食べ物について本を出す予定ですが、そこでボツになった原稿をここに出します。
前著「リスクの食べ方」では、2011年4月に富山県、福井県、横浜市において発生した食中毒を論じました。焼肉店で提供されたユッケと焼き肉を原因とする腸管出血性大腸菌O111感染症(溶血性尿毒症症候群、HUS)が発生し、4人が死亡するに至ったのでした。これを受けて厚生労働省は2012年に牛レバーの生のままの提供、いわゆる「レバ刺し」を禁止しました。しかし、「肉」を食べたことを原因とする事例に対して「レバ刺し」を禁止するのは筋が通っていないではないか、とぼくは主張しました。確かに牛のレバーからは腸管出血性大腸菌が検出されますし、それは食中毒の原因にもなりますが、これまで「レバ刺し」を原因とした死亡例は報告されてこなかったのです。
さて、この牛の「レバ刺し」禁止を受けて日本では腸管出血性大腸菌による食中毒被害はなくなったのでしょうか。
答えは否、です。いや、むしろそのリスクは増している可能性すらあるのです。
国立感染症研究所感染症情報センター(現疫学センター)によると、2011年の腸管出血性大腸菌感染症報告数(有症状者)は2658例、2012年は2362例と若干減少傾向でした(http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000002xk88-att/2r9852000002xkif.pdf)。しかし、2013年になってこの数は2624名と再びぶり返しています(http://www.nih.go.jp/niid/ja/ehec-m/ehec-iasrtpc/4622-tpc411-j.html)。
2014年には4月に福島県で、「馬刺し」を原因とする腸管出血性大腸菌O157の食中毒が発生しました。4月24日時点で66人の患者が発生、そのうち33名が入院したそうです(福島県ホームページによる)。従来、馬肉においては腸管出血性大腸菌は検出されにくいと言われてきました。しかし、いろいろな動物の糞便中に大腸菌はいますから、「馬だったら大丈夫」とは言い切れないのですね。2013年3月にも長野県で腸管出血性大腸菌の検出された馬肉(生肉用)が回収されています。また、その後も埼玉県や佐賀県、東京都など複数の保育園・保育所で腸管出血性大腸菌O157の集団感染が報告されています(横山浩氏のブログより。http://pro.saraya.com/fukushi/column/dr-yokoyama/backnumber/103.html)。
2014年7月26日には静岡市の安部川花火大会会場の露店で販売されたキュウリの浅漬けを原因とする腸管出血性大腸菌O157集団食中毒が発生し、510人が食中毒を発症、うち5名が重症の溶血性尿毒症症候群を発症しました(静岡市による。http://www.city.shizuoka.jp/deps/hokenyobo/0157.html)。
腸管出血性大腸菌は肉、野菜、果物など多くの食べ物を媒介として感染します。火を通せば大腸菌は死にますからリスクはありません。しかし、多くの食べ物は生のままで供されますから、大腸菌感染症のリスクは残るのです。
では、馬刺しやキュウリの浅漬けも禁止すべきでしょうか。「レバ刺し」がそうであったように。
ぼくはそうは思いません。このように生の食べ物を片っ端から禁止してしまえば、確かに食中毒のリスクは最小限になります。しかし、生肉、生魚、生野菜、果物はとても美味しい。これらを食することを完全にあきらめるのは実にもったいない話だとぼくは思います。
前作「リスクの食べ方」で申し上げた通り、食べ物を食べるということは必ずなんらかのリスクを背負うことになります。それをゼロにすることは原理的に不可能です。後述するように、火を通せばリスクがゼロになるかというとそうではなく、アクリルアミドのような別の問題が生じてしまうのです(加熱した穀物などから発生する発がん物質)。
だから、「リスクがある」という理由である食事や食材を食卓から排除してしまうと、その先にあるのは「食べるものがない」になってしまうのです。
ぼくは、「レバ刺し」を厚労省が禁止しても必ず別の食べ物を媒介した腸管出血性大腸菌感染症が問題になると思っていました。案の定、腸管出血性大腸菌感染症発生数全体はレバ刺し禁止後も減りませんでした。
厚労省が自らの作る既成の根拠に一貫性を持たせたいのなら、馬刺しもキュウリの漬け物も禁止すべきです。しかし、そういうことは起きないように思います。ならば、なぜ「レバ刺し」だけが禁止の対象にされねばならなかったのでしょう。
実は、2014年に厚労省は豚の生食も禁止しました。牛の「レバ刺し」の代用品として豚のレバ刺しを提供する飲食店が出ていましたが、豚の生食にはE型肝炎やサルモネラ感染症などのリスクがあるからです。では、なぜ馬刺しは大丈夫なのでしょうか。厚労省の対応はあまりに場当たり的で、一貫性を欠いているのではないでしょうか。
食中毒だけではありません。酒、タバコ、餅(喉に詰まると死にます)、、、人の健康に悪影響を及ぼす飲食物、嗜好品は世の中にたくさんあります。鳥刺しはカンピロバクター腸炎の、生卵はサルモネラ感染症の、刺身はアニサキスやクドアといった寄生虫感染症のリスクになります。なぜこれらは禁止の対象にならず、「レバ刺し」だけは禁止の対象になるのでしょうか。
厚労省はこのような意見に対する筋の通った回答を持っていないと思います。なので、ぼくは「レバ刺し」禁止に反対したのです。
行政はリスクに対する一貫性を保つべきです。あるリスクに対して「禁止」という策をとるのであれば、他のリスクに対しても同様に禁止すべきなのです。それができないのであれば、他の食べ物も「禁止」すべきではないのです。
行政が食の安全に全て責任をとるのはあまりにパターナリスティックです。ある程度の安全性を担保する責任はありますが、責任の全てを行政が背負う必要はありません。
一方、住民も食の安全をすべて行政任せにすべきではありません。自分の安全は、ある程度は自分自身で守るべきなのです。例えば、暴飲暴食しないことは自己責任の範疇です。
「レバ刺し」を食べてもほとんどの方は病気になりません。とくに若くて健康な人ならなおさらです。そういう方なら、「美味」という価値と「健康・安全」という価値を天秤にかけて、たまにはレバ刺しを楽しむことくらい許容したってよいではないですか。別に毎日食べるものではないのですから。そして、高齢者や小さな子ども、妊婦や免疫抑制者といった食中毒のリスクが高い人たちは個別に対応すればよいのです。一律に何でも禁止するのは成熟した大人の対応ではありません。
健康は大事な価値の一つです。しかし、価値の全てではありません。美味しい食べ物を楽しむこと、家族や友人と楽しい時間を過ごすこと、旅行を楽しむこと、スポーツを楽しむこと、全ては大切な価値となります。それらの価値が健康と比べて絶対的に劣るということはありません。健康をないがしろにするのはよくないですが、健康「だけ」が他の全ての価値に優先される必然性はないのです。まあ、わりと我々医者は職業病というか、「健康中心主義」に陥りやすいのですが。
食のリスクについては、「健康」だけに注目するのではなく、他の価値も大事にしながら検討すべきです。行政にリスク対応を丸投げするのではなく、もちろん各自の自己責任に丸投げするのでもなく、みんなで責任をシェアしながら、緩やかに、穏やかにリスクと対峙していくこと、これが成熟した大人の社会なのではないでしょうか。
大切なのは、病原体だけではなく、食べている主体である「我々」のほうにも注目ことです。小さい子供や免疫抑制者、妊婦など食中毒のリスクが高い人と、そうでない人を同列に扱わないことです。厚生労働省は食べ物とそこについている病原体だけを評価していますが、同様に大切なのは「食べる人がどんな人か」です。牛の生レバーよりも馬刺の方が腸管出血性大腸菌感染症のリスクは低いかもしれない。けれども、それは壮健な成人と小さな子どもでは感染症のリスクが違う、というのと同じです。
「食べるもの」と「食べられるもの」。両方見なければならないのです。
病原体だけみて、ある種の食べ物は禁止し、他の食べ物は全肯定してしまうと、「馬刺はリスクが低いから」と免疫抑制のある者が馬刺を食べて、感染症の被害にあってしまう可能性があります。「厚労省の禁止」には「禁止されていないのだから食べてもよい」という間違った印象を与えてしまうリスクが伴います。その証拠に、既に述べたように保育園の小児の間で腸管出血性大腸菌感染症の集団発生が続発しています。ある食品を禁止してしまえば、「行政が管理してくれるんでしょ」と周りはお任せモードになり、食の安全を個々人で考えられなくなるからだとぼくは思います。
だから、「その食べ物はどういう食べ物か」と「食べる私はどういう私か」の両者をきちんと吟味し、一律でない態度で食べ物にあたることが大事なのです。
食べ物のリスクは頻度のリスクでもあります。馬刺だって、毎日たっぷり食べていれば高いリスクになります。「レバ刺し」も数年に1食くらいならたいしたリスクにはなりません。
リスクは量的に吟味する必要があります。山草のワラビにはプタキロサイドという発がん物質が微量含まれています。が、しかし少量摂取する分にはまったく問題ありません。子どもの時は「バケツ一杯食べなければ大丈夫」とよく言われたものです。その真偽はさておき、ワラビを「食べる」「食べない」で議論するのはナンセンスなのです。大事なのは、「どのくらい」食べるか、です。
発がん物質を「ある」「ない」のデジタルな発想で語ると、多くのものは「発がん性あり」ということになって禁止の対象になってしまいます。(後述するように)肉は発がん物質ですし、お酒も発がん物質ですし、タバコも発がん物質を含みますし、日光にも発がん性があります。しかし、肉を食べても酒を飲んでもすぐにがんになるわけではなく、タバコ一本吸ってがんになるわけでもなく、今日の日光浴でがんになるわけではありません。すべては「程度問題」なのです。
「レバ刺し」についても、「誰が」「どのくらい」食べるか、によってリスクの度合いが変わってきます。デジタルに「食べる」「食べない」で分けるのはよくないのです。
「あるなし」のイエス・ノー問題には選択肢は二つしかありません。「程度の問題」にすれば技術的には選択肢は無数にあります。白か黒かの問題ではなく、「どのくらいグレーか」の問題になるのです。前者は子どもでも分かる幼稚な命題で、後者は大人の成熟度を要する高度な問題です。「程度問題」には熟慮が必要なのです。
というわけで、壮健な成人が年に1回くらい焼き肉屋でレバ刺しを食べてもぼくはかまわんと思います。それは、もちろん(わずかな)リスクを伴います。しかし、もともと食のリスクはゼロにはできませんから、「リスクがゼロではない」は全てを否定する根拠としては弱いのです。
もちろん、「ぜったいに腸管出血性大腸菌のリスクはいや」という方は、レバ刺しは絶対に食べないほうがよいです。しかしそういう人は、同時に馬刺も、あるいは生野菜や生果物も回避すべきでしょう。ほうれん草やラズベリーからの感染事例も報告されており、「完全に」リスクヘッジするには野菜や果物も含め、生食を基本的に放棄するより他ありません。ぼく自身はそこまでガチガチのリスクヘッジはつまらないと感じますが、そういう方の価値観も全面的に尊重しますし、否定はしません。「自分の価値観と異なる価値観を十全に尊重する」のも成熟した大人のとるべき大切なマナーです。多様な価値観を尊重するのが成熟した人であり、国家であるべきなのです。だから、その多様な価値観を一意的に役所が規定することは一般的にはよくないんですね。
もちろん、極端なものや他人にまで害を及ぼすケース、例えば危険ハーブで乱暴運転なんていうのはとうてい許容できませんが。犯罪は他人に露骨な迷惑がかかりますから、よくありません。賄賂はあげる方ももらう方もトクするじゃないか、と思うかもしれませ名が、その分、関係ない第三者が不当に損をしているから、やっぱりよくありません。
生もの全てにリスクがある
ここで、生の食べ物は例外なくリスクがあるという話をします。前著「リスクの食べ方」と若干かぶりますが、おさらいとしてまとめておくのは意味があると思います。
生肉
生肉、あるいは肝臓(レバー)、胃、腸といった内蔵の生食にはいろいろなリスクがついてまわります。
牛肉、レバーなどでは前述の腸管出血性大腸菌感染症のリスクがありますし、トキソプラズマや無鉤条虫といった寄生虫感染症も問題です。また、無加工の乳製品(牛乳、バター、チーズなど)ではリステリアという細菌感染症が問題で、特に妊婦やその赤ちゃんの重症感染症の原因として知られています。牛の眼、中枢神経、回腸遠位部など特定危険部位(SRM)は中枢神経感染症であるクロイツフェルツヤコブ病のリスクになります。
豚肉ではサルモネラ、カンピロバクターといった細菌感染症、E型肝炎のようなウイルス感染、有鉤条虫という寄生虫感染が特に問題です。スペインなどでは豚肉の生ハムが美味ですが、これを原因とするリステリア感染症も報告されています。
鶏肉ではカンピロバクター、鶏卵ではサルモネラといった細菌感染症が問題です。
この他、羊、ヤギ(沖縄とかで食べますね)、猪や鹿なども同様に様々な感染症のリスクがあります。鹿などのいわゆるゲームミートではE型肝炎や旋尾虫といわれる寄生虫感染症のリスクがあります。日本ではツキノワグマやエゾヒグマの生食で旋尾虫感染が発生した事例があります。肉や動物の内蔵を生で食するのは、健康リスクと深い関係にあるのです。こういうリスクを回避したい方は肉は火を通して食べた方がよいですし、持病があったり妊娠している、小さな子どもや高齢者は生食は回避しておいた方が無難です。
なお、畜産業では医薬品として、また飼料添加物として大量の抗生物質が使用されています。こうした残留抗生物質の健康への影響や、薬剤耐性菌の増加も懸念されています。こちらは火を通しても回避できないリスクですね。ちなみに、ヨーロッパでは成長促進目的の抗生物質の使用を禁止しています。
生魚
サバ、イカ、鮭、アジ、タラ、サンマなどではアニサキス感染症のリスクがあります。鮭やマスでは日本海裂頭条虫(いわゆるサナダムシ)、ホタルイカでは旋尾線虫、ヒラメではクドアという比較的新しい寄生虫、アンキモではシュードテラノーバというアニサキスよりもやや大きな寄生虫、イワシ、サバ、カツオなどでは大複殖門条虫、アユやシラウオでは横川吸虫、サワガニ、モズクガニでは肺吸虫、ドジョウ、ヤマメ、ナマズ、ライギョでは顎口虫という寄生虫感染症が問題です。魚類の寄生虫は多いですね。
他にもA型肝炎、ビブリオという細菌感染症、エアロモナス感染症などが海産物摂取に関連した感染症として有名です。
感染症以外でも、フグを食べた後のフグ毒は有名ですし、古いサバの刺身を食べた後のじんましん、スコンブロイドと呼ばれる病気も問題です。
生野菜、果物
すでに述べた腸管出血性大腸菌感染症のリスクは生野菜、果物にもあります。キュウリだけでなく、カイワレ、アルファルファ、ほうれん草などいろいろな野菜でも可能性はあります。1996年の堺市における腸管出血性大腸菌O157による集団食中毒はカイワレが媒介したものでした。
その他、クランベリーなど果物もまた腸管出血性大腸菌感染症のリスクになります。また、もやしなどはリステリア感染症のリスクにもなっています。
また、回虫症のような寄生虫感染症もやはりリスクになります。無農薬野菜は一見健康なイメージがありますが、それは一面の事実であって、反対側のリスク(=寄生虫感染症のリスク)は回避できないのです。
さて、ぼくはどうしているかというと、生野菜は定期的に楽しんでいます。水洗いをしてからサラダなどを作るのが普通です。しばしば生魚も食べます。目に見える寄生虫がないかどうかは気にしますが、白状すると昔一回アニサキスに感染して痛い目にあったことがあります(本当に、痛いです)。肉には火を通すのが普通ですが、ユッケやレバ刺し、鳥刺し、馬刺しは大好きです。大好きといっても毎日食べることはしませんし、すれば気持ち悪くなることでしょう。年に一回、食べるか食べないか。実はこれも、何年か前に鶏のレバ刺しでカンピロバクター腸炎になったことがあります。でも、たまのことなので、こうしたリスクは覚悟の上で、今でも鳥刺しはときどき楽しんでいます。
あと、ぼくは感染症専門家として海外出張、とくに途上国への出張が多いです。食あたりしないように水や食べ物の衛生にはかなり気を遣っていますが、そうはいっても全てのリスクをゼロにするのは現実的ではありません。医学生のときはフィリピンでビブリオという海水に関連した細菌による腸炎に、医者になってからはカンボジアでランブル鞭毛虫という寄生虫の感染に苦しんだことがあります。
こうした感染症のリスクをヘッジする最良の方法は(水や食品の衛生不安のある)途上国に行かないことです。あるいは日本から大量のミネラルウォーターと、熱湯だけで調理できるインスタント食品を持込んでもよいかもしれません(熱湯はたいていの感染症リスクをなくしてくれます)。
しかし、せっかく海外に来たのに現地のものを一切摂らないのはいかにももったいない話です。まあ、10年に1回くらいはお腹を壊すのもやむを得なし、とぼくは割り切って考えています。
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