医者は患者にウソをついてはいけない、と言われます。
でも、ぼくはつきます。
例えば、ぼくはエイズの患者さんを診ます。エイズは免疫力が落ちる感染症で、昔は不治の病、「死に至る病」でした。
でも、今は治療がかなり進歩し、薬を毎日飲み続けることによって病気が進行しない、免疫力が回復することができるようになりました。おそらくは、患者さんは外来通院をしながら一生を全うできるんじゃないかと期待しています(それが証明されるのは何十年後の話ですが)。
ところが、そのように治療法が劇的に進歩しても、どんどん免疫力が落ち続け、HIV(エイズの原因ウイルス)が体で増えてしまう患者さんがときどきいます。
なぜか。
こういう患者さんは、ごく一部の例外を除くと、2つに分類できます。
1. 薬が(ウイルス耐性化などの理由で)効いていない
2.患者が薬を飲んでいない
で、ぼくらはあれやこれやのノウハウを持っていますから、「だいたい」1か2のどちらなのかな、ということを推測できます。つまり、薬を飲んでいない患者さんを言い当てることも、ほぼ可能です。でも、多くの患者さんは「私は薬を毎日飲んでいます」と言い張ります。
「そんなことないでしょ。あなた、薬飲んでないでしょ」
が、ぼくの内心。しかし、そういう言い方はぼくはしません。これじゃ、人間関係ぶち壊しだからです。人間関係ぶち壊しといて、うまくいく医療はほぼあり得ません。
内心では、ぼくは「この患者は薬を飲んでいないな、ウソをついているな」と思っています。しかし、「他あろう、あなたがウソをついているだなんて、私は全然疑ってはいませんよ」と考えているかのように振舞います。つまり、ぼくもウソをつくのです。で、
「どうもウイルスが耐性化しているわけじゃ、なさそうです。薬の飲み方に何かの問題があって、それで効いていない可能性が高いです。なにか思いつく原因はありませんか。例えば、ぼくが知っている患者さんは腕時計にアラームをかけていて、それを合図に薬を飲んでいました。けど、そのアラームが壊れていたんですね。なにか、そういう問題みたいなの、思いつきませんか」
こうやって、「私はあなたがウソをついているなんて全然思っていませんけど、どこかに問題はありませんかねえ」という「絡め手」を使うのです。そして、患者さんは、ぼくが薄々自分が薬を飲んでいないであろうことを疑っているんだけど、それを口に出してはコミュニケーションがぶち壊しになるから、気遣いとしてやんわりと搦め手を使っているのだな、と察してくれます(たいていの場合)。
このような駆け引きは日本の伝統文化です。たとえば、和歌がそうです。
和歌には掛詞というものがありますね。あれは、「本音ではこう言いたいんだけれど、そう直截に言っては身も蓋もないから、搦手として別の表現を使いますよ」という意味なのです。
あしひきの山井の水は氷れるを いかなるひもの解くるなるらむ
は平安時代の実方中将が詠んだ歌。橋本治「桃尻語訳 枕草子 中」(河出文庫)の助けを借りてこの歌の説明をしますと、
「山奥の胸の湧き水、氷ってるのに、どういう氷はとけちゃうのかあなア」
という意味です。なんということはない歌です。
しかし、この「解くる」は「氷が溶ける」と「紐が解ける」を掛けているのです。「ひも」の「ひ」は氷のことなのですが、そこに「紐を解く」を掛けているのです。そして、それは衣服の紐なんです。つまり、「体を許す」という意味なんです。袴の紐を解いて、下半身を、、、という意味なんです。この歌は口説き文句なんですね。でも、表面上はあくまでも「私は氷の話しかしてませんよ」という口調なのです。
そうなのです。医療というのは「からだ」の話ですから、いろいろと微妙な問題が絡んできます。それを直截に言ってしまうと「それを言っちゃあ、おしめえよ」なのです。
だから、表面上でウソを言っている、本当を言っている、という形式論なんて意味がないんです。そして、「学者」はいつでもその形式ばかりを気にするのです。
医者が患者にウソをつくか、つかないか。それは形式の問題であって、ぶっちゃけ、「どうでもよいこと」です。問題は、このようなひだの間のコミュニケーションが取れていて、お互いがやんわりと了解が取れ、かつ人間関係が持続していること。それこそが大事なんですね。
とはいえ!
このような「掛詞」的コミュニケーションは日本人の専売特許かというとそんなことはありません。例えば、ジェイムズ・ジョイスの小説もこのようなダブル・ミーニングに満ちていますし、どこの世界でも「それを言っちゃあ」の文化はあるのだとぼくは思います。
とくにそれがはっきり分かるのは、アメリカのテレビドラマ、「刑事コロンボ」シリーズです。
ご覧になった方にはご案内でしょうが、コロンボは犯人に、「私はあなたのことを全然疑ったりはしていませんよ。上司がうるさいもので、これはまあ捜査の手続きってやつで」とやんわりと犯人にアプローチします。その実、コロンボは「こいつがホシだ」と確信を持っている。犯人も「コロンボはあんなにノラリクラリとしゃべっているけれど、俺がホンボシだと疑っている」とわかっています。わかっていながら、お互いにウソをつきあって化かし合いをしているのです。
ついでに言うと、「ドクター・ハウス」が言うように、患者はしょっちゅうウソをついています。ぼくらはそれに気づかないこともあるし、気がつくこともあります。でも、たとえ気づいても「あなた、ウソをつきましたね」なんて指摘することは絶対にありません。やはり騙されたふりをしてそのまま対話を続けるのです。
ウソは、一般的なコミュニケーションでは必然です。ぼくが作ったまずい料理を、奥さんは「悪くない」と食べてくれます。「奥さんはまずいと思ってるだろうな」とぼくが思っても、「おまえ、実はまずいと思ってるだろ」なんて言ったらぶち壊しなので、「ちょっと塩味強すぎたかな」「そんなことないよ」。ま、こんな感じではないでしょうか(フィクションです)。
一般的なコミュニケーションには掛詞的ウソは必然で、これなくしてはギスギスしてやってらてません。医者・患者のコミュニケーションは、一般的なコミュニケーションの一バリエーションに過ぎません。そこに掛詞的ウソが入るのは、やはり必然なのです。「医者は患者にウソついちゃいかん」、はそのへんの機微が分からない、困ったちゃん的なスローガンなのです。
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