さ、この連載もあと2回です。長らくお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
本書は、「アンチ極論」のパロディです。上質なパロディは元ネタについて言及しないものですが、ま、ぼくはそんなに品は良くないので、出しちまいますね。
本稿の元ネタ(パロディの対象)は、近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」(アスコム)と、内海聡氏の「医学不要論」(三五館)です。ま、想像に難くないですよね。
両者の特徴は「極論」です。例えば、
今の日本で大人のかかる病気はたいてい「老化現象」で、医者にかかったり、薬を飲んだりして治せるものではないからです。(「47の心得」27ページ、以下「47」)
現代医学のほぼすべてに科学的根拠はなく、それが対症療法(アロパシー医学)を生み出すもととなる。あなたが知っている検査の安全性は嘘であり、あなたが信じる教科書は嘘である。その教科書や論文たちは常に捏造と情報操作に満ちている。(「医学不要論」33ページ、以下「不要」)
近藤氏の定義によると、「老化現象」は「細胞の遺伝子に傷がつき、それが蓄積して、体にさまざまな障害を引き起こす肉体の変化のこと」とされます(「47」28ページ)。この定義だと、心筋梗塞とかがんとかもみんな「老化現象」となります。
しかし、細胞の遺伝子に傷がつくのは老化に伴う結果ですが、老化「そのもの」と言い切ってしまうのは「言い過ぎ」ですし「極論」です。近藤氏はアンチエイジングを批判し、「結局やっていることは役に立たないか、見せ掛けの化粧や整形のこと」(「47」28ページ)と断じていますが、それらと、心筋梗塞やがんの治療とは関係ありません。意図してか無意識なのかは知りませんが、議論のすり替えが行われています。
現代医学の多くには科学的根拠はありませんが、「ほとんどすべて」は極論です。内海氏の特徴は、医学という学問に物理学や数学のような「厳密性」がないことを根拠に、医学には「根拠がない」と断じているのですが、それは社会学系の全ての学問にも言えること。そもそも学問体系が異なる領域に、別の体系を当てはめること自体無茶ですし、その数学ですら、ゲーデルの不完全性定理など、完全には証明できないことが証明されている(こともある)。これも「極論」ですね。
近藤氏は高血圧もコレステロールも高いほうが「長寿のもと」と主張します(「47」37ページ)。確かに、[心得14]でも指摘したように、なんでもかんでも高血圧を薬で治療するのは問題ですが、これも「極論」。やはり、コレステロールや血圧を下げることで利益を得る人もたくさんいるのです。
内海氏は、自身が体験した白血病治療の大変さをもって、「たとえ血液のガンでも医学不要論では抗ガン剤治療はすすめない」と主張します(「不要論」183ページ)。科学的厳密性を希求したわりには、経験論ですか。ま、イジワルなツッコミはともかく、近藤誠氏ですら、白血病については化学療法を推奨しています。なかなかすごいですね。
ですが、このような「極論」はウケるんです。とにかく人気がある。医療の世界にかぎらず、「結局あいつが悪いんだ」みたいな言い方はスカッとしていて気持ちがいいですからね。某関西の市長さんみたいに。
近藤氏も内海氏も、医療界(内海氏の言う「イガクムラ」)を悪の巣窟とし、自らをその巨大な的と戦う孤高の戦士として設定します。そのヒロイズムに、市民は感動するのです。
本屋さんにいくと、医療・医学・健康本はこのような「極論」に満ちています。こうやれば健康になれる。こうすればガンにならない。こうやったら老化は防げる。こんなのばっかし。
こういう断言口調の医療・医学・健康本はすべてインチキです。断言しときます。極論ですが(笑)。
本連載でもお示ししたように、医療・医学はそんなにズバッ!バシッ!ゴゴゴゴゴ、っと極論、断言かませるものではありません。
どちらかというと、医療・医学はより微妙で微細で、わかりにくいものです。高血圧の治療薬も、吉と出る場合も凶と出る場合もあります。ほとんどの医療が、吉と出る場合も凶と出る場合もあるのです。Aという主張がでても、「とはいえ!」と必ず反論がかえってくるのです。これが医療・医学の本質といえましょう。というか、そもそも近藤氏も内海氏も、既存の医学上のデータ解釈が案外間違っていますよ、という着眼点から既存の医療に喧嘩を売っているのです。話はそう簡単ではないのは、両者が一番ご存知だとぼくは想像しています。
そんなわけで、本連載で、ぼくはこのような医療・医学の「微妙な世界」をできるだけわかりやすくお伝えしようと思いました。しかし、口ごもるような口調では、伝わりにくい。わかりにくい。読みにくい。納得しにくい。説得力がない。人気が出ない。
そのため、わざと「極論」口調で議論を展開させることにしました。ズバッ!バシッ!ゴゴゴゴゴ、です。で、「とはいえ!」と話をひっくり返し、「ことはそう単純なものではないんですよ」とカウンターをかましておきました。これを繰り返し繰り返しやることで、白黒はっきりしにくい医療・医学の世界観を、身体的に体感できるといいな、と思ったからです。ちょうどスパークリングを繰り返すボクサーのように。
とはいえ!
近藤氏や内海氏のような「極論」ですが、ぼくはそれに対応した(しなかった)既存の医者にも問題があると考えています。
多くの医者は、彼らを「トンデモ」とレッテルを貼り、全人格を全否定し、議論の余地なし、と黙殺しました。近藤氏や内海氏は孤高の騎士役を演じましたが、彼らを単なるドンキホーテ扱いにしたのです。
医者は、すでに指摘したように「問いを問う」のが苦手です。これはつまり、「コミュニケーションをとる」「対話をする」ことが苦手なことと同義です。相手の主張を丁寧に聞き、「そこはどういう意味ですか」と質問を重ね、さらによいものを目指していくのが弁証法です。が、多くの医者はこのような対話のプロセスを重ねる訓練を受けていません。
多くの医者の発想は、「あいつらは俺達のやっていることを批判している。だからひどい奴らだ」という全否定なのです。
でも、これってやはり一種の「極論」ですよね。既存の医者団体と、近藤氏と内海氏とは、主張は真逆ですが発想のプロセスはある意味「そっくり」です。
近藤氏も内海氏もよいことを言っているのです。少なくとも、現在治療を受けている高血圧やコレステロールや尿酸のなかには、薬で治さなくてもよいものもたくさんあるのは事実です。がんの検診にも役に立たなそうな検診もあり、それが無批判に使用されています。薬の選択は製薬メーカーに踊らされ、無批判に「新しい薬」が優先されています。そのような環境が、「ディオバン事件」のような捏造事件の温床ともなりました。
完全に100%正しい人間なんて存在しません。100%完全に間違っている人間もやはり存在しません。ぼくらは、どういう意見の相手でも各論的に対話し、間違っていると思える「論旨」や「データ」に反論します。でも、人間そのものを全否定し、コミュニケーション拒否、ではだめなのです。
しばしば医者は、近藤氏や内海氏の意見を「言うまでもなく」間違っていると断じます。しかし、「言うまでもなく」ではだめなのです。言わなければいけないのです。トンデモ、デマと呼ばれているものに対峙するには、丁寧に、各論的に反論するのが最良なのです。もちろん、黙殺してもダメなのです。つまりは、次のJ・S・ミルの言葉に要約されるのです。
* 封じようとしている意見がじつは正しい場合と、やはり間違っている場合を、それぞれ別個に考察する必要がある。それぞれの場合で、議論の領域が異なるからである。われわれはそもそも、自分たちが封じようとしている意見が間違ったものであるとの確信はけっしてもちえない。また、かりに間違っているとの確信をもったとしても、その意見の発表を封ずるのはやはり有害である。
正当と見なされるような結論に結びつかない探求をいっさい禁止すると、もっとも傷つくのは異端者の精神ではない。最大の被害者は、異端ではないひとびとである。ひとびとは異端者とされることを恐れて、精神ののびやかな発展をすべて抑制し、理性の働きをすくませる。*
ミル「自由論」(光文社文庫、齋藤悦則訳)
というわけで、次回はいよいよ最終回です。
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