内田樹先生と姜尚中氏の「世界「最終」戦争論」を読んでいる。不寛容が怒りを醸造し、テロなどの攻撃の連鎖を生み、さらに差別の構造が先鋭化するという悪循環。大戦後のフランスの無反省がその遠因になっている、「フランス(ここではヴィシー政権のこと)は敗戦国である」という事実を隠蔽した「最大の罪」が看破される、、、
特に内田先生の次の一言は一般性がある。一般性、というのは他の問題についても適応可能だ、ということだ。
「誤解している人が多いですけど、知識人の知性は、他人の欠陥をあげつらうときの舌鋒の鋭さによってではなく、自分の犯した失敗や罪過について、その由来や成り立ちを明快に説明できるかどうかによって判定されるべきものなのです。おのれの失敗をクリアカットな言葉で記述し説明できるなら、知識人の知性は、それ以外の論件についても、適切に機能する可能性が高い」
さて、ようやく長谷川氏の話に戻る。
長谷川氏は自堕落な生活をおくったがゆえに病気になり、日本の医療制度を利用して多額の医療費を使っている事例を見たか、誰かに聞いたかして憤慨したのだと思う。それはアンフェアであると。また、そのようなアンフェアな事例が日本の財政事情を悪化させており、その結果暗澹たる未来が訪れるに違いないのだと。「今のシステムは日本を滅ぼすだけだ!!」というセリフは彼の公憤、義憤の表現なのだと思う。
このような意見は昔からあった。医療費亡国論である。そして、その意見は必ずしも暴論ではない。医療費は無尽蔵に捻出できるものではない。その医療費はどんどん増加し続けている。医療費の原資は保険料や税金やその背後に隠れた借金だが、今後はその支払い手はどんどん減少する。現在のように医療費が無尽蔵であるかのような医療費の使い方をしていたら、現行の医療制度は破綻する。「滅ぼすだけだ」というわけだ。
よって、長谷川氏は悪意の人ではない。むしろ(主観的には)善意の人であろう。彼を悪辣非道で残虐な人物と解釈するとこの問題は水掛け論になる。だから、現在起きつつある長谷川バッシングには賛成しない。それはまたもう一つのイジメの構造を作るだけだ。
もちろん、善意だからよいと言っているのではない。うかつでナイーブな善意は悪意よりもやっかいだ。長谷川氏は、そういう意味で実にうかつだったとは言える。ただ、繰り返すが人間が迂闊であるという理由でいじめられてよいとはぼくは思わない。生活習慣を根拠に透析患者をバッシングしてはならないのと同じ根拠で、だ。
長谷川氏は文章表現の問題で致命的なエラーをしている。表現が過激とかいうところではない。より深刻な問題は文章の両義性だ。つまり、「自業自得の透析患者」という表現だ。「自業自得の」が限定句としてもちいているか、形容句としてもちいるかで
自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担せよ!
の意味は異なってくるのだ。
A 人工透析患者という群の中に「自業自得である人工透析患者」がいて、そのサブグループに限定して「全員実費負担せよ」と意見しているのか、
B 人工透析患者とは自業自得である。そして彼らに全員実費負担させよ、と主張しているのか、
がはっきりしない。両義的な文章なのだ。
長谷川氏はおそらく前者の意味で用いたのだろう。多くの人(とくに透析患者)は後者の意味にうけとって憤ったのだろう。言葉のプロたるべき元アナウンサーとしては致命的なエラーであったと思う。しかし、ヒューマンエラーなのだから、さっさと謝罪して撤回すればよかった。それをしなかったのはもっと重大な、(文字通り)致命的なエラーであった。冒頭の内田先生の言葉が思い出される。
しかし、仮に長谷川氏が(彼の定義する)「自業自得である人工透析患者」というサブグループを批判していたとしても、この意見にぼくは同意しない。
透析患者の相当数は糖尿病患者である。では、糖尿病は「自業自得の」疾患であろうか。
1型糖尿病はそうではない、と多くは思うであろう。では、タイプ2はどうか。糖尿病の発病機序をレビューするとそうとはいえないことが分かる。そこには遺伝的な素因があり、生活習慣があり、母体の体内での育ち方があり、あるいは(ステロイドなど)医薬品の影響がある。あるいは(悲しいことだが)医者の処方が適切でなかった場合もある。糖尿病患者の腎疾患を予防できるというエビデンスは豊富ではなく、そしてそのようなエビデンスに基づいた治療を多くの糖尿病患者は受けていない。
生活習慣「だけ」で糖尿病になることはむしろ珍しく、また仮にそのような事例があったとしてもそうと(生活習慣以外の要素がゼロである)証明することは極めて難しい。だから、同じ生活習慣をもっていてもある人は糖尿病となり、別の人は糖尿病にならない。また、「生活習慣」といってもそれが運動の話をしているのか、食事の話をしているのか、その食事のカロリー数の話をしているのか、あるいは個別な栄養素の話をしているのか。
多くの疾患の発症はこのように複合的な要因で起きる。ボタンを押すとジュースが出てくる自動販売機のように、その因果関係はシンプルではない。AをやったからBという病気になったのだ、とシンプルな因果を作ることができない。
同じ生活習慣をもっていても、糖尿病になる人と、ならない人がいる。もし疾患が(神かだれかが与えた)不道徳に対する罰だとすれば、これはアンフェアだということになる。罰であれば、同じ基準で同じ罰となるべきであろう。
疾患は罰ではない。それは複合的に起きた現象に過ぎず、自然界や生命現象には人間的な善悪の基準を持たない。ぼくがよくみる性感染症も、したがって罰ではない。性行動にも微生物にもそのような観念は備わっていない。備えたのは後知恵でそう説明しようとする人間だけである。
もし、医療者が交通事故の外傷患者に対して、「この人の事故は自業自得の事故なのか、不可避で気の毒な被害者にすぎないのか」を度量してから患者の治療するか否かを判断したらどうだろう。長谷川氏の主張は「そういうこと」である。しかし、そのような判断をするのは司法の仕事である。医療の仕事ではない。道路交通法に違反した人は法律に従って罰せられるのであり、医療が「こいつはひどい運転をして事故ったのだから助けてやらない」といえば二重罰になる。医療には患者にそのような二重罰を与える権利はない。同様の根拠で透析患者に処罰的な態度をとる権利は我々にはない。
そしてもし、医療が患者の素行を評価し、それが自業自得に値するのか評価しようと試みると何が起きるか。患者は沈黙し、自らの生活習慣を完全に沈黙するようになるだろう。そして医療サイドと患者のコミュニュケーションは著しく阻害されるようになるだろう。医療者は患者のどこに健康問題の根っこが存在し、どこに介入したらよいのか全く分からなくなってしまうだろう。そして患者の健康という一番大事なアウトカムは得られなくなるだろう。
というわけで、ぼくは長谷川氏の「自業自得論」には賛成しない。一つは医療には患者の「自業自得」性を度量する能力を持たない。疾患は司法以上に複雑な振る舞いだ(ぼくが医療を裁判で評価するのに基本的に反対なのはそのためだ)。つぎに、道義的な理由において、医療には自業自得を罰する資格がない。最後に、自業自得論は医療の質を落とす。医療の質が低い国家というレッテルを張られることによって、日本の国益を損なう結果になるだろう。
医療のコストと倫理の問題は深刻だ。実際、血液透析という技術の黎明期にはこのテクノロジーは希少なテクノロジーで、だれにそのテクノロジーを提供するか、倫理的な議論が行われた。そのときに、「より価値の高い人間」が優先的に透析を受けるべきだ、という意見がでたが、なにをもって「より高い価値」とみなすかの基準が見つからずに、ほどなくこのナイーブな見解は棄却された。人間が人間の生命に優先順位をつけるなど、一種の優生思想だからだ。例えば、刑務所にいる受刑者でも、受刑者でない人間よりも医療の優先順位を勝手に下げることは許されない。感情に溺れて行った判断はアンエシカルな判断になりがちである、という厳しい教訓で、我々はしばしばこの手の間違いを行っている。肥満者や喫煙者を医療から締め出せ、と思っている人は一般の方にも、医療者にもとても多い。長谷川氏がプリミティブでカリカチュアな表現をしたためにそのへんが先鋭的になっているけれども、彼みたいな考え方は実はそんなに珍しくはない。だから、非常に危険なのだ。
http://cjasn.asnjournals.org/content/6/9/2313.long
http://medicalxpress.com/news/2016-02-history-hemodialysis-ethical-limited-medical.html
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2003dir/n2547dir/n2547_06.htm#00
他者への寛容が個人を、そして国家を救う大切な手段である。それは目的でもある。それを忘れた時、不寛容をよしと考えるようになった時、個人も医療も国家も、その自らの不寛容のために復讐されるのである。
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