本書は素晴らしい。医療者は絶対読むべきだと思う。そこには豊かな言葉がある。そして不可思議なことに、もっとも「言葉」を必要としている医療者は、ほとんど貧弱な言葉しか持っていない。だから、本書は必読だ。
書評はすでに内田先生がなされているから、屋上屋根を重ねることはしない。書評するような能力はぼくにはないので、ひたすら引用する。「必読」の理由がわかるはずだ。
p37 顔を描いてはならない。顔は画面の上で生まれるのでなければならない。つまりそこにあるものとしてではなく、逆に無いものとして、見られることによってはじめて生まれでるものとして描かなければならない。
p40 <顔>は、消え入るというかたちでしか現われえないもの、不在というかたちでしか現れえないものである。
p50 自分が自分自身であると同時に、自分の知らない誰か他の人でもある、という気持ちを、たとい束の間のうちにせよ、覚えたことのない人間など、想像しうるだろうか
p55 (ウィトゲンシュタインにならって)「悲しみ」とは「悲しみのふるまい」のことであると言い換えるべきだろうか。
p59 動物界にあって性的メカニズムを誘発せしめているのは、具体的な個体でなく、ひとつの形体というか、色彩をそなえたフェティシュであるにすぎない。
p62 何人かのヨーロッパ人のように、観客は人形遣いの存在を忘れられるかどうか、などといぶかるのは無意味なことである。
p64 内と外の境は、皮膚ではなく孔により深くかかわるものであることからも、それはうかがえる。
p94 母親は子供の顔と手の汚れをなめとってやる。凍った水を温めてとかすのは高くつくからである。
この記述にふれて、深い充足を思わないでいるのはむずかしい。
p95 引き剥がしの経験は、多くのばあい、次子の誕生によってより強くうながされるだろう。きょうだいの存在はたぶん憎しみからはじまるのだろう。
p98 いずれにしても、家族は痛い場所である。
p100 どうしてわたしは特定の「あの人」を欲するのか。どうしてあの人を長くせつなく求めつづけるのか。わたしが欲しているのはあの人のすべて(シルエット、スタイル、雰囲気)であるのか、それとも肉体の一部でしかないのか。そうだとしたら、愛する肉体の何が、わたしにとってフェティシュとなりうるのか。どのような部位であるのか。爪の切り方か、ほんの少し角の欠けた歯か、髪の房か、喋ったり煙草を吸ったりしているときの指の格好なのか。わたしとしては、そうしたあの人の肉体の襞のすべてに素晴らしいを言いたい。素晴らしいとは、つまり、これこそが唯一無二のわたしの欲望だと言うことである。
p105 とはいえ、たいていのひとは「比較」という、相対的な世界にどっぷりと浸かっている。
p119 最大のタブーはもはやセックスなどではなく、<愛>なのかもしれない。セックスは今や、そうした愛の親密さや感情的な交感を避ける口実になっているのではないだろうか。
p131 ちなみに<わたし>の自己同一的な存在を、意識が自己自身を時間のなかで「保ちつづける」はたらきのうちに根拠づけようとする考え方は、ロックからフッサールまで西欧の近代哲学のなかで連綿と続いている。
p134 イマニュエル・カントは、故人の自由の根拠をその存在の「自律」に求めた。
p141 嫉妬はおそらくその典型である。このように、ひとは自由への夢を所有による自由へと転位させ、そうすることで逆にじぶんをさらに不自由にしてしまう。
p148 カントは、どうすれば幸福になりうるかではなく、どうすれば幸福であるにあたいするような人間になれるのかを問うのが、倫理学だと考えたのである。
p149 絶対的「強制」によって可能となる絶対的「自由」は、それが政体化されたとき、その「強制」がたとえ「内」からくるものであっても、「鉄の規律」となってきわめて抑制的に機能すること、全体主義的に機能することを、わたしたちは二十世紀にしかと目撃している。
p165 専門研究者が長らく抱いていいた「啓蒙」という思想は、専門家と一般市民の乖離を前提としている。つまり、素人にはわからないといういわゆる「欠如モデル」である。
p173 エンド・マークをつけることを拒みつづけるときにはじめて、人びとは「倫理」がより肉厚のもの、奥行きのあるものになる可能性にふれる。
p175 オール・オア・ナッシングで選択を迫られるよりは、つねに第三、第四の選択肢に開かれているほうが、はるかに生きよい。
p189 anti anti-relativismとは、ある意味、きわめて屈折したスタンスである。それは、形式のうえでは、共産主義を信奉することなく反共産主義(マッカーシズム)を批判する議論、中絶の法的制限に反対する議論に賛同することなく反中絶論を批判するという議論に似た、いわば二重否定のスタンスをとる議論であって、「拒まれている対象を受け入れることなく、拒んでいることを拒む」。
p193 それぞれに特異な者たちの関係をいわば上から俯瞰して、それを相互的・共同的なものとして取り扱うような第三者の思考、それをレヴィナスは「全体性の思考」だと言う。
p201 ここで、「人間的」という、ひとのあらゆる権利の最終的な尺度となっている概念は、概念として奇妙な性格をもっている。それは、アプリオリなものとして構成されたものだからである。アプリオリに存立しているのではなく、アプリオリなものとして構成されたものである
p243 ここでわたしたちは、(じぶんが)死ぬことよりも、(だれかに)死なれることが、じつは<死>というものの経験の原型だと言いたくなる。
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