この週末は沖縄で、HAICS主催の講演である。ICNのためにリスクマネージメントについてしゃべる。http://www.haicsjp.com/12download/Okinawa
ぼくは講演や授業において「これから私が話そうと思うことは、要するにこういうことですよ」と事前にネタばらしをすることを好まない。「要するにこういうことだ」とまとめられるくらいなら、数十分を費やして話をするのは時間の無駄、と考える。なので原則、抄録は作らないし、作りたくないと常々申し上げている(これも時間の無駄だ)。が、しばしばそれを強要される。自ら主催のコンテンツのネタばらしをして興を削ぐ行為はいかにもイロジカルだと思うけど、なんでだろ。
ま、とはいえコンテンツの「チラ見」はむしろ興味をそそる広告になろう。人は基本的にチラ見が大好きなのだ。なので、以下、チラ見(長いけど)。
さて、まずは朝日新聞デジタル、2015年5月21日からの引用である。
「過激派組織「イスラム国」(IS)による邦人人質事件で、一連の対応を検証してきた政府の検証委員会が21日、報告書を公表した。外部の有識者の意見をも とに、「政府の判断や措置に人質救出の可能性を損ねるような誤りがあったとは言えない」と結論づけた。その上で、政府が取り組む課題として情報収集体制の 強化や、危険な地域への渡航抑制などを掲げた」
それに対する同紙23日の社説にはこうある。
「ただ、結論にいたるまでの個別対応の詳細は明らかにされていない。被害者のプライバシーや、他国との情報交換の中身を明かすことができない事情はあるだろ う。それでも、45ページの報告書の記述はあまりに抽象的だ。これを読む限りでは、結論の当否を判断することはでき、責任のありかも不明だ」
どうも最近気になっているのだが、新聞記者はきちんと論理学を学んでいるのだろうか。新聞記事は短い。その短いコンテンツにもかかわらず、上記のような、あきらかに整合性を書いた文章しか書けないというのは、ジャーナリストとして致命的ではないのか。
政府検証委員会は「誤りがあったとは言えない」としている。しかし、改善点はあるとも指摘している。
「情報収集体制の強化」が必要だということは、現行の情報収集体制が不十分であったことを意味ている。「誤りがなかった」という文章とはつじつまが合わない。この程度の矛盾くらい気づいてほしい。
一般的に、なにかの案件でその結果が失敗に終わった場合、そこには何らかの問題点、改善点があるのは明らかだ。もしそれが皆無、というのであれば同じ構造でまた同じ失敗が起きるのは必然だ。誤り、問題点、改善点は「必ず」あるのだ。
こういう無責任な検証が出る理由は明白だ。「どこに問題があったのか」と「誰に責任があったのか」が混在している、いや、後者のみに着目しているからである。
政治家も官僚も責任を絶対に取りたくない。個人の過失は自らの失脚につながる、という組織構造上の失敗があるからだ。だから誤りはなかったことにされてしまう。誰も責任を取らない方向に議論が進むか、どうしても誰かの責任を取る場合は末端の「トカゲの尻尾切り」をする。「秘書がやりました」というわけだ。
よって、「誰に責任があったのか」という問いを立てられた場合、「誰にも責任はなかった。あのときはみんなそれなりに一所懸命頑張ったのだ」という回答しかでてこないのは必然である。
それを促すのは、「どこに問題があったのか」に無関心で、「誰に責任があったのか」だけを追求し続けるメディアである。だから朝日は社説で「責任のありか」と述べたのである。もちろん、問題なのは朝日新聞だけではない。他社の新聞も、テレビも、雑誌も基本的には「なに」よりも「だれ」にしか関心はない。
これは「最近のマスコミはなってない」という意味ではない。昔っから日本のマスコミは「なっていなかった」のだ。
ぼくは「予防接種は効くのか」で戦後間もないころの京都・島根のジフテリア抗毒素の副作用による死亡事件をとりあげた。このときも新聞は「責任の所在」ばかりを追い求め、「コトの本質はどこにあったのか」にはまったく無関心であった。
そのような無関心は何を生むか。(政治的な圧力などで)「責任の所在」を追求できなくなった時は大本営的報道しかできなくなるのである。戦時の新聞が万歳万歳と事実を隠蔽し続けたのはそのためだ。現在のマスコミもその方向に向かっていないだろうか。
メディアは「ことの真相」には無関心で「だれを叩くか(叩いても怒られないか)」にしか興味がない。しかし、それを要求するのはもちろん国民・大衆・世論である。叩けば叩くほど売れるのだから、メディアが叩きたがるのはあたりあえだ。叩けば売れる。まるでバナナ売りである。叩き売りだから売れるのではなく、バナナの味(=ことの本質)で吟味すべきなのに。
もちろん、これはメディアや政府・霞ヶ関だけの問題ではない。
医療界では「こと」と「ひと」を分断しなければ、ことの真相、本質はわからないことを前提に医療安全対策を行うのが建前になっている。だが、現実に医療安全対策チームがやっているのは「だれに責任があったか」という犯人探しである。責任者探しを切り離して「こと」を考えられない。群馬大学病院の腹腔鏡手術事故調査報告書が極めてずさんで出来が悪かったのもそのためである。
この報告書では、「死亡した8例について診療科からインシデント報告がされておらず、病院として把握が遅れた」とさらっと書かれている。http://hospital.med.gunma-u.ac.jp/wp-content/uploads/2015/03/saisyuu_houkokusyo.pdf では、なぜ報告がなされなかったのか、その原因精査はまったく行われていない。そもそもなぜ「当該診療科」以外からの報告がなされなかったのかについても説明がない。当該診療科から以外は報告しなくてよい、という前提がそこには見え隠れする。
どうしてこういう変な文章が書かれるのか。それは、ほとんどの病院はいまでもインシデント報告は事実上の「始末書」になっているからである。実質始末書と化したインシデントが上がらないのは当たり前である(だれがボランタリーに誰にも要求されないで始末書など書くであろうか)。ことの本質はほったらかしで、犯人探しばかりやっているから、このような悲惨な報告書になるのである。
これは群馬大学病院だけの問題では無い。ほとんどの病院は事故対策をこの程度の短見で行っている。「こと」と「ひと」との分断ができていない。日本の医療安全なんとかのほとんどは「PDCAサイクルを回す」とか「ヒヤリハット」といった上滑りする業界用語を弄んでいるだけなのだ。
いつも言っていることだが、ぼくはあちこちの病院を訪問する。そのとき「うちは感染対策、できてますよ」と賢しらに感染対策責任者が言う場合、まず100%その病院は感染対策がちゃんとできていない。
「できている」の基準がまるで異なるのである。マニュアルが作ってあり、それを順守している、程度は「できている」とは言わない。プロ野球選手が練習マニュアルを作り、それを順守していても(打てず、守れず、勝てなければ)「できている」と言えないのと同じである。邦人人質事件の報告書も要するに、「規則通りにやってたけど上手くいかなかった。「だから」ちゃんとできていた」という程度の弁明なのである。ほんとうの意味のプロの世界では、そんな詭弁は絶対に通用しない。
野球のバッターは3割打てれば、よいバッターである。しかし、このバッターは別に「3割打とう。他の打席は打てなくてもよい」と考えているわけではあるまい。全ての打席でヒットを打とうと全力で取り組み、その結果として3割なのだ。残りの7割はぼおっとしていよう、と思う選手は、そもそも3割にも届かない。
そして、ここが肝心なのだが、かのまっとうな3割打者は必ず打てなかった70%の打席についてもちゃんと分析、検討しているはずである。「なぜ打てなかったのか」を考えるはずである。そして、「ここがいけなかったのだ」という原因も見つけだすはずだ(あるいはコーチあたりが見つけるはずだ)。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というけれども、打てなかった打席で「原因がない」ということはありえまい。必ず敗因はあるのだ。
もちろん、70%打てなかったという理由でこの選手を解雇するチームは愚かである。しかし、その打てなかった打席をうっちゃっておくのもやはり愚かなチームである。これが「こと」と「ひと」との分断である。3割打てるバッターは高評価の対象となり、もちろん叱責には当たるまい。しかし、それはそれとして「なぜ打てない打席は打てなかったのか」真摯に検討し、分析し、そしてその原因を探すのがプロの態度である。
感染対策において「できている」と言った瞬間、それはできなくなってしまう。必ずできていないところはある。それを見つけ出すのがプロの仕事である。だから、「ちゃんとした病院」では感染対策責任者は「うちはまだまだです」と必ず言う。もちろん、それは叱責や処分の対象にはなるまい。むしろ、「できています」とのほほんとしている輩を叱責すべきだ(みなさんのいる病院の病院長にそのような見識はあるだろうか。「できてます、できてます」と連呼する担当者をべた褒めしてないだろうか)。
リスクヘッジの第一歩はリスクをしっかり認識するところにある。リスクをリスクと認識しなければ、事故もなく、失敗もなく、失態もない。
しかし、それでは「ことの本質」を見失う。リスクと対峙するのは恐ろしいことだ。その恐怖は知っておくべきである。しかし、勇気とは恐ろしさを正当に認識しつつ、それにまっとうに対峙する誠実な態度のことである。
昨日、あるインタビューで「最近の若者は失敗を恐れて、失敗しない選択肢を探そうとばかりしている」という指摘を受けた。
それは事実かもしれない。しかし、ぼくは「失敗を恐れる」ことは決して悪いことではないと思う。昔の医療はよかった、イマドキの若い奴らは、というのは幻想、いや妄想にすぎない。日本の医療は問題を山ほど抱えているが、それでも過去の日本医療よりも遥かにましである。タイムマシンで過去に行けたら、(どの時代でも良い)、「昔の医療はこんなに悲惨だったのか」と嘆息するはずだ。知識の面でも、技術の面でも、態度・倫理の面でも。
昔の医学生、医者は今よりも失敗を恐れなかったかもしれない。しかし、それは「飛んで火に入る夏の虫」的蛮勇に過ぎない。そういうのを「勇気」とは言わない。昔は医療事故・ミスがあってもなあなあで済ませたし、情報開示の義務はなく、カルテ記載はいい加減で、医療訴訟もまれだったのだから。医者はふんぞり返っており、患者はかしこまり、へりくだっていた。
今はそういう蛮勇が許されない時代だ。若者が臆病になるのは当たり前だ(同様のことは医療界の外でもいえる)。
ただ、逆説的ではあるが若いうちはたくさん失敗しておいたほうがよい。失敗を失敗と認識しながら、である。それを重ねていけば「ここを歩くと地雷を踏む」というレジリアンスのあるエラー回避が可能になる。「死なない程度に、他人を殺さない程度に」たくさんの失敗をしておくべきだ。たとえ医療現場で失敗しても、それを認識し、対峙できるレジリアンスを涵養しておくべきだ。
例えば、思うに、若いうちは喧嘩はしておいたほうがよい。口論もしたほうがよい。
喧嘩の大多数は「しなくてもよかった喧嘩」だ。だから、喧嘩はたいてい失敗である。しかし、それは喧嘩=失敗を重ねてみないと分からない不要さだ。そういう体験をしていないと、本当に必要なときに戦えなくなる。あるいは、塩梅を理解できずに、相手を殺してしまうような惨事を招く。
喧嘩はイジメではない。イジメは相手の抵抗がゼロかほとんどゼロであるような状況での他者への攻撃である。喧嘩は相手の反撃を引き受ける覚悟を決めている状況での他者への攻撃だ。隠れたところから、安全なところから石を投げる行為を喧嘩とは言わない。多くは喧嘩の経験が乏しいから、イジメしかできない。
そういう喧嘩を若い時にしておけば、「ほとんどの喧嘩は回避しておいたほうがよい喧嘩だ」と肌で体得することができる。そういう経験がないと、「喧嘩はいけませんよ」という観念しか頭に入らない。観念だけの理解だと、「これはただじゃれあってるんですよ。喧嘩じゃありません。ましてやイジメじゃありません」と嘯いて、イジメで人を殺したり、自殺に追いやったりするのだ(これも殺しとほぼ同じだ)。それこそ真に残酷な営為である。
医学生の中には「生まれてこの方失敗を一度も失敗したことがない」というすごい人がいる。それは、「失敗を失敗と認識できていなかった」か「一度もチャレンジをしたことがないか」のどちらか(あるいは両方)である。
失敗のないチャレンジは存在しない。定義的にそれをチャレンジとは呼べない。医療の多くはチャレンジだ。そこには常に失敗のリスクが潜んでいる。そのリスクを顧慮せず大鉈を振るう医療は蛮勇である。しかし、リスクを直視し、かつチャレンジをまったくしなければ、それは医療ではない。医療行為には必ず失敗がついて回る。プロ野球選手に必ずアウトがついてまわるように。
「生まれてこの方失敗を一度も失敗したことがない」医学生は、医者になってから生涯最初の失敗を経験するわけで、これはとても恐ろしいことである。ささいな失敗に立ち上がれなくなってしまうひ弱な人物になるか、その失敗そのものを全否定して責任回避に走るか。いずれにしてもそこにはまっとうな医者の姿はない。この手の医者や官僚は、残念ながらそうまれな存在ではない。
リスクマネージメントにおいてもっとも大事なのは勇気、誠実さ、そして観察力である。リスクはちゃんと観察しないと視認できない。それを認める誠実さがないと、それと対峙する勇気がないと、リスクマネージメントは不可能である。残念ながら日本のリスクマネージメントの多くはそれが立法・行政であれ、メディアであれ、あるいは医療であれ、3つの全てを欠いているのである。
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