献本御礼
ちょっと自慢話。田中竜馬先生とぼくは沖縄県立中部病院初期研修の同期である。奇遇である。その後ぼくはアメリカにわたり、St. Luke's Roosevelt 病院というところで内科研修を受けることになるが、1年後に竜馬先生も同じ病院の内科研修医になった。奇遇である。その後しばらくたって亀田総合病院で総合診療とか感染症をやるようになったが、その後竜馬先生も同院で集中治療を担当することになる。奇遇である。
アメリカでの内科研修ではけっこうICUローテが長い。さらに奇遇なことにぼくは竜馬先生と同じ時期にICUを回ることがあった。ぼく内科2年目、竜馬インターンである。アメリカは屋根瓦方式だ。というわけで、ぼくは内科研修医1年目の竜馬先生を相手に「そもそもICUでのカルテの書き方はだねええええ」とか言いながら、集中治療の何たるかを滾々と指導したのであった。日本広しといえども、田中竜馬先生に集中治療を指導した日本人はぼく一人なのではあるまいか。
というのはもちろん大ウソで、野戦病院で百戦錬磨の経験を積んでいる竜馬先生は(ああ、いちいち先生つけるの面倒くさい)、とくに手技とか緊急対応においてはアメリカの研修医のそれよりも遥かに高い経験値を積んでいた。アメリカだとわりと手技はしないのである。採血はナースがやってくれるし、気管内挿管は麻酔科医の仕事だった(このへんは病院とか時代によっても違うらしいが)。いずれにしてもICUの重症患者にビビっていたヘタレのジュニアレジのぼくは、「この患者さん、この抗菌薬でいいかな」とか「輸液、このスピードで間違いないかねえ」といちいち竜馬先生にお伺いを立ててその晩を凌ぐというかなり姑息なやり方でこの極めてメンタルに苦痛なローテーションを乗り切ったのだった。屋根瓦は優れた教育システムであるが、それは自分の下についている研修医が自分よりも能力が高くない場合に限定される。
そのルックスからイメージされるのとは対照的に、田中竜馬先生はかなり泥臭いドクターである。仕事は丁寧で、感染症医にコンバートしたくなるくらいネチッコク患者の問題と取っ組み合う。その反面、見た目そのまんま運動神経は良く手先は器用なので(性格はそうとう不器用だが)手技は上手い。案外、同僚や部下思いであり、懇切丁寧に指導する。恐ろしくシャイなので素直に研修医やナースをべた褒めしたりはしないが、意外にコミュニケーション上手なのでその伝えんとするメッセージはきちんと伝わるのである。回診は活気に溢れ、レクチャーはクリティカルケアを勉強したい研修医たちでいっぱいになる。ウィットに富んだ参加者とのやり取りは、エッジの効いたジョークや諧謔もあいまって飽きさせない。あれはちょっと勉強したくらいでは、なかなか真似のできるものではない。
しかし、である。才気に溢れ、かつ努力家の竜馬先生とはいえ、リーダブルな教科書を作る術については、ぼくのほうに一日の長があると思っていた。本の中にオヤジギャクをぶちかましたり、関西弁でコテコテの漫才トークを展開させるなんていうのは、ぼくくらいの恥知らずでないとできない。プライドの高い医者なら絶対にスルーする方法だ。
ところが、である。本書はそのようなオヤジギャクとか関西弁の漫才トークに満ち満ちた本であり、最初から最後まで一気に読ませる実にリーダブルな本である。しかも、内容の妥当性には一ミリの妥協のない、いわば理想的な教科書だ。研修医や学生には最良の教科書であろうし、「必殺の、、、」に代表されるシニックは、読む人が読めば、日本の一部の集中治療に対する極めて効果的で鋭いアンチテーゼ、クリティークにもなっている。もっとも、鈍い人が読めば全然気づかんだろうけど。敗血症やARDS治療のあの薬もこの機器も本書では全然言及されていない。そのことが暗示するメッセージを、読者はちゃんとつかみとるべきだ。
というわけで、本書はICUをローテートしそうな学生、若手医師には必読な一冊だ。読後の満足感は保証する。指導医クラスが読んでも結構楽しい読み物だとは思う。ぼくも読んでいて楽しかった。内容の妥当性にまったく問題がないことはすでに述べたとおり。全体的には日本の臨床医学系の教科書の質はよくなっていく一方ですね。
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