医者というのは、基本マジメな人が多いです。誠実でもあります。少なくとも、患者を実際に診ている臨床医は真剣に患者のために尽くしているものです。
しかしながら、「善意」は結果を保証しないのも、また事実です。いや、善意でやっている分、その間違いには気づきにくいし、指摘されても直りません。良かれと思う思いが強くなればなるほど、その思いは患者の思いとは噛み合わなくなるのです。患者の言葉に耳を傾けず、ひたすら「自らの正義」を強要しようとするからです。マジメな医者ほど、とくに。
近藤誠氏や内海聡氏は現代医療のあり方に批判を投じました。しかし、ほとんどの医者は彼らの言葉を「自分たちの存在否定」という捉え方をしました。よくよく話を聞くと、かれらの意見にも「なるほどなあ」と思う点もあるのですが。
医者は、もともと批判に弱いのです。対話を学んでいませんから。批判に慣れていませんから。で、各論的な批判も「俺達のやっていることが否定されている」と人格批判にとらえてしまいます。で、逆ギレして「あんなやつとは話ができん」とこちらも人格否定です。
海外では、学会でも学術雑誌でも「ここのところはおかしいんじゃない?」と議論を重ねていく、いわば弁証法の伝統があります。しかし、日本の医療界では「そうなっている」というしくみと慣習があるだけで、議論を重ねて積み上げていく、いわば弁証法のやり方はありません。議論は「議論しましたよ」という言質を与えるためだけに行なうことがほとんどです。学会は自分の意見を主張するだけ。質疑応答は、「後学のために教えていただきたいのですが、、、」と質問口調ですが、実は自説を述べるチャンス。シンポジウムは、ミニレクチャーシリーズ。
会議の前に結論は決まっており、厚労省の官僚が用意した資料を否定するような輩は最初から会議には呼ばれません。すべては形式なのです。だから、ディオバンのような捏造事件でも「エビデンスがでました」という一言でころっと騙されてしまうのです。
「問いを問う」ことが苦手な日本の医者は、患者の価値観を問うことも端折ってしまいます。
患者のゴールは多様です。どのような医療を受け、どのように生きていきたいかも、多様です。その患者の多様な価値観を聞き取り、その価値観に一番近いテイラーメイドの医療を提供するのが医者の仕事です。しかし、患者との対話がないままだと、オートクチュールのユ◯クロっぽいプロダクトしか提供することはできません。そこで検査の異常値にはすべて薬が提供されます。高血圧にはARB、糖尿病にはDPP4阻害薬、尿酸値にはザイロリックが出されます。なぜ、出すのか。医者は問いを問いません。患者も医者に質問しません。「そうなっているから、そうなっている」のトートロジーなのです。
多様性を欠いた医療は、貧弱な医療です。それは、敢えて乱暴に言うならば、「途上国的な医療」です。
集団予防接種、集団に寄生虫の駆虫薬、集団にビタミン剤、集団に肝油。かつて戦後の日本がそうだったように、医療の問題が露骨に人の健康を残っていた時には、医療は画一的で、集団的でもよかったのです。
しかし、平均寿命が伸び、ケガとか感染症とかいう「露骨な医療問題」が払拭されはじめたとき、医療に残された問題は「微妙な問題」となりました。ガンには抗癌剤は効くけれども、百発百中ではありません。それは微妙に効きます(やらないより、やったほうがまし程度)。心臓病の治療(アスピリン、βブロッカーなどなど)も、微妙に効きます。多くの予防接種も、コレステロールの薬も、糖尿病の薬も(もし効くとしても)「微妙」なのです。スカイダイビングをするときのパラシュートのように、露骨に人の生命を守ってくれないのです。
そのような微妙な選択の場合、メリットとデメリットの差も「微妙」になっていきます。パラシュートを着けて空から飛び降りるのと、着けないのとは、その差は「露骨」です。しかし、高血圧や糖尿病やコレステロールや尿酸やらの薬を飲まなくても、次の日即死するわけではありません。こうした薬には副作用のリスクがついて回ることを考えると、「絶対飲め」と強要するほどのインパクトはありません。薬の副作用もありますし。お金もかかりますし。
だから、「対話」が必要なのです。微妙な問題には、「あえて治療しない」という選択肢も、やはり選択肢のひとつなのです。それを「医療の敗北」と捉えず、「医療の豊かな選択肢」として、真正面から向き合う覚悟が医者には必要です。医療は人生において大事な要素のひとつですが、要素の全てではないのですから。健康は大事な価値のひとつですが、価値のすべてではないのですから。
三浦雄一郎氏は、人生を登山にかけました。登山は露骨な健康リスクであり、多くの人が山で命を落としています。医者が健康を価値のすべて、としてしまうと、「山にはもう登るな」となってしまいます。でも、三浦氏から登山を奪い取ったら、それはもう三浦氏のリアルな人生ではないのではないでしょうか。
医者はジャッジメンタルになってはいけない。ぼくは研修医のとき、そう教わりました。judgementalとは、患者は「こういう人だ」と決めつけてかかる態度です。あの人は薬飲まない人だから、とかタバコを止めない人だから、と決めつけ、(こっそり)蔑む態度です。
Judgementalという言葉を分割すると、judge+mentalとなります。Judgeは裁判官の意味でもあります。裁判官、司法のメンタリティーです。
医者は、裁く立場にはありません。患者はああだ、こうだとジャッジするのはだれか別の人がやることです。ぼくらは、相手がどういう患者であれ、同じような態度と心で振るまい、そして多様な判断をします。もちろん、感情的に「あれー」と思うことはあるでしょう。しかし、それを赦すところから始める。それが、我々のスタート地点なのです。
赦すという言葉は万人へのものじゃ。
シェイクスピア「シンベリン」第五幕第五場
医者に必要なのは、赦しの感情です。健康に生きない、という選択肢も選択肢のひとつとして認める勇気と寛容です。正義をゴリ押ししない寛容です。他者の言葉に耳を傾け、相手を全否定しない寛容です。極論に固執しない寛容です。
医者は、もう少し肩の力を抜く必要があります。たかが、医療です。たかが、医学です。それは重要なアイテムですが、経済とか、政治とか、倫理とか、教育とか、平和とか、家族とか、友情とか、愛とか、、、そういうたくさんたくさんある大事な価値のなかの一要素に過ぎません。我々は、所詮医者に過ぎません。患者の苦悩をすべて取り払うことなどできないのです。
ぼくの患者さんは多くの苦悩を抱えています。病気以外の苦悩も。お金がない、仕事がない、夫が言うことを聞いてくれない、姑がいじめる、職場でハラスメントがある、孤独だ、つらい、生きる理由を見つけられない、、、こういう患者さんに何の助けにもなりません。
ぼくにできることは、ただ病気を見つけ、治療するだけ(できたとしたら)。それは、たくさんたくさんある患者の苦悩のほんのひとにぎりにすぎないのです。全人的医療なんて軽々しく口にすべきではありません。患者に自分の財布から金銭を与え、仕事を失った患者を雇用し、友人になって孤独から回避し、一緒に合宿やって家族との軋轢や、友人のイジメや、そうした全ての苦痛と取っ組み合う覚悟ができないぼくらが、軽々しく「病気を見ずに人を見る」なんて口にすべきではないのです。
「医学不要論」は極論です。もちろん、医学は必要です。でも、「医学は、わりと不要論」はありだと思います。ぼくら医者は、マジメすぎて、医療のこと、医学のことを考えすぎです。もうちょっとのんびりと、やんわりと、医学・医療以外のことも考えるべきなのです。例えば、歌のこと。例えば、花のことなども。
医者がマジメすぎて、人間味を失い、朝から晩まで医療のことばかり考えるようになった遠因は患者にもあります。必要もないのに「念のため」受診し、「念のため」検査を要求し、「念のため」薬を要求する。次の日になったら「念のため」別の病院を受診する。ちょっと気に入らないことがあるとすぐにクレームをつける。医療ミスがあったんじゃないかと勘ぐる。重箱の隅をつつく。陰謀論に走る。
このような医療の乱用が、医者から時間を奪い、余裕を奪い、そしてあなたの話を聞かなくさせてしまいました。医者が話を聞いてくれないから、信用できなくなる。信用できないから、「医学不要論」のような極論が蔓延します。
医者が振り返りの時間を取り戻し、歌や花のことを考える余裕を取り戻し、そして医学・医療のこと以外にも意識を振り向けられるようになったとき、そのとき、本当に豊かな、「わりと不要な医学」の本当の恩恵をみなさんは受けることができるようになります。多様性を認め、患者の価値観に耳を傾ける、本当に豊かな医療。あなただけのための、医療。
だから、患者「中心」の医療ではダメなんです。アメリカでは、「患者中心の医療」のスローガンが過ぎて、患者VS医療の図式ができ、ヘゲモニー争いが起き、そして権利を行使するための訴訟が増えました。
「中心」は誰かの、誰かに対する優位を想起させます。それが明文化されていなくても、「実はオーセンティックな「患者中心の医療」はそういう意味じゃなくて」と説明しても無駄です。ほのめかし、がなされていること「そのもの」が重要なのです。
患者は医療の世界の一参加者です。一参加者にすぎない、と規定すれば楽になります。自己決定のプレッシャーに苦しむ必要も、自分の権利が十全に行使されているか、神経質にチェックする必要もなくなります。
「中心」にどっかと座るのではなく、他の人達と同じ高さにいて、全体にもまなざしを向けるのです。後ろにも目を向けなければいけません。あなたがベラベラしゃべっている後ろに、イライラ待っている患者はいないでしょうか。
だれも中心にいない。みんなが少しずつ、全体のことを考える。そのとき、患者にとっても最良の医療がやってくるチャンスが到来します。「あなただけのための」豊かな医療を甘受できます。自分のことだけ考えていると、自分にとってベストの医療は手にはいりません。
日本の医療は現在も発展途上にあります。しかし、昭和40年代の日本の医療よりも、50年代、50年代よりも60年代。60年代よりも平成のほうが、日本の医療はベターです。技術的にも、態度的にも、真心的にも。日本の医療はAt its bestな状態なのです。
そして、日本の医者も、史上最高の医者たちです。歴史上、日本の医者がこれほど優秀だったことはかつてありません。10年前や20年前の医者よりも、今の医者のほうが格段に優秀です。技術的にも、態度的にも、そして真心的にも。
しかし、まだまだ良くなる余地はあります。もっともっと日本の医療はよくなるべきです。そのために、医者がやるべきことはたくさんあります(まずは、肩の力を抜きましょ)。患者にできることもたくさんあります(まずは、眉間のシワをやめましょ)。
そして、日本の医療がもっともっとよくなったとき、ぼくらは「本当の意味を込めて」言うのです。「「医学不要論」? そういえば、そういうのあったよね。ま、あのころは皆、余裕なかったしね。内海センセも最近はだいぶ丸くなったみたいよ」
<了>
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