夏休みのボーナストラック、そのいち
インフォームド・コンセントという言葉があります。あれは日本語にしにくくて、「説明と同意」という訳語がおかしいという指摘もあります。でも、「情報を提供された上での同意」という直訳もちょっとなあ、という感じです。インフォームド・コンセントというカタカナもイマイチです。
いずれにしても、ぼくはこのインフォームド・コンセント、そろそろ賞味期限が来ちゃったんじゃないかと思っています。
昭和の昔、医者が今よりもずっとずっと威張ってふんぞり返っていたとき。医者は患者に何も説明することはなく、「だまって言うことを聞け」と言っていました。
今の日本の医療はいろいろ問題抱えていますが、昔よりもずっとずっとましになっています。「昔の医療はよかった」と言ってる人は、セピア色の美しい記憶だけが残っているか、記憶のすり替えが起きているか、あるいはボケちゃっているだけなんです。今の日本の医療のほうが、知的にも技術的にも、そしてヒューマンな意味でも、ずっとレベルが高いです。
で、そういう「いけてなかった」昭和の時代においては、インフォームド・コンセントという概念はとてもよいカウンターアタックでした。旧態然とした価値観に水平チョップ。秩序のない現代にドロップキック。これってJASRACにお金払う必要あるのかしら。
でも、インフォームド・コンセントの先輩、アメリカがそうであったように、インフォームド・コンセントは形骸化していきます。要するに、説明して同意とっときゃ良いんだろ。それで、免責。主体は患者。責任は取りませんよ、というわけです。
もちろん、こういうことは公式には絶対に認められません。人種差別をしている人が絶対に自分が差別者であることを公に認めないのと同じように。
形式的には、インフォームド・コンセントは患者の自己決定権を十全に尊重する崇高な仕組みです。でも、その実態は医者の責任逃れなのです。アメリカも巨大な「本音と建前」の国なのです。もちろん、日本もそうです。
神戸大学病院では、エイズの原因であるHIV検査の同意書を廃止しています。もちろん、HIV検査をする時は、その旨患者さんに伝えます。でも、口頭同意だけ。だって、他の血液検査は普通に検査するのに、HIVだけ書面で署名なんて、おかしいでしょ。差別的だよ、そういうの。
ぼくらはHIV/AIDSの問題を、他の医療の問題と同等のものにしようと、差別問題を克服しようと取り組んでいます。しかし、そのような「配慮」が逆に患者を「特別扱い」にします。特別扱いそのものが、実は一種の差別です。しかしそのような配慮をいきなり取っ払うわけには行きません。ここには微妙で微細なさじ加減が必要です。
しかし、いずれにしても目指すところは、「他の病人と同じ扱い」です。薬害エイズの影響で、エイズ患者にはいろいろと特権的な立場が与えられています。臨床試験をスルーして新薬の導入、身体障害がないのに身体障害者手帳。こういうのも、少しずつ克服していかねばなりません。同意書の廃止は、その手始めです。
インフォームド・コンセントは一種の契約です。契約社会のアメリカがもたらした産物です。でも、そもそも契約というのは「私はあなたを信用していませんよ」という前提がもたらしています。十全たる信頼があれば、契約書なんて作らないからです。
したがって、インフォームド・コンセントは医療者と患者にある種の「距離」を作ります。あなたと私の関係をつめたーくする距離です。アメリカにおいて、医者・患者間の信頼関係がまったく醸造されて来なかったのは、インフォームド・コンセントがあるにもかかわらず、ではなく、「あるがゆえに」だとぼくは思うのです。もう、その先にバージョンアップする必要があるのです。それが、「対話」なのです。書面もサインも契約も存在しない形での。
とはいえ!
そもそも、「患者の自己決定権が大事」とか「医療職は患者や社会との契約からなるプロフェッショナル」というコンセプトも、十分に吟味しないまま海外から輸入しちゃったコンセプトに過ぎません。それが大事でないとは言いません。でも、それが何をも凌駕するほど大事かどうかというと、どうかなあ。
例えば、患者の自己決定権が何より大事、はアメリカではデフォルトで正しく、家族の意見は明らかに劣位にあります。しかし、日本においては自分と家族とどっちが大事かは「微妙」ですし、そもそも両者が分断できないことも多いです。ぼく自身は分断できません。よって、「俺はいいんだけど、家族が」と患者が言ったとき、「何言ってるんです。あなたの決定が何より大事なのです」とバッサリできないのです。
大切なのは、患者が質の高い医療を提供されることであり、「自己決定権」とか「プロフェッショナリズム」とか、「契約」とか「インフォームド・コンセント」といったキーワードはその手段に過ぎません。それがフィットする患者であれば、それがフィットする社会(例えば、アメリカ)であればそれでよい。でも、フィットしないとき、無理やり手段に目的を合わせるのは本末転倒です。この問題、奥が深くてややこしい問題ですが、だからこそ「簡単に答えを出しては」いけないのです。ここでも必要なのは、目的を見据えた、微細で微妙なさじ加減です。
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