「患者中心の医療」、という言葉があります。医療者(とくに医者)が勝手に方針を決めるやり方、患者の人権(主権)を蔑ろにするやり方はけしからん。そういうのは父権主義(パターナリズム)だ。これからは患者が中心だ、患者中心の医療だ、というわけです。
でも、実はこの「患者中心の医療」。案外、コワ~イものなんですよ。
だって、考えてもみてください。もし、本当に患者中心の医療が提供されたら、あなたはすべての決断に十全に参加しなければなりません。「先生にお任せします」なんて言えません。「あなたが中心なんですから、あなたが決めてください。情報提供はしますから」となってしまいます。
意思決定者になるというのは、けっこうたいへんなものです。意思決定には責任も伴いますから。それが、真の意味での「自由」ということですから。自由とは、かくも崇高にして美しく、そして厳しい概念なんです。
自分で選び取った薬です。その薬で万が一副作用が発生しても、それは「自己責任」ということになります。検査の副作用もそうです(造影剤とか、放射線とか)。
たとえ医者が誤診したり、あなたに被害を与えたとしても、「それはそもそも、そういう医者を選んだあなたに見識がなかった」ということになります。「あの医者がけしからん。俺には責任ない」となじるのは、パターナリズムの許容にほかならないのです。自己責任なんです。
この「患者中心の医療」は究極的に突き詰めれば、「医療のコストも自己責任」ということになります。他人のお金、公共のお金に頼ってしまえば、それは患者が「主体」から脱落し、誰か別の人に依存してしまうことを意味していますから。
このように「患者中心の医療」とは、その言葉が醸し出すアマーイ響きとは異なり、実に厳しい概念なんです。主体的になるって大変なんです。「先生におまかせ、薬の名前なんて覚えられなーい。責任なんてとりたくなーい」のほうがはるかに楽なんですよ。
「患者中心の医療」を主張する人はたくさんいます。医療者にも、そうでない人にも。でも、そういう一見ヒューマニズムに満ちた主張をする人で、そのような、患者が中心であることの「厳しさ」を伝える人は、極めてまれです。それは、「患者にそういう厳しいことを知らしむべからず」という善意と思いやりから来ているので、べつに悪意はないのですが、そのような「善意と思いやりからくる「知らしむべからず」のコンセプト」そのものが、パターナリズムなんです。この矛盾に、ほとんどの「患者中心の医療」を訴える人たちは、(善意故に)気づいていないのです。
とはいえ!
ぼく自身、「患者中心の医療」は大切なコンセプトだとは思っています。
ただ、上述のようにこれってけっこう患者にも厳しいコンセプトです。それを患者に強要しようとは思いません。多くの患者さんは、今も「先生にお任せ」を望んでいるからです。「患者中心の医療」を患者に強要するのも、入れ子的なパターナリズムなんです。ヤヤコチイネ。
そもそも、「患者が中心か」「パターナリズムか」は医療提供の手段の選択に過ぎません。それは目標ではなく、手段の問題なのです。大事なのは、「結局、患者によいことがなされ、それに患者がどれだけ満足するか」というゴールです。それを突き詰めると、結局「誰が中心か」というヘゲモニー争いそのものが、あんまり意味ないんじゃないの。「だれも中心でない医療」のほうが、案外、気分が楽になるようなきがするなあ。
患者中心の医療を全否定してはいけません。しかし、それを絶対視するのも同時に危険です。絶対視は思考停止と同義であり、これが日本医療最大の「闇」だからです。
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