ようやくできました。この本は本当に難産でした。記録を見ると、少なくとも2013年から取っ組み合っています。ようやく世に出せました。長いけど「はじめに」を引用。
みなさん、こんにちは。岩田健太郎といいます。
ぼくは医者だ。専門はいろいろあるけど、とくに感染症をメインに取り組んでいる。
この本は性教育についての本だ。読者のみなさんのなかにも性教育、受けたことがある人もいると思う。ぼくは学校の先生じゃないんだけど、これまで長い間性教育に取り組んできて、ときどき学校で授業をやったりもしている。どうしてそうなったのかは、あとで説明するけど、まあそんなわけでこの本も書いているというわけだ。
みんなは「どうして数学を勉強しなきゃいけないの?おとなになったら方程式とか使わないのに」とか、「歴史の授業なんて本当に意味があるんだろうか」なんて考えたことないかな。とくに試験の前で「勉強なんてイヤだ」モードになった時はそういう気分にならないかい。ぼくはよくそんな気分になったな。
で、ここでは「どうして性を学ばなければならないの?」という疑問を考えてみたいと思う。
どうしてかというと「性教育なんて必要ない」と反対している大人もいるからなんだ。
さあ、そこでみんなに考えてほしい疑問その1。なんで多くの日本の大人は「性教育なんて必要ない」と思っているんだろう。
そして、疑問その2.その意見は正しいんだろうか。
さらに疑問その3。仮にそういう大人の意見が正しくなくて、やっぱり性教育が必要なんだ、としようか。では、「正しい性教育」、「必要な性教育」ってどういうものなんだろうか。文部科学省は学習指導要領に小学校、中学校、高校における性教育について記載している。「そういうの」があるべき性教育なんだろうか。
というわけで、本書はまず日本の性教育の歴史を振り返る。そして、性教育の必然性について考える。必然性っていうのは「それがなくてはならない理由」ってことだ。鉛筆があるのは、それがないと困るからだ。では、性教育はないと困るんだろうか。鉛筆がないと困るように。
つぎに、本書では性教育はどうあるべきか、を考える。どんな教育でもよい方法とそうでない方法があるんだと思う。では、「よい性教育」とはどんな性教育なんだろう。それもいっしょに考えてみたい。ぼくが現在実践している性教育をそこで紹介してみたい。
さらに、もうひとつ。本書が他の性教育本(?)と大きく違う点なんだけど、最後に「絶対恋愛」の可能性を論じてみる。絶対恋愛ってなんや?って、みなさん思うだろうけど、この話はややこしいので、あとでゆっくり説明する。もっとも、ややこしくて説明はちょっと長くなるけど、全然難しい話ではないのでご心配なく。そしてお楽しみに。
ところで、ぼくみたいな医者がなんで性教育をテーマにした本を書くんだろう。まずはそれを説明したい。
ぼくは感染症のプロなんだけど、世の中には本当にたくさんの感染症があるんだ。みんなが聞いたことがありそうな感染症としては、たとえば、エボラ出血熱。2014年にアフリカで流行したこの感染症は世界を震撼させた。実はぼくも2014年の12月から1ヶ月程度西アフリカのシエラレオネにWHO(世界保健機関)のコンサルタントとしてエボラ対策に取り組んでいた。当時はたくさんの人がエボラで亡くなっていたから、その対策はけっこう大変だった。
感染症の対策としてはざっくり大きく分けると治療と予防に分けられる。治療はエボラになった患者さんを治すことで、予防はエボラになってない患者さんがエボラにならないようにすることだ。
感染症を予防するためには、感染症がどのようにして起きるかを知っておかねばならない。例えば、風邪はくしゃみや咳で感染する感染症だ。だから、咳で伝染らないようにマスクをしたり、咳をするとき腕で口の前をおおったりするんだ(こういうのを咳エチケットといいます)。
エボラの場合は、エボラウイルスの入っている患者の体液を触ることで感染する。汗とか、涙とか、血液とか、唾液(つば)とか。とにかく患者には素手で触らないようにしないといけない。こういう指導が「予防対策」ということになる。
ところが、エボラについてはあまり知られていない事実があるんだ。それは、エボラがセックス(性行為)でうつるということ。
セックスによってうつる感染症を性感染症と呼ぶ。英語ではsexually transmitted diseasesという。Sexually は「sexで」という副詞、transmittedは伝染るという意味、で、diseasesは病気のことだ。略してSTD(エス・ティー・ディー)とも呼ぶ。
エボラもセックスで感染する。だから、エボラも大きな意味ではSTDの一種なんだ。実際、エボラにかかった男性患者が回復しても、数ヶ月も精液の中からはエボラ・ウイルスが見つかることがある。エボラが治ったと喜んでセックスしてしまうと、相手にもエボラが伝染ってしまう。
ぼくたちはエボラ出血熱から回復した患者をサバイバー(生存者)と呼んでいた。エボラは死亡率が高いから、まさに「生き残った」って感じだったんだ。けれども、彼らが他の人にエボラう・ウイルスを感染させるのは困る。そこで、こういうサバイバーたちに適切な性教育を行い、彼らの大切なパートナーや家族がエボラの危険に晒されたりしないよう取り組んできた。
本稿執筆時点(2016年7月)では、ブラジルなど多くの国で猛威を振るっているのがジカ熱だ。これは蚊に刺されて感染するウイルス感染で、妊婦が感染すると胎児に小頭症という先天奇形が起きる可能性がある。大変な問題だ。
ジカ熱は昔からある病気だけど、蚊がうつす病気なので人からは直接感染しないと思われてきた。ところが、最近になってジカ熱がセックスで感染することが判明したんだ。つまりジカ熱もまた、STDの側面を持っているってことだ。
エボラ出血熱やジカ熱のみならず、世の中にはたくさんのSTDがある。梅毒(ばいどく)、クラミジア感染、そしてエイズ。
ぼくたち感染症のプロは、たくさんのSTDと日夜取っ組み合っている。梅毒やクラミジアは抗生物質で治療ができる。でも、エボラやジカ熱には有効な治療薬はまだない。それに、梅毒はときに神経や血管に重い後遺症を残す。クラミジアも女性の不妊の原因になったりする。診断が遅れれば、抗生物質もこうした合併症を克服できない。なかなかやっかいだ。「薬を飲めば、大丈夫」という簡単な病気じゃあないってことだ。
それから、忘れちゃいけないのがエイズ。あとで詳しく説明するけど、日本ではHIVというエイズの原因ウイルスに感染している人が年々増加している。これも深刻な問題だ。
感染症は治療も大事だけど、同じくらい、いやそれ以上に予防も大事だ。エボラのところでそれは言ったよね。病気は治すことより、かからないことのほうが遥かに大切なんだ。
STD=性感染症を予防する方法はいくつかある。でも、いちばんパワフルな予防法は性教育だ。性を学ぶ理由のひとつが、ここにある。一見、性教育とは関係なさそうな内科医のぼくが、長い間性教育に関わってきた理由もそこにある。
性感染症(STD)はセックスによって起きる。性教育があれば、そのリスクを回避できる(可能性が高い)。
いや、STDだけじゃない。他にもセックスにはいろんなリスクがついてまわる。たぶん、そういうリスクは、みんなが想像しているよりもずっとたくさんある。そういうリスクを回避するにも、性教育は有効だ。どんなリスクがあるのかってことはあとで詳しく説明する。
学校教育の目的はたくさんある。でも、そのなかでも特に大事なのは「生き延びるためのスキルを学ぶこと」だとぼくは思う。文部科学省も学習指導要領のなかで「生きる力」と銘打っている。
「生きる力」「生き延びるためのスキル」というのは、リスクを回避したり、リスクを克服する能力だと言い換えてもよい。しかし、リスクを回避したり克服するには、まずそのリスクを認識できないとだめだ。認識できないリスクは回避も克服も不可能だ。
セックスにまつわるリスクがある。感染症もその一つだが、それだけじゃない。そういうリスクを回避し、あるいは克服するにはセックスにまつわるリスクの認識が不可欠だ。どうやったらその認識が可能になるか。
それは「学び」による以外に他はない。よって教育が必須ということになる。
でも、すでに述べたように世の中には「性教育なんて必要ない」「寝た子を起こすな」と性教育に否定的な見解を持つ人もたくさんいる。しかし、そのような見解は短見というものだ。それが短見である理由も本書で解き明かしていく。
ただし、本書はそこで終わりにはならない。
ぼくの本は、たいてい二重仕掛けだ。
以前、「一秒もムダに生きない」(光文社新書)という本を書いたことがある。これは一種のタイム・マネジメントの本で、時間をいかに有効に活用するか、そのスキルを伝授する本だった。
でも、この本はただのスキル集じゃない。単に時間を有効に使うだけでは、時間に追われる悲しい人生にしかならない。
ミヒャエル・エンデは「モモ」という童話の中で「時間泥棒」を紹介していた。あくせくと時間に追われて生きる虚しい人生がそこにはあった。それじゃだめで、スキルを使って獲得した時間をどうやって使うかが大事だ。大切な家族との時間、ゆっくりとした思考の時間、豊かな生活のための時間に転じる必要があるのだ。それがなければ、時間を削り取るスキルを獲得しても意味なんてない。そこを伝えずに、単に時間を削り取るスキルばかり紹介しても、意味がないとぼくは思っている。
同じように、セックスに関するリスクを認識し、回避し、克服するスキルだけ学んでも不十分だとぼくは思う。本書も、単なるリスク回避のスキル本、マニュアル本にはしたくない。
いったんある議論を展開しておいて、それを否定し、ひっくり返すような議論を弁証法的な議論とここでは呼んでおきたい。
みんなが学校で学ぶことはたいてい「正しいと分かっていること、正しいと決まっていること」だ。だから、教わったことをそのまま受け入れ、記憶し、飲み込めばいい。
でも、勉強科目の全てが「正しいと分かっていること、正しいと決まっていること」とは限らない。「それが正しいんですね」と素直に受け入れる勉強もあるけれど、「それは本当に正しいんだろうか」と疑ったり、悩んだりする勉強もあるんだ。
日本ではこういう「疑う」「問う」「悩む」タイプの勉強が少なすぎるとぼくは思っている。性教育にもそういう「疑う」「問う」「悩む」部分を残しておきたい。否定したり、ひっくり返したりしながら「グズグズと悩む、考える」弁証法的な議論をしたい。
そういうわけで、本書でも「生き延びるための」方策としての性教育の必要性をまずは論じていきたい。けれども、その議論の先にあるものは「それだけではだめだ」なんだ。弁証法的な議論というわけだ。
時間を削りとるだけのタイム・マネジメントは虚しい。同じように、リスク回避、安全追求のためだけの性教育も等しく虚しいとぼくは思う。そこから導き出された本書の後半に出てくるのが「絶対恋愛」の存在可能性、というわけだ(まだ全然説明してないけど)。みんなに疑い、問い、悩んでほしいところだ。
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