ぼくは上方落語についてほとんど知識がない。米朝落語もほとんど聞いていない(今、CD聞き出した不義理な聞き手である)。以下はファンには常識かもしれないし、間違っているところもあるかもしれないので、ご容赦ください。いろいろ読んだり聞いたりしていますが、とくに考えさせられるところが多かったのが以下の二冊。
小佐田さんはNHKの番組でおなじみ。いつも思うのですが、芸人の「履歴書」が一番面白い(一番つまらないのが政治家、というのがイワタの意見)。
いちどは滅びそうになった上方落語を再興させたのだから、米朝の功績はそれはもう偉大なわけだが、実は学生時代は東京の落語をたくさん聞き、またそこから学んでいたということを初めて知った。「生涯の師」も東京の正岡容だ(「履歴書」p39)。同時代、志ん生や小文治からも学んでいる(同p179)。落語くらい東西で違う芸風な芸能も珍しいが、実はあ。ちこちつながっていたのですね。談志が米朝を慕っていたのは知ってたけど、米朝が志ん生の落語を改作していたなんて全く知らなかった。「天狗裁き」とか「はてなの茶碗」って志ん生や馬生が先だったんですね(p187)(落語は西ー>東と思い込んでいた)。米朝の芸に対する真面目さも、色街や酒、たばこに寛容だった(でも元気で長生きだった)点も、いろいろ考えさせられる。こういうテキストから学ぶことはとても多い。
特に気になったところ
「舞台裏」p16 米朝師匠の米團治が、米朝が「東京のネタはすべて大阪から移したもので」と言ったら、楽屋で「あれは言い過ぎや。断言はするな」と注意されたというエピソード。米團治は「ガンと怒るのではなく、じっくり怒るタイプだった」らしい。こういう怒り方が、一番こわい。
おなじくP30 一文笛で、「わいギッチョやねん」のオチ。こういうのはNHKでカットか言い換えさせられるんだろうな。左利きやサウスポーだと面白さ激減だろうに。
おなじくP40 談志が「オレの言ってることは、米朝さんにしかわからないんだよ」と言っていたとか、酔った男子がパーティーで座ったまま「なんで俺が立たなきゃいけねえんだ」とゴネていたら、米朝が「談志くん。立ちなさい」と。談志は「はいっ」と答えて立ったという。わかるなあ。
P118 米朝の最後の高座は2007年だった。それ以前はまったく上方落語に無知だったぼくは晩年のラジオとかの弱々しいコメントしか聞けず、とても後悔している。
P165 米朝は「たちぎれ」を師匠に無断で20代のときにかけており、それがバレてとても叱られた。しかし、師匠の米團治も若いころ同じことをやっていた。その「たちぎれ」を熱狂的に愛したのが枝雀。
P171 ある日米朝はお囃子の入る「二階借り」を突然かけ、気づいた弟子たちが大慌てでお囃子を用意した。いい話だ。まさに「勲章」である。
p217 これはコネタかもしれないが、小佐田さんは圓生信者。
「履歴書」p77 一番興味深かったエピソードは、米團治に弟子入りしたとき、おかみさんに「出世前の子は便所の掃除はせんでええ」といわれたこと。
普通は、逆だ。便所掃除をして若者を育てる、というパターンが通俗的で、常識的だ。でも、ここで師弟は逆の選択肢をとったのだ。
ぼくはなるほどな、と思った。要するに(内田樹先生がラカンについて紹介するように、あるいは張良の靴のエピソードを繰り返し紹介するように)、師が弟子に教えるコンテンツはなんだってよいのだ。師が弟子に教えている、という関係性が成立し、その師弟関係が維持されているかぎり、何を教えても何を教わっても、それは学びの糧になる。だから、「履歴書」に書けるくらい記憶に残るのだ。
教育においては「何を教えるか」というカリキュラム的な部分ばかりが強調されるが、ほんとうのところでは、それはなんだって構わないのだ、とぼくは思う。自分が師匠と認識し、その師から言葉を賜ること「そのもの」に意味があるのだ。「ああ、あのとき師はこうおっしゃった」と遠い目をしていうことができる。そのことそのものに大きな意味がある。今の学生や研修医たちは、そのようなエピソードを数十年後に持てるだろうか。持てるといいですね。
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