医療ガバナンスの上氏による、KIFMECなぜ破綻?の記事を読んだ。
上氏は、KIFMECにおける移植患者の死亡が相次いだことは非難に値しないと主張する。ぼくも同意見だ。死亡リスクの高い患者を診療していれば、死亡例がみられるのは当然で、それがいけないということになると医療者はリスクの高い患者の診療を断る結果になる。それは患者の利益と真逆の態度だ。他院で断られた患者の診療を引き受けた医療機関で死亡リスクが高いのは当然であり、それを理由に非難するのは間違っている。この点において上氏の批判は妥当である。
問題はその先にある。
ここで上氏は神戸大の具教授がKIFMECの生体肝移植が「医療産業として成り立つかどうか議論したい」というコメントを「商売敵を叩いているようにしか見えない」と批判する。そこに論理の飛躍がある。
KIFMECにおける手術とその結果生じた死亡が妥当なものであるかどうかの議論と、KIFMECの医療産業としての妥当性は別問題である。
ぼくは外科医でないから、手術の妥当性についてコメントしたくはない。しかし、仮にそれが妥当だったと仮定してもKIFMECの医療産業としての妥当性ははなはだ危ういものであったと考える。
国際的には肝移植の主流は死体肝移植である。生体肝移植はマイノリティーな存在だ。毎年世界では2万回以上の肝移植が行われているが、生体肝移植はそのうち15%前後を示すにすぎない。ぼくは中国にいたとき、肝移植目的の外国人の医療搬送を手伝ったことがある。中国では多数の肝移植センターがあり、そのほとんどは死体肝移植だった。その規模の大きさに驚き、多くの外国人が肝移植を求めて中国にやって来る事にも驚いた。このビジネスに参入するには相当なボリュームをこなさないといけないと痛感した。
翻って、日本では肝移植はほとんどが生体肝移植である。それがいけないというのではない。個々の症例では生体肝移植という選択肢だってありえよう。しかし、生体肝移植のみで国際社会のビジネスに参入するというのはあまりに無謀である。ドナーが少なすぎるからだ。そして、その生体肝移植のみを収入源とする特化した医療施設がビジネスとしてサステイナブルかというと極めて疑わしい。
上氏は以前から「選択と集中」が医療界において重要であると主張してきた。デパートのようにいろいろなサービスを提供する病院、例えば大学病院など、を批判してきた。
もちろん「選択と集中」が上手くいくケースもある。白内障の手術とか、リスクの小さな領域に特化した場合である。しかし、そもそも死亡リスクの高い患者(肝移植を必要とする時点でその患者の死亡リスクは高いのである)と対峙する時点で、様々なリスクを予見せねばならない。術後の予後のみならず、訴訟のリスクもある。
まして、KIFMECはゴッドハンド的な極めてレベルの高い外科医の技量に依存した肝移植専門病院だった。たとえば、彼が交通事故や病気にみまわれ、その手が動かせなくなったらどうなるのだ。当然、検討しておくべき想定問答だ。肝移植死亡例のスキャンダルが非難されるに値する問題だったかと問われれば、ぼくは「そうとは限らない」と申し上げたい。しかし、一人の外科医の天才的技量のみを拠り所にした、生体肝移植に特化した病院の医療産業としての妥当性については大いに疑問である。よって具教授のさきのコメントはまったくもって正当だと言わざるをえないのである。上氏はKIFMECにおける手術予後判断の妥当性と、KIFMECという医療機関の経営妥当性を混同しているのだ。
基本的に「選択と集中」の基本構造はバクチと同じである。「選択と集中」という戦略は、多数の失敗事例が生じるリスクを飲み込んでも、少数の大成功が全体の繁栄とトリクルダウンをもたらす、という理屈である(その理屈が正しいかは、知らない)。よって「選択と集中」でこんなに成功した病院がありますよ」という言い方で「選択と集中」の正当性を主張するのは間違っている。その裏には死屍累々たる失敗例が隠れているからである。これは「バカラでこんなに儲けた話がある」と言ってカジノに誘い込む手口と変わらない。
アメリカではベンチャーの起業を奨励するが、その大多数は失敗する。失敗者が多いのは構わない、というのがビジネスモデルの前提だ。IT起業がいくつか潰れても我々は困らない。問題は、そのようなモデルを医療に採用してもよいかということだ。家電メーカーが経営破綻すれば、我々はその再起まで座して待つことができる。しかし、肝疾患の進行は止まらないのである。
KIFMECの経営には神戸市が深く関与していた。上氏がKIFMECの破綻について、神戸市の責任を問うのはまったく正当なことである。
しかし、それを言うならば、同様の理由で出資していた三井物産ら民間企業の読みの甘さを批判すべきではないか。三井物産は「選択と集中」はしないから、KIFMECが経営破綻しても、そこを切り捨てて自分たちは生き延びることができる。彼らがメディアから批判されることもない。上氏は造り酒屋が母校を作ったとか言って「民間こそがよいのだ」という「雰囲気」を主張するが、そのような根拠は少なくとも本件に関する限り皆無ではないか。
一般論として、リスクは分散するのが定石だ。三井物産がそうしているように。外科手術はリスクを伴う医療行為だから、当然リスクヘッジは前提だ。大学病院がうまくいっていないのは、多機能だからなのではない。多機能にもかかわらず、縦割りでビジョンを共有できず、各機能にコヒーレンスがないからなのだ。ビジョンを同じくし、各機能に連動性をもたらせば、大学病院はレジリエンスのある質の高い医療機関として機能できる。そこには「バクチ」はない。
上氏は田中氏の再起を願い、民間の活力を源泉にすべきだと主張する。再起を願うのは当然だ。しかし、官か民かは上記の理由で問題ではない。「選択と集中」が構造的にバクチである以上、同様に生体肝移植に特化した病院を作れば、同じような理由でまたバクチである。生体肝移植という希少な医療リソースはそのようなビジネスモデルに組み込んではならない、というのがぼくの意見である。
コヒーレンスが必要なのは専門家団体も同様である。固形臓器移植といった希少な技術は国全体でビジョンを持ち、業界、専門家が一致団結して守っていくべきリソースなはずだ。しかしながら、病気腎移植問題など、業界内の内部分裂が結局患者に損をさせている。これは移植業界のみならず、医療のあらゆるセクターに普遍的に見られる病理である。大学・学閥とか、業界内の派閥といったくだらないものを排斥しないと、同様の問題は構造的に発生し続けるのは間違いないとも思う。
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