投稿情報: 09:07 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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たまたま東京に行ったので、葛飾の感染・免疫懇話会に出る。
口蹄疫の勉強のためだ。帝京科学大学の村上洋介先生のレクチャーを聴く。非常に勉強になった。まったく動物の感染症って難しい。でも、僕のレクチャーもみんな今の僕みたいな気持ちで聞いてるんだろうな。初心に戻った。でも、逆に言うと、人の感染症も動物的にはアプローチできないんだろうな、という意味でもあるな。知事とか、政治家とか、メディアとかが軽々しく「こうするべきだ」とか「こうするべきじゃない」とか口にしない方が良い。インフルエンザと同じ構造で間違っている。
雑ぱくなメモ
牛は検出動物
豚は増幅動物
山羊、羊は病気が出にくく運搬動物
潜伏期は2日から10数日
・動物によって異なる。発病前にウイルスを大量に排泄している。
・排泄物、分泌物の中では大量のウイルスがあり、感染力は長時間失われない。溝のある靴などは危ない。
・ワクチンは発病を防ぐが感染を防ぐ事が出来ない。だから、ワクチンが皮肉にも感染を広げる可能性がある。
・先進国はワクチンを接種せず、病気も起きていない清浄国(62カ国)。
・ロシアはワクチンベルトを作って侵入を防いだ。
・何週もウイルスをもつキャリアも
・農業テロの対応ウイルス。BSL3−Agクラスの施設で扱う。
・畜産物の検疫はOIE基準でマニュアル化している。
・発病予防用ワクチンと緊急防疫用ワクチンはことなり、後者は抗原性も強くアジュバントも多い。免疫応答は早く。宮崎で使ったのは後者
・動物によって免疫応答は異なる。豚は応答悪い。
・世界の研究の中心は英国。
・日本は小平とつくばの動物衛生研究所
・台湾は1997年から発生しているが、ワクチンで対応しようとして上手くいかなかった。殺処分は300万頭以上
・動物は立てなくなってしまって、人道的に殺さざるを経ないことも。人道的に。煮沸すれば患畜を食べる事は可能。
・韓国2000年。ワクチン接種。1年以上かかった。
・英国 殺処分方式。1960年代には風によって60kmも飛んでいった事も。1991年にはEUでワクチン中止。
・2001年から羊から発生。牛に。フランスの講師と感染羊で。オランダにも波及。畜産産業への不投資が起こした人災か。
・現在、口蹄疫抗ウイルス薬開発中
・熟成ハムは200日近くウイルスを保持する事もある。これを豚に与えたりすると、問題になる。
・宮崎では90万くらいの殺傷
投稿情報: 11:55 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (1)
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以前から百日咳の血清診断について質問を受けることが多いので、ここにまとめておく。出典は
石川、田中・青年および成人百日咳の診断は難しい 綜合臨床 2009;58:2081-2084
で、このタイトルからして意味深である。「難しい」と困難をそのまま吐露する日本の論文は希有なので、そう言う意味でもこの論文は貴重だ。
・培養検査は乳幼児で分離できることが多い。30−40%。青年・成人では見つかりにくい。
・血清学検査は、日本では菌体に対する凝集素価を測定しており、これは乳幼児の診断の指標を援用している。成人に使えるかどうかは不明。
・東浜株は血清型1,2、山口株は1,3である。山口株が流行株で東浜株がワクチン株なので、山口株のみが上がっている、東浜株より上がっていれば診断、、、という説もあるが、実証はされていない。また、1981年からは死菌ワクチンではないacellular vaccineになており、凝集抗体価がワクチン接種後も上がらないことが多い。また、ワクチンの抗体保持効果も10年程度ということで、青年期に抗体価を維持している可能性は低い。
・要するに、今の若者であれば東浜、山口(のどちらか?は)を気にする必要はあまりないと言うことだ。
・ちなみに死菌ワクチンの予防効果は高く、acellularは低い(ただし副作用が少ない)。これが世界的な百日咳増加の原因となっている、という意見もある。
・もひとつちなみに。アメリカがacellularを入れたのは1990年以降なので、この判断はアメリカよりも日本が早かった。日本がワクチン政策で世界の先鞭をつける希有な例だ。
・したがって、抗体価(シングル)で、どこをカットオフ値にするかは、分からない。160よりは320、320よりは640だと「可能性高いか、、、な?」という感じだ。
・海外では抗PT抗体が用いられることが多いが、これを日本の血清検査と比較検証した研究はほとんどないという。
・報告では、抗PT抗体で、94EU/ML以上を陽性、49-93は判定保留とする。あるいは100以上なら陽性とする、という意見もある。いずれも確定的なものではない。血清検査はむしろ疫学的に使用すべきで、臨床診断には役に立ちにくい、と書いている文献すらある。
・2008年の病原微生物検出情報で、百日咳診断の目安(案)(岡田ら)が提言されている。ここでは凝集素で40倍かペアで4倍以上、PT-IgGで94-100、あるいはペアで2倍以上を陽性とする案が出ている。ただし、検査が陰性でも「臨床診断」するという選択肢は(確定診断ではないが)残している。
投稿情報: 12:31 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (2)
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さっきだしたIDSA/SHEAのガイドラインはここです。
http://www.journals.uchicago.edu/doi/full/10.1086/651706
どうして、CDADではなくCDIなのか?という疑問があったのだが、「下痢だけじゃないぞ」という点を強調したかったからのようだ。なるほどね。でもならば、下痢をしている場合はやはりCDADでよいわけで、、、構造主義的にはちょっとなあ、、、と思う。
www.eurosurveillance.org/images/dynamic/EE/V13N31/art18944.pdf
アイルランドのように併記している国もあるようです。こっちのほうが大人の態度だと思う。
www.hpsc.ie/hpsc/EPI-Insight/Volume92008/File,2944,en.PDF
今、監訳している「Issues and Controversies」にはCDI/CDADの煮え切らないところがよく議論されていてとてもおもしろい。お奨めです。英語で読むのはちょっと、、という方は、もちょっと待っていただければ日本語版がでる(と思います)。煮え切らない部分こそしっかり勉強。
http://www.amazon.co.jp/Emerging-Controversies-Infectious-Disease-Diseases/dp/0387848401/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1275525108&sr=8-1
投稿情報: 10:33 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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ができている。
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2010/05/s0521-5.html
ここにメトロニダゾール経口薬がある。現在トリコモナス膣炎にしか適応がない。で、嫌気性菌、アメーバ赤痢、ランブル鞭毛虫感染症、細菌性腟症などに要望が出ているのだが、、、、
※ 「クロストリディウム・ディフィシル関連腸炎」については、塩野義製薬(株)からの特段の意見により開発要請を保留している。
というコメントがついている。これは異な、、、、
というわけでその「特段の意見」を拝聴してみる。それは、重症例にはバンコマイシン経口よりも治療効果が低いので、軽症、中等症に用いるように、というIDSAとSHEAの新しいガイドラインがある、というものである。米国ではメトロニダゾール経口薬の必要性が「低下している」ため、日本での承認は必要ない、という見解である。
これは異な、、、、
米国でメトロニダゾール経口薬の価値が低下しているのは、事実である。しかし、それは相対的なものでメトロニダゾールが承認取り消しになった、とか販売中止になった、ということではない。優先順位に変更があっただけである。しかも、軽症、中等症にはいまだにファーストラインの治療だ。ファーストラインの治療について、日本はまだそのスタートラインにすら立っていないのである。承認の有無とは全く関係ない。議論のすり替えだ。
ちなみに、バンコマイシンは125mg1日4回が推奨される。コストをやや抑えられる。ただし、再発は多い可能性があるので、再発例には500mg4回のほうがよいかもしれない.
Am J Gastroenterol. 2002;97:1769-
こっからはあくまで憶見が入っているが、世界最大の抗菌薬消費国である米国は偽膜性腸炎のインパクトが大きいのだろう。メトロニダゾールの使用量も日本より圧倒的に多い。相対的に効きが悪くなるのは当然といえば当然だ。
バンコマイシン経口薬がVREを増やすという明確な証拠はない。が、バンコマイシン経口薬使用が増えた後、韓国ではVREの増加が観察されている。
J Infect Chemother 2003;9:104-
また、各国のデータ(フランス、UK、韓国、カナダ)を見るとメトロニダゾールの感受性は全体的には保たれている。アメリカのデータだけを見ていてはいけない、日本には日本の事情がある、というのは日本のメーカーの常套句ではなかったのか。
Antimicrob Agents Chemother 2002;46:1647-
J Antimicrobial Chemother 2005;156:988
Antimicrob Agents Chemother 1999;43:2607-
Diag Microbial Infect Dis 1999;34:1-
Clin Infect Dis 2005;40:1591-
バンコマイシン経口だけでなく、別のオプションもあったほうが戦略的である。逆に、塩野義に、メトロニダゾールが「使われてはいけない」根拠を求めたい。米国においてその価値が低下した、だけでは「根拠」とは呼べない。もし、そういうものがあるとすれば、その根拠は塩野義の内部にしかない、と僕は思うのだが、どうだろうか。
投稿情報: 10:02 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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EBICセミナーがあります。僕もひさしぶりに参加です。
http://www.ebic.jp/news/news_se12.html
今回は、スライドもハンドアウトもなしです。その理由は以下の通り。
パワーポイント資料を配付しない理由の説明(言い訳)
岩田健太郎 神戸大学病院 感染症内科
2010年4月27日、ニューヨーク・タイムズ紙にセンセーショナルな記事が掲載されました。「敵に出会った。その名はパワーポイント」というものでした。アフガニスタン攻略のための作戦を立案するときに米軍はパワーポイントを多用しましたが、そのことが知的営為を減らしてしまっている、という主旨でした。この記事は医学教育関係のメーリングリストに紹介され、世界中の反響を呼びました。多くは共感をもって迎えられました。なぜなら、パワーポイントは「話者の都合、話者の便利」には合致していますが、それが学びの向上に結びついたことはなかったからです。
パワーポイントの華麗なプレゼンテーションをパラパラ見ていると、我々は「分かったような気」になります。しかしその実、何も理解していないことも多いのです。理解していないのに理解しているような気分にさせる、そのようなトリックがパワーポイントにはあるのです。パワーポイントはプレゼンテーションには便利なソフトですから、そのしゃべりはスピードを増していきます。聴く者が考えるチャンスを失います。なんかよく分からんが、分かったような気になるのはそのためです。
多くの方が自分の頭でついて行くくらいのスピードで理解できるのは、実は黒板で板書するくらいのスピードなんだそうです。まあ、マシンガントークの岩田が何を言うか、という感じですが、僕も最近は反省して学生のレクチャーやナースとのワークショップは対話型にしており、こちらが一方的にしゃべくり倒すというスタイルを改めつつあります。
黒板、板書の時代に還れ、と年寄りじみたことを言っているのではありません。黒板、板書のプレゼンテーションはそれはそれで問題です。まず、アイコンタクトができません。おしりを向いていますからね。大勢を相手にする場合は、字が小さすぎて読めない、ということもあるでしょう。僕が学生時代は多くの教授は黒板に板書でしたが、それを有効に使っている人は希有でした。
実は、文字にする、そのことだけでも僕たちの知的労働は怠けに入ってしまうのです。みなさんは、アフリカ大陸に「文字のない社会」があるのをご存じでしょうか。情報は口伝えに代々先祖から子孫に伝えられます。ずいぶん遅れた、知的レベルの低い人たちだなあ、と思ってはいけません。彼らの知的営為は文字を残して頭に残すことをサボってしまう僕たちよりもはるかに高い部分もあるのです。そのことを看破したのが川田順造という文化人類学者でした。川田順造の師匠筋に当たるのが先日他界したレヴィ・ストロースです。レヴィ・ストロースは知的レベルが高いと信じていた西洋の価値観が、実は「価値の一つ」に過ぎないということをブラジルの森の中で発見し、それを看破したのでした。「構造主義」と今我々が呼んでいるものはレヴィ・ストロース(とソシュール)が成立させたのです。構造主義?そんな難しい話は私たちには関係ないわ、と思ってはいけません。今僕らが問題にしているインフルエンザの問題はまさに構造主義そのものを、つまりはシニフィアンとシニフィエ、名前と名前をつけられるものとの「関係性」に依存しているのです。
我々は、自分たちの考えや知識やコンセプトを人口に膾炙するために文字を発明し、活用してきました。マルティン・ルターが一所懸命聖書をドイツ語に訳したのがそうですし、グーテンベルグが活字を発明したのがそうですし、杉田玄白らが解体新書を作ったのも文字化の功績です。インターネットや電子メール、最近ではTwitterやらFacebookと呼ばれるものも文字の功績です。一般に知的コンセプトを広める際、文字はとても有用なツールです。
人々に何かのコンセプトを広げる有用なツールにテレビがあります。今ならYouTubeがそうでしょう。そういうツールを僕も活用しますし、全然否定はしません。
ただし、これらのツールは僕らが「ものを考える」上ではむしろ邪魔になります。サボってしまうからです。平坦な情報開示には文字や映像はよいでしょう。しかし、ものを考えるときには、我々は異なるツールを必要とします。
このことを最初に看破したのはギリシャの哲人、ソクラテスでした。ソクラテスは一切文字に残しませんでした、自分の考えを。ソクラテスの言葉はプラトンによって、その「対話篇」によって示されたのです。日本には「古事記」という書物があります。これは稗田阿礼という人が口述したものをまとめたものなんだそうです。古事記をまとめて、「古事記伝」を書いたのが江戸時代の本居宣長という人です。その宣長を現代に紹介したのは文芸評論家の小林秀雄でした。
小林秀雄は、レトリックを批判し、ダイアレクティクを推奨しました。レトリックとは、要するに「雄弁」です。説得と呼んでも良い。私はこんなに正しいですよ、と他人を説得するのです。しかし、小林は「説得」は学問としてはよろしくないことだ、と考えました。学問は説得することではない。自分が正しいと自己の正当性を主張し、他人の間違いをあげつらうことではない、と。
説得にかかると、全てのデータが自分の主張に都合良く移ります。自分に反する都合の悪いデータは否定にかかります。残念ながら、日本の学術界もこのような「説得」型の議論が多いです。曰く、タミフルを飲ませるのが正しいのか、どうか。ワクチンは1回がよいのか、2回か。私は正しい、あなたは正しくない、という定型でもって議論が行われます。これは、有り体に言うと、あまり賢い議論の仕方ではありません。
ダイアレクティクとは、簡単な言葉で言うと「対話」です。プラトンが、ソクラテスがやったことを指したのと同じです。今では辞書を引くと、ダイアレクティクは「弁証法」というややこしい訳がついています。これはヘーゲルというややこしい人が難しくしちゃったのでそういうめんどくさい名前になりました。
対話、つまり「自分はこんなに正しい」、ではなく、「自分は正しいんだろうか?」と問いをたてるのです。これに答えを与える。また問いを出す。答える。こういうことを繰り返していくと、なんとか妥当なゴールに近づいていく、こういうことです。
対話=ダイアレクティクに比べると、「私は正しい」=レトリックという主張は非常に幼稚な議論であることが分かります。残念ながら、日本の学術界は非常に幼稚な、僕の言う「白髪の小児」が多いのです。これではいけません。僕らは「自分はこれが分からない」「理解できない」「どうしてなんだろう」と問いを立て続けることだけが大事なのです。
残念ながら、感染症界も例外ではなく、残念ながら感染管理の世界も例外ではなく、感染管理看護師の多くもその例外ではない、と僕は申し上げなくてはいけません。「何が正しいの?教えてちょうだい?」というばかりで、自分で考えないのです。EBICセミナーでも、僕がしゃべると「岩田はこう言っていた」と丸呑みされてしまうのです。岩田の言っていることは、本当だろうか?と吟味する。問いをたてる態度がICNには必要です。ですから、こういうセミナーで僕らのしゃべることを一所懸命飲み込み、ハンドアウトにメモリ、それを取り出して「岩田がこういっていた」と開陳するのは、あまり意味がないのです。
ICNの黎明期であれば「CDCはこう言っている」みたいな事実を飲み込むことには意味がありますが、我が国の感染対策は、そろそろそういう時期を乗り越えるべきだと思います。CDCはなぜそう言うに至ったのか?それは妥当なのか?我々の現場にapplicableなのか?こういう吟味が必要です。
ハンドアウトの話がでました。「ハンドアウト」も、「抄録」も僕は原則渡したくないのです。そりゃ、当然です。ハンドアウトを渡すと言うことは、僕がしゃべり、主張し、結論づけるところがもう事前に決まってしまうからです。これはレトリックであり、一つ下のレベルの議論になります。なるほど、PTAの会や市民講座ではこのようなやり方もあるでしょうが、プロ集団を相手にする場合はもうすこし異なるやり方もあって良いと思います。落語家も真打ちレベルになると、何をしゃべるか決めずに高座に上がります。高座に上がって聴衆を見回して、彼らの顔つき、表情を見て「今日はこの題目でいこう」と決めるわけです。落語家は、一見一方的にしゃべっているように見えますが、実は聴衆の表情や呼吸を読んでしゃべっています。実は対話しているのです。ここでもディアレクティクなのです。
ハンドアウトを渡すと、議論の先が読めてしまいます。結論も決まってしまいます。また、メモを取るために目線は下に向き、話者とのアイコンタクトが妨げられます。周知のように、コミュニケーションの大部分はノンバーバル、言葉でない部分で行われます。アイコンタクトのない対話は実りが小さいのです。
新型インフルエンザを巡る問題は、答えよりも「問い」の多い問題です。「どうしたらよいか分からないから、答えをちょうだい」と我々が言うから、(できもしないのに)厚労省は一所懸命細かいガイドラインを作りました。これが我々の現場での営為を非常に困難にしたのは記憶に新しいところです。自分の頭で考え、判断し、決断しなければ、進行・再興感染症には立ち向かえないのです。もう、お上にお願いします、と丸投げにしてはいけないのです。我々はそろそろ、成熟したプロになるべきです。
そんなわけで、プロ集団であるEBICセミナーでは、僕はパワーポイントなしで、皆さんの目を見ながらお話ししたいと思います。皆さんも僕の目を見ながら話を聞いてください。メモを取る必要はありません。手を動かすのではなく、頭を一所懸命動かして、「私」はどう考えればよいのか、どうすればよいのか、一緒に悩みましょう。
投稿情報: 10:29 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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昨日は3年生に講義。今年度の講義は1年生の「医学序説」に続いて。お題は「臨床感染症学の基本」
19歳女性の止まらない咳から問診だけで原因微生物まで導き、臨床感染症学が通常の微生物学と逆に思考することを示す。感染経路が大事であることを、パスツール、ボツリヌス、炭疽菌、ジョン・スノウ、ゼンメルワイスの例を示して考える。結核について考える。HIV感染症について考える。インフルエンザについて考える。感染症の診断の恣意性、病気の診断の恣意性について考える。ソシュールと構造主義について考える。抗菌薬の歴史について、秦、フレミング、フローリー、チェーン、世代を通じたセファロスポリン、MRSA、院内感染という流れで考える。予防接種の価値について、種痘から考える。DTaPに言及し、これで冒頭の話につながって。その間、雄弁(レトリック)ではなく、対話(ディアレクティクス)こそが大学生の学問なので、だから本当は俺の講義なんて聴いてちゃダメで、自分でがんばって勉強しなさいよ、という話をする。ハンドアウトやシラバスやパワポが大学生の勉強の質を下げますよ、という話もする。答えを出そうとするな、疑問を出そうとしなさいという。俺は正しいと主張するな、俺は本当に正しいの?と首をかしげなさい、という。神戸大の学生は賢いのでこの程度の内容なら理解できる、、、はず。それにしても60分x3回の講義は疲れます。
回診したり書類仕事をした後、グレミリオン先生の歓迎会で焼き肉。この1年野菜中心の食事なので今は胃が重い、、、、肉をがつがつ食えた若き日が懐かしい。
本日は厚労省の会議。やっとこれで終わりだ。今新幹線。その後Nプログラムの歓送会。ずっとでていなくて失礼していたので、久しぶりに顔を出す。
明日は岡山大で研修医にセミナーです。最近はようやく大学でお話しする機会もできてきた。数年前は一般の病院で呼ばれることがあっても、大学に呼ばれることはめったになかった。たまに大学に呼ばれて話をしても、「岩田先生は奇抜なアイディアの持ち主ですね」とか座長にとんちんかんなことを言われたものだ。基本的な話しかしていないにもかかわらず、である。亀田にいたとき、清山先生がまだ学生の時、東大に呼んでくれたが、東京大学の教員は「そんな人呼んでもしようがない」的に僕を呼ぶのを拒んだ。なので、清山先生たち学生が自主的に呼んでくれた。もちろん講演料はただである(ただし、あとで聴衆のアンケートをくれた。こういうのはうれしい)。今は大学はおろか、学会で話をしてもちゃんと通じる。話の内容はたいして変わっていない。奇抜なアイディアもオリジナルな思考もない。基本的な話しかしていない。青木先生や遠藤先生の講義のパクリ話を繰り返してしゃべっているだけである。世の中がようやく変わってきてくれたのである。遅々としたあゆみながら、確実に。
投稿情報: 09:04 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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大曲先生の「感染症診療のロジック」を読む。
感染症のプロにとっては、目新しいことは何一つ書いていない。が、これは名著だ。
本書くらい、これまで大事に語られてきた言葉が適切な言葉で使われて文字になった例を知らない。青木先生の「マニュアル」すらしのぐほどの説明の丁寧さ、ロジックの綿密さである。想像だが、長い間静岡で多くのドクターと対話をつづけ、様々な異論、反論に応え、理論武装を重ね、そうした年輪が積み上がっていった結晶みたいなものが本になったのではないだろうか。僕にはとても、ここまで堅くロジックを積み重ねることはできない。こういうのは大曲先生でないとできない。
感染症の勉強を始めるには本書はとてもよい教科書だと思う。感染症のプロが本書を読むときには、とくに日本で診療をしている者が読むときには、自分が漠然と抱いているロジックを堅牢なものにするためのよりレベルの高いトレーニングとして用いると良いと思う。本書をうっかりさらっと読んで、「そんなことは俺は知っているよ」としたり顔で流してはだめなのである。
投稿情報: 10:54 カテゴリー: 感染症 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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