MRIC Vol.036の森田麻里子氏の論考を興味深く読んだ(JBpressにも掲載)。断片的には首肯できる点もあるが、全体的にはロジカルではなく、その結論も正しくはない。とくに「大学は最も総合的でない診療をする施設」というコメントはまったく正しくない。
森田氏は新専門医制度において、後期研修医が市中病院から大学病院に集められるのでは、という懸念から厚生労働省の医療政策や学会の思惑を批判する。新専門医制度そのものが本稿執筆時点で議論が百出しており、その行方がはっきりしない以上、この点で議論はしない。私個人としては、専門医を養成する能力のあるスタッフとシステムがある医療機関が専門医を養成すれば良いだけの話で、そこに大学病院も市中病院もないと考えている。初期研修医のマッチングのときに必ず「大学病院vs市中病院」のマッチ数の比較が出されるが、あれも時代遅れでナンセンスな対立構造だ。
ただ、現状の専門医制度は(サブスペシャリティーにもよるので過度の一般化はできないが)、専門性の質を担保できていないのは事実であり、現状維持は許容できない選択だ。森田氏は厚労省の政策が「場当たり的だ」と批判するが、現状の学会主導、学会からの「ご褒美」として与えられる専門医資格はもっとはるかに場当たり的ではないか。
森田氏は日本政府の医療費抑制の目論見を、医師数の目論見と言い換え、それを総合医の養成とさらに言い換えて、そして「国民の医療ニーズは増えているのに、多くの病院の収支は急速に悪化する」と結論づけている。ここに論理の飛躍がある。
そもそも、日本のほとんどの医療機関では総合医が普及、活躍しているわけではない。それが医療機関の収支の悪化をもたらすなどという根拠はどこにもない。厚労省の思惑は知らぬが、プライマリ・ケア医がゲートキーパーになれば医療費が下がる、などというストーリーは机上の空論であり、現実のものではない。アメリカではマネジドケアで専門医に直接かかりにくいシステムを使ったが、医療費は高騰するばかりであった。ほとんどの医療機関で総合医がゲートキーパーとして機能していない日本ではなおさらである。
森田氏は初期研修のクオリティーと病院の収益を混同している。そこにまず問題がある。手技主体の循環器や消化器に特化した病院であれば患者の回転も早く、収益が上がるかもしれない。しかし、それが初期研修医にとって理想的な教育環境であろうか。
私見だが、初期研修医の段階では心臓カテーテル検査や内視鏡検査に入る必要はない。それよりも、胸痛患者や腹痛患者をきちんと評価できる訓練のほうが大切である。問題は、胸痛患者は循環器の患者とは限らず、腹痛患者が消化器の患者とは限らないという事実である。
私は仙台厚生病院を訪問したことがないから、この病院の初期研修施設としてのクオリティーを云々するつもりはない。しかし、もし仙台厚生病院が質の高い研修病院であるとすれば、それは利益率が高いという根拠のためではないことだけは、断言できる。
森田氏は「国家総動員と言わんばかりに、総合医ばかりを作る方向へ制度を急に作り変え」るというが、そんなに日本に(本当の意味での)総合医が多いのだろうか。
数年前、ハワイ大学で問題基盤型学習(PBL)のワークショップに参加したが、そのときの経験は驚きだった。屈辱的だった、と言ってもよい。
症例で提示されたのは70代男性の「ふらつき」である。入学して数ヶ月しか経っていないハワイ大学医学校の1年生が、その「ふらつき」の鑑別診断リストを完璧に作り上げたのである。循環器疾患、整形・膠原病疾患、神経疾患、代謝・内分泌疾患、感染症、耳鼻科疾患、眼科疾患、精神科疾患、薬の副作用などなどに至るまで。
誠に申し訳ないが、神戸大学医学部の学生でここまで完璧なリストを作れる学生は稀有である。初期研修医でもほぼ全滅であろう。内科系後期研修医はまず無理だ。うちの感染症内科の後期研修医でも(残念ながら)全員満点とはいかないだろう。指導医クラスだって怪しいものだ。教授にいたっては論外である。
私たちの臨床教育とは、これほどまでにお粗末なのである。誠に面目次第もないのである。神戸大学病院は、まだ質の高い総合内科があるからよい。それでもそのスタッフは年々減り続け、病院において多大な影響力を持っているわけではない。収益に対するネガティブな影響などほぼないに等しい。
日本において、どんな主訴の患者でもまっとうなアセスメントをできる医師は極めて少数派なのである。大学病院においてはさらに稀有なのである。
森田氏に問いたい。では、大学病院の患者が「ふらつかない」などということがありえようか。そんな事象は日常茶飯事ではないのか。その患者がどんなまれな病気を抱えていようが、その患者がふらついて苦しんでいる限り、きちんとアセスメントし、マネジメントされるべきではなかろうか。それとも、大学病院であれば診療の質は割引しても構わないとでも言うのだろうか。
大学病院だって病院である。患者は質の高い診療を受ける十全の権利がある。なるほど、大学では珍しい疾患を診断し、マニアックな治療も提供するが、それでも入院中の感染症など合併症も多い。日本のがんセンターの多くには感染症の専門家がいないから、がんの治療は優れていても、その後起きる合併症の感染症診療がプアなことが多い。
近頃流行りの「選択と集中」というのは実は多くの場合、短見である。政治においても、教育にもいても、経済においても、リスクは分散するのが定石である。森田氏だって多様性を主張し、「総合医ばかり」の状態はよくないと主張しているではないか。であれば、総合性を欠いた医療も鏡の裏返しで間違いなことは、ちょっと考えれば分かるはずだ。どんなにエッジの効いた専門性の高い医療機関でも、そういう意味の「総合性」は必要なのである。
臓器別専門医が必要ない、と主張しているのではない。すべての医師が総合医になれ、と主張しているのでもない。しかし、少なくともすべての内科医にはある種の総合性がなければならない。消化器内科医が腹痛患者で消化器の病気しか思いつかない、というのは、本当は専門医としての質自体も削りとってしまっているのである。感染症しか診れない感染症屋は、半ちくな感染症屋だ。
大学にも総合性は必要だ。総合医も絶対に必要だ。残念ながら、大学病院のスタッフですらこのようなシンプルな事実に気づいていない。現在は、医局の縦割り時代のように、当該診療科以外の問題は「やっつけ仕事」で許された時代とは違うのだ。
「大学は最も総合的でない診療をする施設」という森田氏の指摘は、残念ながらあたっている部分もある。現状はそのとおりの大学病院も多いからだ。しかし、現状がそうであるというのと、そうあるべきだというのは同義ではない。マルチディシプリナリーな大学病院こそ、真の意味での総合的な診療を提供すべきなのだ。
本稿の内容は著者の責任によるもので、所属組織の意向を反映するものではありません。
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