プロフェッショナリズムについて長く興味を持っている。で、「Teaching Medical Professionalism」を購読してそのまま積ん読状態だったのだが、このたび邦訳が出たので喜んでそちらを読んだ。邦題に「理論と原則」と銘打ってあり、まさに理論面、原則面の本である。実際のケーススタディには「Professionalism in Medicine」があるが、こちらもまだ未読。誰か訳してくれんかなあ(とかいうと、「お前がやれ」という声が起きるので、こっそりと)。
本書は発展途上の領域である医療におけるプロフェッショナリズムについて、理論的な議論をまとめた良書である。
「専門家」かつ「癒し人」である医師の倫理綱領はローマ時代、2000年も前から少しずつ発展してきた。公言する(professing)人である医師の専門家としての属性、癒し人としての属性が分析されていく。そんななか、1980年代から90年代にかけて、アメリカでは医師たちが伝統的な献身や社会契約から逸脱し、プロフェッショナルな精神を失いつつあるのではないか、という疑義が沸き起こる。そして、ここからプロフェッショナリズムを定義し、評価し、カリキュラムに組み込み、コンピテンシーに組み込むという、まあ「いかにもアメリカ的」な方法論が展開されていった。
現状を嘆き、遠い目をして「俺達が若い頃は」「昔はこんなじゃなかった」と現状の悲惨を嘆くのは、孔子様の頃からの常套手段であり、洋の東西古今を問わず、絶えず行われてきたことである。80年代、90年代に興ったプロフェッショナリズムの動機づけは(おそらくは)清貧をよしとした勤勉なプロテスタンティズムから、露骨にマネタリズムに移行していったアメリカの歴史にうまくシンクロする。マネジドケアがアメリカの医療スタイルを激変させて医療にも商業主義の波が押し寄せた事情にもシンクロする。医療訴訟が増大して医師/患者関係がギスギスした時代にもシンクロする。ナース等コメディカルの医療進出と相対的な医師の権力低下、女性医師の進出、パターナリズム批判にもシンクロする(シンクロ=同期している、とは言うけど、どちらが原因でどちらが結果かはここでは問わない)。激変をウェルカムする社会の実験場アメリカで、オールドタイマーたちが「利他主義、誠実、伝統的価値観」の回帰を訴えたのは当然であった。本書ではそれを(いささか揶揄をこめて)「ノスタルジックな」プロフェッショナリズムと呼ぶ。
これに乗ったACGME(卒後医学教育認定評議会)は、プロフェッショナリズムをコア・コンピテンシーのひとつに組み込むようになった。プロフェッショナリズム教育は医学生、研修医たちへの必須項目となり、プロフェッショナリズム教育が提供されない研修プログラムは取り消し処分の可能性すら生じたのであった。本来、自発的、主体的に発露されるべきプロフェッショナリズムに、「他者からの監査、強制」が入るという皮肉が生じるのであった。「本質的に、医師の自律性と医師の説明責任は相反的」(30ページ)なのである。
本書は多数の著者によって書かれており、章によってその主張は微妙に異なるが、基本的に「ノスタルジック・プロフェッショナリズム」には反対の立場を取る。それは時代の変遷に呼応しない古臭い考え方だからである。Haffertyはいう(彼の書いた「プロフェッショナリズムと医学生の社会化」は本書でもっとも面白い章である)。「結局のところ、コンテクストを無視した教育はレトリックにすぎないのである」。しかしながら、弱者に厳しい弱肉強食のアメリカという国の「現状」に寄り添うプロフェッショナリズムは真に医療におけるプロフェッショナリズムと呼んで良いのか、という疑問は僕に残る。結局のところ、理念を無視した教育は偽善にすぎないのではないだろうか。
監訳者の「まえがき」にもあるように、アメリカでもプロフェッショナリズムの議論はそれほど人気があるわけではない。2005年の米国医科大学協会年次集会でもプロフェッショナリズムのセッションは参加者は40人ほどで、人気はさほどなかったようである。少数のダイハードなアメリカ医師にとって、プロフェッショナリズムは懐古趣味なノスタルジーにドライブされた、「昔に帰れ」の合唱である。(おそらくは)やはり少数の先鋭的な医学教育者にとって、プロフェッショナリズムは研究対象であり、飯の種であり、ノスタルジーへの復帰を嗤い、「最新の」ものへのバージョンアップを常に希求する対象である。そして、(おそらくは)大多数のアメリカ医師にとって、プロフェッショナリズムは研修プログラム取り消しやその他の懲罰を免れるための鬱陶しい相手である。もちろん、彼らはそうとは口が裂けても言わないだろうが。
プロフェッショナリズムの必要が現場から強く訴えられた理由は明確で、現場にプロフェッショナリズムの欠如が感じられたからである。「ノスタルジックなプロフェッショナリズム」を求める医師も「カッティイングエッジなプロフェッショナリズム」を希求する専門家も、どちらも現状からの変化を強く望んでいる。現状がうまくいっていないからである。欠如こそが、その存在を希求するのである。だから僕は、アメリカ医師の大多数にはプロフェッショナリズムが根付いていないと推察するのである。
昔、ベルファストで聞いた話。北アイルランドの整形外科医は世界一膝の手術が上手い整形外科医だ。IRAはリンチとして(日本で指を詰めるように)銃で膝を撃ちぬく。IRAがまだ激しいテロ活動を行なっていたころの話だ。「だから」ここの整形外科医は膝の手術がべらぼうに上手い、、、、ま、ジョーク大好きなアイリッシュの話なので、真偽の程は定かではないが。欠如こそがその領域勃興の大きな動機付けになる、という好例である。
日本においてプロフェッショナリズムを議論する最大の動機ははるかにシンプルである。それは、「アメリカで最近話題」だからである(ここではカナダ、英国も入っているけど、根源的には「アメリカ」でかまわないと思う)。まさに、本書の監訳者が「まえがき」で紹介した通り、「アメリカではこうなっている」が動機づけなのである。それに比べて日本の学術界はまだそこにキャッチアップしていない、早く追いつけと周囲を脅かすのである。
そこには内的な動機付けが存在しない。日本の学問領域は昔から(丸山眞男の時代から)「海外で流行っている」ことにいかに迅速にキャッチアップし「俺が一番知っているか」を競うものだからである。したがって、最新のものに飛びつき、そうでなくなるとあっさり捨てる。マルクス主義、民主主義、実存主義、構造主義、ポスト構造主義、、、すべて「流行っている」といって飛び付き、「あんなのもう古いよ」と捨てる。PBLは古いとTBLに飛びつく。たぶん、数年経つとこれも捨てる。日本では「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されないという「伝統」」がまだ強く残っているのである(日本の思想 6ページ)。
ぼくは、昔から「プロとは何か」「プロであるとはどういうことか」を真剣に、何十年も考えてきた。だから、講習会とかで「最近のアメリカではプロフェッショナリズムが話題になっていて、これを教えないとACGMEから認定を取り消され、、、」なんて話を聞くと強い違和感を感じるのである。利己と利他、自律と規制、名誉と謙遜、信頼と説明、、、、このような根源的なジレンマに葛藤を覚え、対決し、蓄積し、歴史的に構造化することに取っ組み合っていると、その上で軽やかなダンスを踊っている連中に「ちっ」という思いを禁じ得ないのである。
日本の場合、遠い目をして「昔はよかった」という「昔」はない、というのが僕の意見だ。ぼくが子供の頃の医者は今よりずっと威張っていて態度が悪く、金にも汚く、患者との対話も稚拙だった。見ている方向は患者ではなく、医局内の事情(これも丸山が指摘する「タコツボ」文化)だった。そもそも、医学部に進学する連中にも「一番学校で成績が良かった」的理由で入学するのが少なくなかった。今の医者は昔よりも全然威張っていない。態度も良い。製薬メーカーにゴネたりおねだりしたりする人も激減した(まだいるけど)。患者にもずっと優しい。もちろん、いつの時代にもアウトライヤーはいるだろうが、一般論としては、平均的には。僕の先達より、僕の世代より、今の世代の医師のほうが社会人としてはずっと優れている、というのが僕の意見だ。だから、プロフェッショナリズムに関する限り、ノスタルジーはそこには介在し得ない。したがって、日本ではアメリカのようなプロフェッショナリズムの勃興、進化という歴史を追体験することができない。というか、その必要もない。
日本では「昔に帰れ」はありえないオプションだ。もちろん、「今のままでいい」でもない。「アメリカのようになろう」とか「グローバルスタンダードにのっかり」はもっとも短絡的だ。では、どうするか。いじいじと、葛藤しながら考えている。何十年も考えてきた。これからも考える。その一端は、「主体性は教えられるか」と「真っ赤なニシン」で示した。でも、まだここで終わっているわけではない。
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