個人的には、「不要な医療」は日本に普遍的だと思う。それを分析し、「そこは不要ですよ」とまとめて医療界、そして世間に発表するのは医者の大事な仕事である。そういう仕事を本書に期待していたのである、ぼくは。
そうではなかった。本書は単に筆者の医学、医療嫌い感情をヒステリックに発露しているに過ぎない。新谷弘美とか近藤誠とか安保徹とか母里啓子とか浜六郎などが引用元なのが問題の骨子ではない(そこで反論すると単なる信念対立になるだけですから)。根拠の甘さ、論理の飛躍が問題なのだ。
P14 診察室で一度も診察をしなくても、話を一言も聞かなくても、治るものは治る(その通り、以下、括弧内は岩田)。たくさん話を聞いてくれても、治らないやり方は治らない(これもホント)。というよりやさしくたくさん話を聞いてくれる人ほど治せないのである(ここに飛躍。いきなり説明もなく「飛ぶ」のである)。
医学や医療にぎりぎりまでかからないこと、これが健康であることや殺されないための最も重要な秘訣だが(ここも根拠なし。というか、ぎりぎりになったらかかるの?そしたらもっと「殺され」ない?)、一般の人にはそのような発想自体が思い浮かばない。
現代の医学とは、かかればかかるほど悪くなるのである(一部賛成)。悪くしないと儲からないのだから(これも根拠のない陰謀論。いきなり飛ぶ)。
要するに極論すれば、殺人するためにこそ現代医学は存在する。悪くしないと儲からないのだから(殺したら「儲からない」のでは?)。そして逆説的にいえば本気で死にそうになっている人だけが、現代医学によって救われる可能性がある。毒を以て毒を制すとは聞いたことがあるだろうが、本当に死にそうにな人だけが西洋医学の毒により死にかけの体を活性化することができる(意味不明)。
p15 そもそも医療では解決できない社会的なさまざまな問題を、医療によって解決できると考える概念を「医療化」と呼ぶが、これは非常に危険で愚かな考え方であることを悟らねばならない(これは完全同意)。
p21 もうこのような構造による利権・カネ作りはやめにしようではないか、本質的に嘘のない医学世界を作ろうではないか(ここも同意)。
p24-25 医原病でたくさんの人が亡くなっている(ここも同意)。
p37 「100%この原因で、この病気が起こっている」というのを突き止めねばならない。(中略)そのような徹底さをもって追求を重ねるのは、医学以外の科学(たとえば物理学とか分子学とか)であれば当たり前のことである。
(全然当たり前ではない。殺人の原因にせよ、交通事故の原因にせよ、多様であるのがむしろ「当然」で、100%この原因でなければならない、というのは著者の「思い込み」に過ぎない。思い込みが通じないから医学はけしからん、というのはイイガカリにすぎない。筆者が述べる物理学にせよ、例えば「力」には重力、電磁力、弱い力、強い力など多様性があるわけで、主張は成り立たない。分類の「恣意性」は構造主義的にはむしろ現象の「本質」なわけで、そこは医学の価値をいささかも弱めるわけではない)
p39 野生動物はガンにも糖尿病にもならない
(かどうかはぼくは知らないが、たとえ事実だとしても当たり前。その前に死ぬからである。ガンの最大のリスク因子は「加齢」なのだから。ナイーブな「野生」はよいという思い込みに過ぎない)。
p43 現代のニセ病気の大半は、それを治すという発想そのものが問題なのである。(中略)それらのほとんどは治してはいけないものである(なんで?)。
p47 それでもなおホメオパシー医学を応援することには意味がある(なんで?)。
p48 私に言わせれば、ホメオパシー医学であれ、ナチュロパシー医学であれ、オーソモレキュラー医学であれ、東洋医学であれ、必ず欠点や「あら」がある。しかし、それは大きな問題ではないのだ。
(100%でなきゃだめだって言ってたじゃん)
p49 西洋医学の薬のほぼすべてが、西洋医学の思惑に従って、病気を作り、体を悪くするために作り上げられてきた物質だからである(なんで?)
p49 認知症薬の多くはアセチルコリン阻害作用を持っている。(中略)サリンや有機リンと呼ばれる物質は猛毒として有名だが、これもアセチルコリン阻害物質である。(中略)基本的な機序が同じだと聞いた時に、一般の人は何を想像するか。(中略)おそらく事実を聞けば聞くほどに、それを飲みたいという人は減るだろう。
(これは典型的な三段論法の誤用、悪用。寿司ネタの多くは魚である、ふぐに含まれている物質は猛毒として有名だが、これも魚である、、、というやつ)
p50 しかも蛋白結合率が高く相互作用により弊害が出やすい。つまり、サリンに近づきやすい。
(アリセプトの問題を論じること「そのもの」はいいのだけど、論理が無茶苦茶)
p52 医学不要論において、病気は完全なる証明が必要であり、しかも死に直結するものを治療するからこそ、毒学である医学に価値があり、その科学論も完全なるもの、より完全に近いものが必要である。それで考えれば、感染症は人類の歴史上、現代医学がない時代から普遍的につき合ってきたものであり、それは「必ず存在している病気」である。そして、内服の抗生剤が無駄であるのと違って、点滴の抗生剤には一定の価値がある。
(文章として成り立ってません。この前後の文章もむちゃくちゃです。このあと)
1つだけ確実に言えるのは現代医学が扱っている薬とやらは、まったく薬ではなく、単なる「毒」であるという点だ。
(点滴の抗生剤は効くって言ってたやん)
「代替医療にはデータが乏しい」ー>「西洋医学の治療の結果は10%とかそういうレベルでしか残せていない」ー>「だから、代替療法のほうが現代医学より許容されるるのである」(p58)。(「だから」の意味が不明)
「私は安くても有効な手段をいくつも知っている」(データが乏しいのに、なぜ?)
と、もうこれをやっていると1行1行全部ツッコミを入れなければならないので、キリがないからやめるが、要するにすべての主張がこんなかんじで、果てはお決まりのがん治療やワクチン批判へと移る。批判するのは構わないが、「したがって」とか「だから」といった接続詞の前にあるものと後にあるものは、せめて意味のあるつながりを欲しい。医学不要論という主旨にいくらシンパシーを持てても(ぼくは持つけど)、ここまで乱暴な議論を展開されると、逆効果だ。もっとも、こういう暴論が大好きで信じこんでしまう人がとても多いことも、アマゾン書評とか読むとすぐ分かるわけだけど。その1割でもこのブログを読んで、本書は顧慮に値しない暴論の書であることをわかってくれたら、それでよい。あとの9割は何を言ってもダメなんですよね、たぶん。
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