーナリズムの正しいあり方とは思いません。が、そういうこともあるかもしれません。
しかし、私は他にも理由があると思っています。簡単にいえば、村中氏に対する嫉妬です。
私が知る限り、日本のテレビの報道関係者や新聞記者で、科学的発表や、科学論文を批判的に吟味できる人はほぼ皆無です。吟味どころか、論文そのものを読めない、読まないという人も珍しくなく、科学部の記者ですらそうです。英語が苦手というありえないくらい、プリミティブな理由で論文を読まない人すらいます。現在の科学論文は、少なくとも質の高いものは、ほとんど英語で出来ているというのに
その証拠に、テレビや新聞で科学的な発表を紹介する際、それを批判的にメディア独自に吟味したものは私が知るかぎり、ゼロです。たいていは、研究者が記者会見を開いてメディアを招待し、自らの研究成果を宣伝します。記者は研究者によく分からない点を質問はしますが、「そこはおかしいんじゃないですか」とか「その解釈は誇張が入ってるんじゃないんですか」といったツッコミを入れる人はほぼ皆無です。そして、掲載された記事でも「○○大学の☓☓教授のグループによると、なんとか病の治療に有効なかんたらが発見された」みたいな大本営発表の「コピペ」でしかありません。せいぜい、科学畑の人間の分かりにくい言葉を、メディア的に分かりやすく翻訳する程度です。「○○大学の☓☓教授はこのような発表をして、なんとかと主張している。しかし、私の見解によると、、、」という言葉遣いをする新聞報道を私は一度も読んだことがありません。批判的吟味、クリティークはゼロなのです。
だから、テレビや新聞が科学的な不祥事、例えばデータの捏造を看破したことは、やはり私が知るかぎり一度もありません。臨床データを誤魔化した降圧薬のディオバン事件も、存在しなかった細胞の存在が喧伝されたSTAP細胞問題も、ラージメディアはこぞってその発表を真に受けて、そのまま垂れ流しました。
村中氏は医師資格を持っていることもあり、そのような批判的吟味を行い、大本営発表を盲信しない稀有なジャーナリストのようです。彼女の記事が真実であるかは知りません。しかし、批判的吟味がなされている、というのが大切なのです。彼女の記事に問題点を見出し、間違っていると考えるならば、やはり批判的に吟味し、反論するのが筋でしょう。記事が是であれ、非であれ、もっともよくない態度は黙殺する、ということです。そこに、私はラージ・メディアができないことをやってのけた村中氏に対する嫉妬を感じるのです。もっとも、科学領域を扱うジャーナリストならば、全員村中氏のようなクリティークを展開すべきで、本来はあれが「普通」であるべきなのですが。
昔だったら、こういう大本営発表でも通用したのです。しかし、ブログやツイッターといったソーシャルメディアの発達で、ラージメディアにできない「ツッコミ」を誰でもできるようになりました。実際に論文を読み込んで、「ここはおかしいやろ」と批判できるようになったのです。私自身、ラージメディアが大本営発表した科学的知見に対し、「論文を読み込むと、そうとは言えない」という反論をブログに載せることがあります。そして、そのようななかで、ときに捏造疑惑が指摘され、さらに証明されたりするのです。
ラージメディアには自身で科学的な発表や論文を批判することができません。だから、そのようなソーシャルメディアの批判は黙殺します。プロのジャーナリストがアマチュアのツッコミを後追いするのは沽券に関わることだからでしょう。捏造のように、黙殺しがたい大問題についても、なかなか重い腰を上げません。みなが大騒ぎするようになり、「無視するには大きすぎる」騒ぎになって初めて後追いで記事にするのです。そのときは、「だれもが袋叩きにして良い雰囲気」が醸造されていますから、それ見たことか、俺たちは前々からお前らをけしからんと思っていたんだぞ、とばかりにタコ殴りにします。
医学、科学における発表で、ほとんど例外なく大本営発表なのだから、他の領域でも同じなんじゃないかと勘ぐりたくもなります。内閣の発表や、日銀の発表も、あるいは「ロイターによると」といった速報も、同じように大本営発表をコピペしているだけで、きちんと批判的に吟味していないんじゃないでしょうか。
それは、週刊文春がよくやるような「スクープがとれる、とれない」という話ではありません。私はスクープにどれだけの価値があるかは存じませんが、あれも速報性を謳っているだけで、決して批判的な吟味、クリティークが十分になされているわけではありません。先の都知事の金銭問題であれば、なぜ、いつから、どのような過程で、東京都知事の金銭支出があのような構造になり、かつ他の自治体ではそうはならなかったのか、を調べるのが批判的吟味です。どこそこの店でどんな領収書が切られたか、みたいな重箱の隅をつついて回るのは、勤勉な作業かもしれませんが、批評性は皆無です。だから「都知事はけしからん」というありがちな結論しか導かれないのであり、そしてその結論そのものはどんなに情報や分析が重ねられても一ミリも動かないのです。結論ありきの議論に批評性が生じないのは当然で、批評とは吟味の過程で自説がどんどん変じていくものだからです。
もともと、日本のテレビや新聞は「はじめに結論ありき」の報道姿勢を貫いており、悪い意味で首尾一貫しています。だから、自分にとって都合の良いデータは報道しますし、しばしばそれを誇張します。都合の悪いデータは黙殺するか、矮小化します。よって、NHKの言うことも、テレビ朝日の言うことも、フジテレビが言うことも、朝日、読売、産経といった諸新聞が言うことも簡単に予見できます。彼らが無視しそうな「不都合な真実」も簡単に分かります。ネットがそれを暴き出しますから。そして、彼らがニュースや記事や社説で言いそうなことが簡単に予見でき、それが首尾一貫しているという事実が、「じゃ、結局テレビも新聞も要らないじゃん」という結論を導き出します。個人的には、「ええ?NHKがそれを言うか?」とか「朝日でもこんな記事を報じるんだ」という驚きを感じたことはほとんどありません(かろうじて、ラジオニュースがこの可能性を僅かに残していると思います。ラジオはもう、ラージ・メディアではないのかもしれませんが)。だから、現在テレビや新聞が没落の最中(さなか)にあるのは、当たり前なのです。
ワクチンの議論も同様で、「副作用被害者けしからん」という結論ありきの報道姿勢では、決して批判的な吟味は生じないことでしょう。よって、スモールメディアに頼る他ありません。
スモールメディアにできることは、問題の火を絶やすことなく、メディアが看過できないくらいに批評、批判を重ね、真実がどこにあるのかを問い続けることです。その問題意識を広げ続け、ある雰囲気を作ることです。ラージメディアは雰囲気に弱いので、その雰囲気が醸造されれば、必ず追随します。みっともない話だとは思いますが。
日本の予防接種環境は20年前に比べるとはるかにましになりました。しかし、国際的に考えると、日本のそれはまだまだ数周遅れの状態です。それは医療者の問題であり、行政の問題であり、メーカーの問題であり、そしてメディアの問題です。
私はジャーナリストとは批判的吟味を行なうべき第一の人物であるべきだと常々思っています。そして、日本のラージ・メディアのジャーナリストにその精神がまったく観察できないことを、非常に残念に思っているのです。
投稿情報: 09:33 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (1)
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お恥ずかしいことで、化学療法での医療従事者の曝露対策について全く無知でした。今回、化学療法に用いた針をジプロックに入れ、その経緯で針刺し事故の相談を受けたので、調べてみた。
「見てわかるがん薬物療法における曝露対策」(医学書院)によると、「調整に使用したHD(hazardous drugs)の入っていたバイアルやアンプル、注射器や注射針、PPEなど:ジッパー付きプラスチックバッグに入れ、蓋付きの感染性廃棄物容器に入れる」とある。ただし、根拠となる文献は引用されていない。調剤に使用するものがなぜ「感染性廃棄物」なのかも分からない。
「がん薬物療法における曝露対策合同ガイドライン2015年版」(日本がん看護学会・日本臨床腫瘍学会・日本臨床腫瘍薬学会)によると、「HDの調整・投与過程で発生したアンプルやバイアル、注射器や注射針、使用済みの輸液バッグや点滴チューブ、安全キャビネット内で使用した手袋など、高濃度のHDを含む化膿性のある廃棄物は、封じ込めのためにジッパー付きプラスチックバッグに入れてから、HD専用の廃棄容器に廃棄する」とある。そして引用文献としてAmerican Society of Health-System Pharmacists(ASHP)2006年のHDガイドラインを引用している。なお、本書によるとHDを感染性廃棄物と同等の扱いにする根拠は環境省の「廃棄物処理法に基づく感染性廃棄物処理マニュアル」によるそうだが、日本にはHD廃棄物に関する法規則が存在しないのだそうだ。このマニュアルでは尖ったもの(sharps)はすべて感染性廃棄物として扱うよう述べており、またそれに付随したチューブやバッグも(感染性の有無とは関係なく)同様に扱うからだ。以前からぼくは、感染性廃棄物の法制度は非科学的、かつ非論理的なので改正するよう主張しているが、環境省も関連学会もそういうことには関心がない。が、この話は本論からずれるのでこれ以上は述べない。
さて、問題は引用されているASHPガイドラインだ。
Once hazardous waste has been identified, it must be collected and stored according to specific EPA and Department of Transportation require- ments.112 Properly labeled, leakproof, and spill-proof con- tainers of nonreactive plastic are required for areas where hazardous waste is generated. Hazardous drug waste may be initially contained in thick, sealable plastic bags before being placed in approved satellite accumulation containers. Glass fragments should be contained in small, puncture- resistant containers to be placed into larger containers ap- proved for temporary storage.
と、ASHPは廃棄物を容器に入れる前に「厚い、ジップロック可能な(sealable)プラスチックバッグに入れておいてもよい(may be)」と書いている。「せよ(must)」ではなく「してもよい(may)」なのだ。針についての具体的な記載はないが、ガラスの破片などは貫通性のない容器に入れよ(should)とある。また、血液体液のついたものは他のHD廃棄物と混ぜてはならない(must not be mixed with)とある。「ガイドライン」はASHPガイドラインを正確に引用していない。
ちなみに、ISOPPでは
All sharps waste must be placed in puncture resistant containers. All cytotoxic waste must be placed in secondary packaging and sealed to ensure that leakage cannot occur, and must be clearly labelled to indicate the presence of cytotoxic waste.
とあり、針刺しや薬漏れが起きないよう、「puncture resistant containers」に入れよ、とある。プラスチックバッグがこの用を満たさないのは当然だ。
使用済みの針をプラスチックバッグに入れるとワンアクション増え、それが遠因となって針刺しとなる。針刺しは感染的にもHD曝露的にも問題だ。現行の日本の推奨はよって適切ではない。針は別扱いにするか、針刺しが起きない別の容器に入れるよう、推奨を変えるべきだ。
投稿情報: 10:51 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (0)
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No English, no presentation
毎週金曜日は、ICNと英語についてのコラムです。
環境感染学会は時々行きますが、その膨大な発表数には驚きます。もちっとちゃんと査読して、質の高い発表に絞ればいいのに。あれじゃ学芸会みたいだ。え?学芸会じゃなくて、同窓会ですって?そんな本当のことを、、、、
日本ではデビュー戦をユルユルにする悪い癖があります。医者の学会発表も最初は地方会の症例報告なのが通例ですが、そこでの発表の質が非常に悪い。だから、「学会発表なんてこんなもんか」と錯覚してしまいます。質の低い発表量産させるくらいなら、地方会なんてやらなきゃいいのに、、、、
ぼくが初めて学会発表したのは確か2000年(だったかな?)のSHEAでした。結核隔離についての研究でしたが、それはそれは厳しいリハーサルの連続でした。ほんと、泣きそうでしたよ。当時のぼくは英語がとても苦手だったこともあり、オーラルの発表はめっちゃハードル高かったんです。でも、これは後に論文化もできましたし、頑張りがいはありました。
http://journals.cambridge.org/action/displayAbstract?fromPage=online&aid=9400072&fileId=S0195941700081418
いずれにしても、学会発表はデビュー戦が大事です。ちゃんと正しい方法論を教え、きちんとした発表方法を習わねばなりません。症例報告でもなんでも、学術的に正しい発表をせねばなりません。「こんな症例みつけました」とか「うちの病院、こうなってます」といった「夏休みの絵日記」みたいな発表をしてはいけません。
ところで最近、あるICNに
「私は環境感染学会で何度も発表しています。でも、英語の論文は一度も読んだことがありません」
といわれてぼくは気絶しそうなくらいに大きなショックを受けました。一瞬、気絶してたかもしれません。
どうしてかというと、研究の第一歩は研究のための質問(research questionといいます)をすることで、第二歩は「先行研究を全部読む」ことだからです。「全部」読まねばならないのですから、その中に英語の論文が入っていないはずがありません。
先人がやった研究を全部読んで初めて、自分がその研究をする意味があるかが分かります。過去にすでに行われた研究だったら、もう繰り返す意味はありません。意味がないのにカルテを開いたり、培養データを閲覧して患者の個人情報を扱うのは倫理的ではありません。ぼくは去年まで倫理委員会の委員長でしたが、先行研究レビューゼロの研究計画書は必ず突き返します。そういう研究は、非倫理的だからです。
とまあ、このへんは研究のイロハ、ABCなんです。なのにそれをICNに教えもせず、「とりあえず、環境感染学会にポスター出してみなよ」と促す指導者がいけないんです(ヽ(`Д´)ノプンプン)。
この気絶のエピソードが、このブログの連載を始めることにした理由です。何週間がんばれるでしょうか。ぼくもがんばりますので、皆さん、来週もがんばってください。環境感染学会で、「ちゃんとした発表」ができるためにも。
投稿情報: 08:23 カテゴリー: 感染対策者の英語, 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (0)
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熊本地震からの復興が進んでいる。学校も再開し、避難所も再構成されつつあるようだ。しかしながら、現在も多くの方は避難所に避難しており、また車内で夜を過ごしている。当初から懸念されていた感染症と血栓症のリスクはいまだに存在する。
インフルエンザやノロの場合、感染経路の遮断は比較的容易である。感染経路を遮断すれば感染は広がらない。もっとも、過密な環境下であれば両者を防ぐのは極めて困難であり、避難所の人ー人間のスペース確保が大事である点はすでに述べた。
さて、人−人間のスペースを確保しても感染の広がりを防げない感染症もある。その一つが水痘(みずぼうそう)だ。
水痘患者が発生した場合、患者は速やかに隔離されねばならない。しかし関連率はとても高く、皮疹が発生する前に他者への感染性は生じている。(一部の例外を除き)、水痘は一回罹患してしまえばなんどもかかる病気ではない。だからすでに水痘罹患率がある方は心配ない。水痘ワクチンも有効なので、ワクチン接種歴があっても(1回でも2回でも)たいていは大丈夫だ。
しかし、日本では水痘ワクチンが定期接種化されたのはつい最近(2014年10月)のことである。多くの人には免疫がない。小児に多い病気だが、成人でも免疫がなければ発症するし、その場合は肺炎などを合併し重症化することが多い。
水痘患者が発生したとき、周辺の人達で、かつ免疫のない人(かつ免疫抑制のない人)には曝露後予防接種という方法で水痘罹患を防ぐ方法がある。受動免疫といって免疫グロブリン(VZIG)を投与する方法もあるが、これは日本にはない。アシクロビルなど抗ウイルス薬も、ワクチン禁忌の場合などに用いることもあるが、曝露後予防薬として有効であるというエビデンスを欠いている。
災害救助法では、罹災した患者に医療を無償で提供できる。しかし、ここには曝露後予防という概念はない。また、日本の定期接種システムは非常に窮屈なシステムで、無料でワクチンを提供できる年齢に制限が多い。したがって、災害でリスクの高い避難所で水痘患者が発生したとき、確実に予防効果が期待できる水痘ワクチンを曝露後予防として提供するのは事実上極めて困難である。
しかし、この問題を解決する方法がある。それは予防接種のキャッチアップを定期接種という制度に取り込むことである。これは国際的には「常識」である。日本小児科学会もこれを推奨しているが、国としては制度を採用していない。日本のワクチン事情は近年ずっと改善されてきているがこういうところはまだまだ「後進国」である。
キャッチアップとは、定期接種で推奨される年齢で当該予防接種がなされなかったとき、それを補うために後からワクチンを接種するやり方をいう。日本でも長期療養などごく一部の事例でキャッチアップが定期接種で認められるが、その適用範囲は極めて小さい。これを
水痘の免疫のない方全て
に適用すれば、定期接種として堂々と曝露後予防ができる。というか、事前に避難所で(曝露前に)予防接種を提供し、リスクを事前にヘッジできる。保健師たちが一所懸命水痘患者のサーベイ、スクリーニングをする苦労だって激減する。
キャッチアップの対象者はけっしてマジョリティではないのだから、財務省も厚労省もこれを認め、もっと緩やかなシステムにすればよいのだ。「新型」インフルのとき、厚労省はご丁寧にものすごく細かくて長い接種者対象リストを作って現場を困らせた。もっとザックリにしておけば、接種者全体が増えて、コミュニティー全体が得をするのに、どうして「細かいところでやたらと正しいんだけど、大きいところで間違える」方法を選んでしまうのだろう。年齢をうるさく計算しないと接種できず、待ちの間に肺炎になったら泣くに泣けない大人の肺炎球菌ワクチンも、よくもまあこんなに細かく作ったもんだと呆れるようなおかしなプランである。
数多くの震災の経験から、日本の震災対応はだんだん改善していると思う。そして、次の震災は日本のどこかに必ず、間違いなくやってくる。そのときに同じ苦労をしなくてよいよう、現時点での問題点は必ず把握し、そして事前に改善しておくべきだ。その方法の一つとしてのキャッチアップ採用の提案である。
投稿情報: 11:10 カテゴリー: 考え方のピットフォール | 個別ページ | コメント (0)
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