内田樹先生の6月14日のブログに、野田首相の大飯原発再稼働について国民に理解を求める声明が紹介されています。その声明を、少々長いですが、ここに再掲します。内田先生のブログをお読みになった方は、声明の部分は飛ばしてください。
本日は大飯発電所3,4号機の再起動の問題につきまして、国民の皆様に私自身の考えを直接お話をさせていただきたいと思います。
4月から私を含む4大臣で議論を続け、関係自治体のご理解を得るべく取り組んでまいりました。夏場の電力需要のピークが近づき、結論を出さなければならない時期が迫りつつあります。国民生活を守る。それがこの国論を二分している問題に対して、私がよって立つ、唯一絶対の判断の基軸であります。それは国として果たさなければならない最大の責務であると信じています。
その具体的に意味するところは二つあります。国民生活を守ることの第一の意味は、次代を担う子どもたちのためにも、福島のような事故は決して起こさないということであります。福島を襲ったような地震・津波が起こっても事故を防止できる対策と体制は整っています。これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認されています。
これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。もちろん、安全基準にこれで絶対というものはございません。最新の知見に照らして、常に見直していかなければならないというのが東京電力福島原発事故の大きな教訓の一つでございました。そのため、最新の知見に基づく、30項目の対策を新たな規制機関の下で法制化を先取りして、期限を区切って実施するよう、電力会社に求めています。
その上で、原子力安全への国民の信頼回復のためには、新たな体制を一刻も早く発足させ、規制を刷新しなければなりません。速やかに関連法案の成案を得て、実施に移せるよう、国会での議論が進展することを強く期待をしています。
こうした意味では実質的に安全は確保されているものの、政府の安全判断の基準は暫定的なものであり、新たな体制が発足した時点で、安全規制を見直していくこととなります。その間、専門職員を擁する福井県にもご協力を仰ぎ、国の一元的な責任の下で、特別な監視体制を構築いたします。これにより、さきの事故で問題となった指揮命令系統を明確化し、万が一の際にも私自身の指揮の下、政府と関西電力双方が現場で的確な判断ができる責任者を配置致します。
なお、大飯発電所3,4号機以外の再起動については、大飯同様に引き続き丁寧に個別に安全性を判断してまいります
国民生活を守ることの第二の意味、それは計画停電や電力料金の大幅な高騰といった日常生活への悪影響をできるだけ避けるということであります。豊かで人間らしい暮らしを送るために、安価で安定した電気の存在は欠かせません。これまで、全体の約3割の電力供給を担ってきた原子力発電を今、止めてしまっては、あるいは止めたままであっては、日本の社会は立ちゆきません。
数%程度の節電であれば、みんなの努力で何とかできるかも知れません。しかし、関西での15%もの需給ギャップは、昨年の東日本でも体験しなかった水準であり、現実的にはきわめて厳しいハードルだと思います。
仮に計画停電を余儀なくされ、突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人も出ます。仕事が成り立たなくなってしまう人もいます。働く場がなくなってしまう人もいます。東日本の方々は震災直後の日々を鮮明に覚えておられると思います。計画停電がなされ得るという事態になれば、それが実際に行われるか否かにかかわらず、日常生活や経済活動は大きく混乱をしてしまいます。
そうした事態を回避するために最善を尽くさなければなりません。夏場の短期的な電力需要の問題だけではありません。化石燃料への依存を増やして、電力価格が高騰すれば、ぎりぎりの経営を行っている小売店や中小企業、そして家庭にも影響が及びます。空洞化を加速して雇用の場が失われてしまいますそのため、夏場限定の再稼働では、国民の生活は守れません。
そして、私たちは大都市における豊かで人間らしい暮らしを電力供給地に頼って実現をしてまいりました。関西を支えてきたのが福井県であり、おおい町であります。これらの立地自治体はこれまで40年以上にわたり原子力発電と向き合い、電力消費地に電力の供給を続けてこられました。私たちは立地自治体への敬意と感謝の念を新たにしなければなりません。
以上を申し上げた上で、私の考えを総括的に申し上げたいと思います。国民の生活を守るために、大飯発電所3m4号機を再起動すべきだというのが私の判断であります。その上で、特に立地自治体のご理解を改めてお願いを申し上げたいと思います。ご理解をいただいたところで再起動のプロセスを進めてまいりたいと思います。
福島で避難を余儀なくされている皆さん、福島に生きる子どもたち。そして、不安を感じる母親の皆さん。東電福島原発の事故の記憶が残る中で、多くの皆さんが原発の再起動に複雑な気持ちを持たれていることは、よく、よく理解できます。しかし、私は国政を預かるものとして、人々の日常の暮らしを守るという責務を放棄することはできません。
一方、直面している現実の再起動の問題とは別に、3月11日の原発事故を受け、政権として、中長期のエネルギー政策について、原発への依存度を可能な限り減らす方向で検討を行ってまいりました。この間、再生エネルギーの拡大や省エネの普及にも全力を挙げてまいりました。
これは国の行く末を左右する大きな課題であります。社会の安全・安心の確保、エネルギー安全保障、産業や雇用への影響、地球温暖化問題への対応、経済成長の促進といった視点を持って、政府として選択肢を示し、国民の皆さまとの議論の中で、8月をめどに決めていきたいと考えております。国論を二分している状況で一つの結論を出す。これはまさに私の責任であります。
再起動させないことによって、生活の安心が脅かされることがあってはならないと思います。国民の生活を守るための今回の判断に、何とぞご理解をいただきますようにお願いを申し上げます。
また、原子力に関する安全性を確保し、それを更に高めてゆく努力をどこまでも不断に追求していくことは、重ねてお約束を申し上げたいと思います。
私からは以上でございます。
内田先生の分析する野田首相の言葉の「詭弁性」と国民に対する一種の「敵意」については、ブログをご覧いただくことにして(http://blog.tatsuru.com/2012/06/14_1241.php)、ぼくはちょっと別な視点からこのことばを考えてみたいと思います。
リスクという観点から言うと、大飯原発再稼働問題は、再稼働する際の原発安全のリスクと、再稼働しない際の停電リスクのトレードオフ、ということになります。どちらもリスクゼロというわけにはいきません。再稼働賛成派も反対派も、この事実は認識しておく必要があります。
リスクのトレードオフ、という観点から言うと、原発再稼働のリスクと再稼働しないリスクのどちらが大きいのか、にわかには分かりません。両者のハザードの種類が大きく異なるからです。
リスクを考える時は2つの要素を考えるのが基本です。それはリスクの発生する「らしさ」likelihoodとリスクが発生した時の「結果」consequenceです。自動車事故は発生する「らしさ」は高いですが、その「結果」は相対的には小さいものです。旅客機墜落は、発生する「らしさ」はまれですが、そのもたらす「結果」は甚大な結果です。
停電リスクのおきる「らしさ」は、原発事故の起きる「らしさ」よりも高いと考えるべきでしょう。しかし、停電リスクのもたらす「結果」は、こと生命リスク、健康リスクに限定して考える場合、相対的は小さいものと考えるべきでしょう(野田首相は生命・健康リスクと経済・産業リスクをごちゃごちゃに議論していますが、両者はきちんと区別して考えるべきです)。原発事故の起きる「らしさ」は停電リスクに比べて小さいですが、そのもたらす結果の大きさは、停電の比ではありません。
次に時間の要素です。停電リスクが発生した場合、その対応は比較的迅速に行えます。例えば、「やっぱり原発再稼働しなきゃ、やってられないよ」という判断も可能です。その際、ハザードはどんなに大きくても一夏の被害に抑えられ、2012年に(仮に)起きたハザードが2013年にも継続するということはありません。しかし、原発事故のハザードは時間的にはかなりイリバーシブル(非可逆的です)。2012年に(仮に)起きたハザードは、2013年も、14年も、15年も、長く長くその爪痕を残すでしょう。
自然災害、原発事故が起きないという可能性はありますし、起きるという可能性もあるでしょう。電力不足については「最大で15%」というだけで、本当にそれだけの電力不足が起きるかどうかは分かりませんし、それ以上の暑い夏が来ることだってあり得ないことではありません。
しばしば熱中症の患者が云々とか病院の電力が云々という言及もなされますが、では具体的に電力不足が起きることで何人の熱中症患者、そして熱中症による死者が出るのか、具体的な見積もりを立てた想定値をぼくは見たことがありません。細野大臣が繰り返しテレビで述べた、「万々が一の事態」といった漠たる見積もりしかそこには存在しないのです。
この問題は、双方向的なリスクの問題です。原発を動かすのもリスク、動かさないのもリスクなのです。
ただそこで「万が一にも」とか、「もし何かあった時には」とか、「なんとかの可能性は否定できない」という言葉を使っても意味がありません。なぜなら、そのようなステートメントも双方向的に働くからです。「万が一」熱中症患者が大量に発生したら、のレトリックは、「万が一」福島以上の原発事故が発生した時には、と同じレトリックです。「万が一にも」とか、「もし何かあった時には」とか、「なんとかの可能性は否定できない」は思考停止のステートメントです。そして、脅し文句でもあります。そのステートメントはいつだって完全に正しいステートメントなのですが、逆方向にもいつだって完全に正しく作用するが故に意味がありません。「かぜの患者に抗生物質を出さなくて、万が一肺炎を併発して死んだらどうするんだ。その可能性は否定できない」は正しいステートメントですが、「かぜの患者に抗生物質を出して、万が一副作用で死んだらどうするんだ。その可能性は否定できない」も100%正しいステートメントです。100%正しいステートメントが両方向に作用するのです。つまり、このような物言いをしていてもどちらが妥当な判断かは未来永劫、分かりっこないのです。
さて、野田首相はこう述べました。
「福島を襲ったような地震・津波が起こっても事故を防止できる対策と体制は整っています。これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認されています。
これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。もちろん、安全基準にこれで絶対というものはございません。最新の知見に照らして、常に見直していかなければならないというのが東京電力福島原発事故の大きな教訓の一つでございました」
「安全性を確認した結果」と首相は言いますが、その直後に「安全基準にこれで絶対というものは」ないと言います。絶対的な基準がない安全について「安全性が確認」できるわけがありません。「実質的に安全は確保されているものの、政府の安全判断の基準は暫定的なものであり」というのも形容矛盾です。暫定的なものは「確保」され得ないからです。もし、本当に安全が確保されているのであれば「政府から独立性を担保した」規制組織など不要です。政府にべったりでは安全の確保なんて不可能だ、というのが福島の事故が教えた教訓なはずです。
安全リスクの領域において、その領域がある限り、リスクをゼロにすることは理論上不可能です。だから、大飯原発の再稼働は「安全だから再稼働してもよい」ではなく、「リスクを背負った上で」「豊かで人間らしい暮らしを送るために、安価で安定した電気の存在」を選択した、ということになります。しかし、これは「福島」以前の考え方と構造的には何の変わりもありません。
「仮に計画停電を余儀なくされ、突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人も出ます。仕事が成り立たなくなってしまう人もいます。働く場がなくなってしまう人もいます」というのは正しいステートメントだとぼくは思います。しかし、首相の言葉をそのまま借りるならば「仮に原発事故が起これば、命の危険にさらされる人も出ます。仕事が成り立たなくなってしまう人もいます。働く場がなくなってしまう人もいます」と全く同じロジック、同じステートメントが可能なのです。首相の言葉は正しいですが、その正しさは双方向的な正しさであり、それが故に意味を成していません。もちろん、原発事故が再度起きれば、「豊かで人間らしい暮らし」は失われてしまう可能性は大きいでしょう、場合によっては未来永劫に、です。
大飯原発の「安全」には2種類あります。一つは、原発事故が起きないようにするという安全。これは津波に対する防波堤や、電源維持のシステムをいいます。もう一つは、原発事故が起きた時の安全確保。これはSPEEDIの活用などで、周辺住民が安全に避難できるという事後的なシステムを言います。当然、両者のシステムを備えておかねばならないのですが、「事後的なシステム」を作るということは、「原発事故は起きる」という可能性と想定を受け入れるということを意味しています。それは、自動車のシートベルトやエアバッグのような安全策です。
ぼくはそのような発想、事後的な安全対策をおく発想を健全な発想だと思います。「事故は絶対に起きない」という「福島以前」の安全神話で自分で自分に麻酔にかけたりしないほうがよいのです。
従って、野田首相や細野原発相が言っている「安全」とは「福島の時と同じ津波と地震が来ても大飯原発は大丈夫ですよ」という意味と「もし想定外の震災で原発事故が起きても、福島の時よりはましに対応して見せますよ」というダブルミーニングを持っています。これは正しい考え方です。
とはいえ、野田首相にしても細野原発相にしても、次に原発事故が起きれば、自分たちの政治生命は文字通りおしまいだという自覚はあるでしょう。いかに上手に周辺住民を避難させても、放射性物質の飛散を最小限に食い止めたとしても、です。現役の政治家としての生命だけでなく、歴史上「最も愚かしい決断を下した政治家」としての烙印を押されるのですから。
ですから、彼らの立場に立って考えるならば、本音としては、両者ともに「自分が」原発再稼働という判断を下すことを望んでいなかったと思います。リスクという観点から考えると、橋下徹大阪市長のように「再稼働なんてさせない」と叫んでいた(過去形)ほうが政治家としての人望は維持できたはずなのですから。彼らの判断はポピュリズムのそれとは真っ向から対立します。
それをさせなかったのはなんでしょう。不本意な判断をさせたのはなんでしょうか。それはもちろん、他者の圧力。いわば脅迫だったのだとぼくは思います。では、他者とは誰のことでしょう。
よく、熱中症で尊い人命が、、、なんて話がありますが、本当でしょうか。もちろん、熱中症のリスクはあるとぼくも思います。そこにウソはないでしょう。しかし、熱中症のリスク「そのもの」が本当に野田・細野たちをドライブし、原発再稼働の判断への突き動かしたのでしょうか。
熱中症のリスクについて直接コミットしているのは医療界・医学界です。では、医療界・医学界はそのために原発を再稼働すべきという公式声明を出しているでしょうか。ぼくは寡聞にして、日本医師会や、日本救急医学会、看護協会などが「熱中症対策に是非原発再稼働を」なんて主張しているのを見たことがありません。もちろん、電力維持のために原発再稼働はやむを得ないと思っている医師は多いでしょうが、それは個人的な見解を超えるものではありません。医学界、医療界全体が医療の維持のために原発再稼働を望んでいるなんて話は聞いたことがありません。
そうではないでしょう。原発再稼働を切に希望しているのは、経済界であり、福井県知事であり、おおい町長です。もしかしたら、官僚とか国防関係もこれに絡んでいるかもしれません。いずれにしても、要するに、これは「熱中症対策」云々の話がメインなのではなく、「それ以外」の問題なのです。生命・健康リスクはあくまで方便に過ぎないのです。つまりそれは福島事故以前の世界観と少しも変わりない「金の都合で安全を安売りしても構わない」という世界観なのです。
野田首相や細野原発相を無理やりプッシュしたのは、医学界、医療界なのではなく(今の医師会その他にそんな政治力ないし、、、)、あくまでも経済界、産業界なのです。原発を止めていては「日本の社会は立ちゆきません」の「社会」とは経済、産業の業界のことなのです。停電リスクが人の生命・健康リスクをはらんでいるという点にウソはありません。しかし、「だから原発は再稼働すべきだ」という野田首相の言葉はウソなのです。
「化石燃料への依存を増やして、電力価格が高騰すれば、ぎりぎりの経営を行っている小売店や中小企業、そして家庭にも影響が及びます」と首相は言います。しかし、東京電力が電力価格を「高騰」させようとした理由は原発事故そのものだったはずです。ここでも、首相のロジックは双方向的に働きます。こと「電力価格」というリスクを勘案するのであれば、原子力においても火力においてもそのリスクはゼロではないのです。
原発再稼働をする場合としない場合、どちらのリスクがより「妥当なリスク」なのかは、分かりません。2011年の電力需要では計画停電の安全リスクは許容範囲内なのは実証できました。野田首相は「それ以上の電力需要が起きた時のリスク」を想定します。であるならば、同じ根拠で「福島以上」の原発リスクも当然想定しておくべきなのです。
繰り返しますが、野田首相のステートメントがいみじくも示したように、大飯原発再稼働の問題の「リスク」は双方向的です。再稼働するもリスク、しないもリスクです。両者はその点において等価であり、どちらの選択肢をとっても「リスクゼロ」にはなりません。このことは、再稼働賛成派も反対派も理解しておく必要があります。
ぼくが大飯原発再稼働に反対なのは、停電リスクが存在しないという幻想を抱いているからではありません。そちらのリスクのほうがより妥当な修正が利くからだと思っているからです。病院で停電が問題になれば、自家発電機などの電力確保施策をとることは可能です。熱中症患者が発生すれば、水分摂取の励行など、熱中症対策をとることができます。しかし、原発事故が発生したら、そのリスクは容易にリバースすることはできません。
熱中症対策や病院の停電対策は毎年改善できますから、そのリスクは時間とともに軽減していきます。しかし、日本では毎年夏が来て、その時「猛暑」の懸念は未来永劫(氷河期かなんかが来ない限りは)続きますから、リバースし難いリスク=原発事故のリスクという切っ先は、毎日ぼくらののど元に食い込みつづけます。原発の老朽化を考えると、そのリスクは年々漸増していくと言うべきかもしれません。両者のリスクのこの特徴の違いを考えたうえで、ぼくは停電リスクのほうが「まだまし」と思うのです。リスクから目を背けず、そこから逃げず、リスクを引き受けるというやり方で、ぼくはこの問題を考えたかったのです。
最近のコメント