ツイッターでもちょっと書いたけど、理路を示すのは困難なので、こちらにまとめる。あとで、同様の意見は英語にして発表したいが、ぼくの不自由な英語力ではすぐには無理。
Plagiarismについて初めてきちんと学んだのは、ロンドン大学の院生(通信制)のときだった。このコースはよくできていて、科学とは何か、という「そもそも論」から、具体的な研究方法、資金、データマネジメント、質的料的研究、社会科学における研究など、科学と研究について広範に、網羅的に学ぶことができたのだった。
さて、Plagiarismについては、(院生のとき教科書として用いた)Boothらによる「The Craft of Research」にその定義がなされている。僕のもっているのは1995年の古いものだが、その要諦は今もいきている。
Plagiarism defined.
"You plagiarize when, intentionally or not, you use someone else's words or ideas but fail to credit that person. You plagiarize even when you do credit the author but use his exact words without so indicating with quotation marks or block indentation. You also plagiarize when you use words so close to those in your source, that if you placed your work next to the source, you would see that you could not have written what you did without the source at your elbow. When accused of plagiarism, some writers claim I must have somehow memorized the passage. When I wrote it, I certainly thought it was my own. That excuse convinces very few". (167p)
とまあ、この文章もこうやってきちんとクオートする必要があるのだ。本書では、この後詳細にplagiarismの条件を概説している。
外国の研究に関するテキストでは必ずplagiarismについてきちんと説明している。Boothらはこれに5ページ割いている。日本の場合は、わずかしか言及がない。例えば、「臨床研究マスターブック」(福井次矢 編集)では、
「剽窃とは、「他人のテクニックやデータ、言葉やアイデアを正当な許可を得ずに系統的に使うこと」であるが、英語圏では「英語表現の無断借用」も「剽窃」とみなされる。英語論文を執筆する際、「悪意はないがうっかり」ということがないように注意したい」287p
と、これだけである。
そして、この文章から示唆されるのは、「英語表現の無断借用」が「剽窃」になるのは英語圏の考え方である。我々はその倫理的な問題については言及してなけれど、(善し悪しはともかく)見つかるとまずいよ、という言い方である。倫理的な問題の有無ではなく、「英語圏からの糾弾」が問題にされているのだ。
実は、英語圏におけるPlagiarismのルールはとても厳しい。例えば、パラフレーズ、、、目の前にお手本の論文があり、この言い方を「その目で見ながら」書き写し、微妙に表現を換え、しかし元の文章が透けて見える場合もplagiarismとなることがある。こうBoothらは説明する。
しかし、英語をネイティブランゲッジにしないぼくらにとって、これはあまりに苛烈なルールとは言えないだろうか。お手本になる英語論文をまったく参照せず、目の前に白紙を置いたままですらすらと英語論文を執筆できる研究者はむしろ少数派に属するのではないだろうか。
科学とは先人の肩の上に乗って、積み上げながら漸進していく営為である。ロラン・バルトのエクリチュールを引用するまでもなく、完全にオリジナルな文章やアイデアなど存在せず、あるのはただ先人のアイデアを飲み込み、咀嚼し、それを自分の言葉として発することである。先人の業績、文章、口調を完全に無視して完全にオリジナルな論文を書くことなどできやしない。できたとしたら、それは「誰にも読めない」ような論文だ。
もちろん、先人の業績は引用しなければならない。しかし、論文の文体は定型的であり、完全にオリジナルを引用するのは困難なこともある。例えば、臨床研究では「おなじみの」統計解析だ。
"Student's t-test or the Mann–Whitney U test (for nonnormally distributed data) was used for the analysis of dimensional outcomes, and the chi-square test or Fisher's exact test (when data were sparse) was used for the analysis of dichotomous outcomes; all tests were two-tailed. For analyses of serum anti-EV71 antibodies, titers of less than 1:8, which was the threshold of detection, were assigned an arbitrary value of 1:4. In the statistical analyses of antibody titers, the titers were logarithmically converted to allow the assessment of geometric mean titers. SAS software, version 9.1 (SAS Institute), was used for statistical analysis"
"A chi-square test or Fisher's exact test was used to compare categorical data, and Student's t-test was used to compare log-transformed neutralizing antibody values. Vaccine efficacy and case-free survival were estimated with the use of a Cox proportional-hazards model and the Kaplan–Meier method, respectively. Hypothesis testing was two-sided with an alpha value of 0.05. Analyses were conducted by statisticians at the Fourth Military Medical University with the use of SAS software, version 9.2 (SAS Institute)"
前者はLi R et al. An Inactivated Enterovirus 71 Vaccine in Healthy Children. New England Journal of Medicine. 2014;370(9):829–37からの引用である。後者はZhu F et al. Efficacy, Safety, and Immunogenicity of an Enterovirus 71 Vaccine in China. New England Journal of Medicine. 2014;370(9):818–28からの引用である。どちらも「その文章を引用した」引用文献は、ない。両者は酷似しているだろうか。していると、僕は思う。これはPlagiarismを成立させるか。ぼくは、そんなことはばかばかしいと思う。NEJMのレフリーやエディターもそう考えているに違いない。
英語圏の教科書で、Plagiarismについて長々と説明しているのは、彼等がPlagiarismにしっかりしているからではない。そんだけ説明が必要なほどPlagiarismが逆説的に普遍的であることを示唆している。アメリカでプロフェッショナリズム、プロフェッショナリズム、と盛んに言われるのが、いかにアメリカの医療現場がプロフェッショナリズムを欠いているかの証左であるように。
教科書がなんと学生に説明しようと、ストリクトな意味でのplagiarismはNEJMのような一流誌でも普遍的に行われている。そこまで目くじらたてることないじゃん、と思われているからだろう。統計解析の部分は「判で押したように」定型的な文章が並ぶものだ。「判で押した」とはコピペとほぼ同義である。それがほんとうにコピペであるのか、別の論文の丸写しなのか、シソーラスなどを使って微妙に表現を換えているのか、はたまた頭にメモライズされたものがアウトプットされているのかは、ぼくは知らない。でも、結果としてはどれも同じような文章になる。そして、それがどのようなプロセスを経て書かれたものであれ、普通の臨床家と臨床研究者は、そんなことは気にしない。これは、倫理の問題ではなく、コンセンサスの問題なのである。
PlagiarismはトリッキーなことがあるとBoothらも言っている。あまりに普遍的になった知識は引用することすらばかばかしいこともある、と説明している。例えば、ワトソンとクリックがDNAのらせん構造を発見した、なんて知見はもとの文献を引用することがナイーブに思われるくらい人口に膾炙している(と Boothらは書くのだが、そのワトソン・クリックの「らせん」がロザリンド・フランクリンのデータを盗用した疑惑を知ってて言ってるなら、痛烈な皮肉で ある)。
普遍化しすぎた知識は誰のプロパティーというより、コモンなプロパティーである、という考え方もできるのである。また、Plagiarismの ボーダーラインは専門領域によって異なる、とBooth らは指摘する。例えば、パラフレーズも一種のplagiarismを生じることがあるが、法律学の領域では、法律や判決文のパラフレーズはしばしば行われ ているという。しかし、英語学や歴史学においてはパラフレーズはplagiarismと見なされることが多く、直接全引用するのが普通なのだそうだ。
どのへんまでをもってPlagiarismとするか、は倫理的な善悪の問題であるが、それは「程度の問題」でもある。少なくとも、臨床研究においては統計解析のところはコピペ(に見えるもの)はスルーしましょうよ、というコンセンサスができている。
さて、ぼくも英語で論文を書くが、plagiarismには気をつけている。相手の土俵で相撲をとるときは、そのルールに従うのが「筋」だからだ。しかし、このルールは英語圏のエゴ、英語ハラスメントだとも思っている。今はplagiarismを構造的に見つけ出すソフトまで出てきている。しかし、過度に重箱の隅をつつき、文体の類似をあら探しするのは、本来の「倫理」の問題から手続きの問題への変換を意味している。手段が目的化しているのだ。
ぼくは、少なくとも自然科学の領域で普遍化した文体やプロトコル(さきの統計解析みたいなもの)は、plagiarismの要件から外し、とくに英語ネイティブでない研究者が定型的な文体とプロトコルをコピペするのをcondoneすべきだと主張している。まだ、この主張は十全には認められていない、が同意を示す非英語圏研究者はわりといる。
英語力は学術領域におけるハンディキャップである。ハンディキャップはできるだけ取り除いてあげた方が学問全体の進歩に資する。途上国の研究者については、すでに学会参加費を免除とか、学術誌購読の無料化といった「ハンディキャップの克服」努力がなされている。同様のことは、論文執筆についても認められてよいとぼくは思う。そして、そのような寛容は科学をより進歩させ、かつ倫理的にもまったく問題にはならないはずだ。
ぼくが主張しているのは「剽窃なんてかまわない」という主張ではない。学生にも「自分の言葉」でレポートを書くよう強く要請し、「他人の言葉」で書かれたレポートは全部やり直させている。それが「正式なルールに則った」引用のオンパレードだったとしても。言いたいのは、剽窃と剽窃ではないもののボーダーラインはなかなか線引きしづらく、その線引きをハンディキャップのあるものに対して、優しいまなざしをたたえて行いましょうよ、という英語圏に対する主張なのである。
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