明日で福知山線脱線事故から10年になる。犠牲者の皆様に心から冥福をお祈りする。
JR西日本は事故を受けて体質改善に取り組み、責任追及型から原因究明型に認識を改める、と表明した。しかし、JR西労組が行ったアンケートによると、ヒューマンエラーへの対応について、3割強が未だに「責任追及と感じる」と答えたという。要するに、言っていることとやっていることが違うのである。
責任追及型にすれば、「悪いやつを懲らしめる」カタルシスは得られるが、問題そのものが隠蔽されて「なかったこと」にされたり(とくにヒヤリハット)、表面的な当事者だけが糾弾される蜥蜴の尻尾切りになる。けれども、一番大切な原因究明は曖昧なままで、同じパターンのエラーが構造的に繰り返されるようになる。
だから、「罪を憎んで人を憎まず」で徹底的に原因究明=「何が起きたのか、なぜ起きたのか」だけに焦点を絞り「だれが悪かったのか」という観念を捨象する必要がある。けれども、「水戸黄門」に代表されるように我々は「悪い奴らを懲らしめる」的なエートスを刷り込まれている。だから、かなり意図的に、意識的にこうしたエートスを捨象しないと、ついつい「責任追及型」に戻ってしまう。日本でM&Mがうまくいかない、としばしば指摘されるのは、そのためだ。もちろん、日本でだってM&Mカンファを上手にやる方法はあるのだけれど、それにはかなり強固な意識改革と技術的な訓練を必要とする。
ぼくは亀田にいた時からM&Mを効果的に活用していた。日本的に「KAIZENカンファ」と名づけ、問題のあったケースを徹底的に掘り下げ、問題の根っこを探り出し、二度と同じことが起きないよう、皆で知恵をシェアするというやり方だ(root cause analysis, RCA)。現在でも神戸大感染症内科でこのような取り組みは定期的に行っている。一昨日も循環器の先生とケースを徹底的に洗い直し、さらなる診療の質を高める工夫を行ったばかりだ。もちろん、個々の医者が「悪いやつ」として責められることは絶対にない(そういう場では)。うちのスタッフも後期研修医もこのような「原因究明型」の問題発掘、問題解決の方法論を毎日の回診で習得させられる。つまるところ、感染症診療そのものが「問題発掘」「原因究明」「問題解決」の繰り返しなのだ。
しかし、JR西日本のエピソードが象徴するように、このような原因究明型のプラクティスは医療の現場では稀有と言ってよい。先日の群馬大の医療事故でも事故調査委員会の報告書は原因究明と責任追及がごちゃごちゃになり、その結果原因究明そのものは不十分になってしまった。これは氷山の一角に過ぎず、医療界の医療安全/事故調査のほとんどは、井上清成氏が指摘する「旧来型」、原因究明と責任追及がごちゃごちゃになって、結局原因究明はなおざりにされてしまう、、、、したがって、同じようなエラーが構造的に繰り返される、、、ものなのである(MMJ2015年4月号)。責任追及型なので、組織は隠蔽体質になる。群馬大学での術後死事例だってすぐにインシデントとしてあげていれば別の対応だってとれたはずだ。
それでなくても医師のインシデント報告数は日本では絶対的に少ない。というか、日本ではインシデント報告は「悪いやつ」が反省しながら出す事実上の始末書と化している。これは公益財団法人日本医療機能評価機構の責任も大きい。ここが作っているインシデント報告システムのひな形が、報告者がどのような人物でどのような資格があってなどを詳細にわたってinterrogateし、改善策まで提示させているのだから。よって、「おれが悪い」という自覚とカミングアウトする勇気がない場合は、絶対に報告は上がらない。群馬大での事故がそうだったように。煩瑣な報告システムそのものがまず報告意欲を減衰させるし、「改善策」など提示させるのは要するに「反省しろ」と言っているのに等しい。骨の髄まで「責任 追及型」の人間が作ったシステムなのである。まあ、そういう評価機構という一種の「権威」に無批判に乗っかっちゃう権威主義、形式主義の医療機関も悪いん だけど。
インシデントレポートは傍観者であっても「何月何日にどこそこでこういうことがあった」と報告すれば、それでよい。悪いという自覚もカミング・アウトする勇気も関係ない。報告者の身分や立場も関係ない。
ある外来改善系の会議で、カルテを書いてくれているクラークが改善策を提案しようとしたとき、そこにいた看護師は「あなたは口を出すことではない」と言った。ぼくは「会議に出ているメンバーはだれでもどんなことでも提案する権利が十全にある。ここにいる人で口を出してはいけない人はひとりもいない」と言った。事程左様に、日本では「なに」よりも「だれがどの立場で」を重要視するのである。丸山真男が「「である」ことと「すること」」を「日本の思想」で論じたのは1961年だが、それから立場主義、形式主義的思想は全然進化していない。
なので、医療安全を担当するものも「教員でなければならない」などと、あり得ない妄言が飛び出す。助教、講師、准教授、教授になる要件と医療安全を扱うエクスパティースは全く別物なのに、である。助教になるために医療安全の訓練を受けた、などという話は聞いたことがない。「いやいや、毎年医療安全に関する講習を受けてますよ」などと賢しらに反論する者もいるが、「ほう、あなたの領域の専門性は年一回のレクチャーで担保されるような専門性なのですか」と反論しておこう。例えば、うち(感染症内科)のスタッフや研修医はそこらの講師や教授たちよりもずっと医療安全についての専門的な知識や技術を身につけている。責任追及型にならず、Facts(What happened?)とOpinion(What do you think?)を分ける訓練も厳しく受けている。この2つも、医療安全関係の会合でゴチャゴチャに議論されている(というか、そもそも事実確認事態が甘々なのが通例だ)。「結局、この先生がもうちょっとちゃんとやっとけばよかったんちゃう?」とスカスカのデータから分かりやすい結論を作って、そして個人をそこはかとなく糾弾し続けている。
日本でも名古屋大学のように医療安全にラディカルに前進しているところもある。ラディカルに、ということは前提や慣習やその場の空気や立場/身分がモノを決めるのではなく、徹底的に「なぜ対策を取るのか」を考えぬくような態度にある。事実と意見、能力と立場、形式と実質、「なに」と「だれ」を厳しく区別し続ける態度にある。この厳しい態度がない限り、日本の医療安全は「ルートコーズ」「ヒヤリハット」「ゼロベース」といった舶来物のキーワードだけが飛び交う、誠に空疎なものであり続けるに違いない。そして同じ誤謬は同じ理由で繰り返される。
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