日経メディカルに載せた書評。こちらにも転載。
ねころんで読める抗菌薬 矢野邦夫著 MCメディカ出版
簡単に読める書物はしばしば軽蔑の対象となる。読みやすい本は、書くのも簡単だと誤解されやすいからだ。典型例は村上春樹の小説。文壇や評論家はあのシンプルな文章を口を極めて攻撃する。まあ、多くは嫉妬心から。村上春樹のエッセイを読めば分かるけれど、彼は長編小説を一冊書き上げるために懸命の努力をしている。体調を整え、睡眠を十分に取る。たくさん走って身体の強靭さを保つ。「文壇の大家」にありがちな夜の豪遊、不摂生などは決してしない。そうやってベスト・コンディションを保ちながら、早朝からものすごい集中力で執筆を行う。最後まで読み通すのは雑作もない「分かりやすい」文章だが、文章の質においては微塵も妥協をしない。こうやって多くの人々が読みたくなる質の高い小説が生まれるのだ。
ぼくも村上春樹とまでは言わないが、「分かりやすいが質で妥協しない」文章を書きたい、と常に思っていた。わりと書けているとも思っていた。分かりづらいわりには無内容な文章が多い医学の世界で、読みやすいけれども役に立つものを書いてきた、という密かな自負があった。
「あった」と過去形にしたのは、それが間違いであったからだ。今回紹介する「ねころんで読める抗菌薬」こそが「分かりやすいが質で妥協しない」医学書の最たるものだ。
本書を手にとったのはほんの些細な偶然からであり、正直言うとそれほど積極的に読みたい本ではなかった。読んでおいて本当に良かった。本書を読んでいなければ、ずっと自分は分かりやすい本を書いているという勘違い野郎のままだったであろう。
「ワサビは寿司ネタの下に入れると美味しいが、目の中にいれると痛い」「少人数のツアーに大型バスをチャーターすることは無駄である」。本書は一見意味不明なタイトルから章立てされている。そして、本文を読んで「なるほど、そういう意味か」と納得するのである。本で人に知識を提供するのは簡単だ。理解させるのも、それほど難しいことではない。しかし、読者を「なるほど、納得」と導くのは簡単なことではない。それを本書では容易にやってのけてみせる。
いや、これこそ「容易」なことではないのだろう。本書のキャッチフレーズを編み出すのに、筆者は必死の努力で、長い時間をかけたに違いない。現場で行動変容を促すような、一撃必殺のフレーズを試行錯誤の末に編み出してきたのに違いない。本書は薄い本ではあるが、行動変容に結びつかなかった多くの言葉を捨象させ、本当に医療現場に行動変容を促すような必殺の言葉の抽出物なのである。
本書はどんなに忙しくても読破できる。どんなに疲れていても読み通すことができる。ぜひ一度手にとっていただきたい。そして、「なるほど、納得」のアハ体験を脳内で感じ取っていただきたい。明日の診療が変わるために。
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