追悼集が届きました。ふう、なんかページをめくるたびに魂をひっくり返されるような気分です。
提出した文章をここに再掲します。
ぼくが医者になった最初のローテーションはインフェクションでした。医者になった初日、ぼくは生まれて初めての回診に挑みました。症例提示を見事にしくじり、喜舎場御大のカミナリをいただき、まったく自分は医者には向いていないな、感染症なんてもっての外だとひどく落ち込んでいました。
その後、「しようがねえなあ」というあきれ顔で指導してくださったのが遠藤先生でした。「お前な、あのプレゼンだと、尿路感染だか、胆のう炎だか、全然分からないじゃないか。あれじゃ、御大が怒るのも無理ないよ。そもそも、お腹の身体所見はだな、、、」とその後丁寧に基本的な身体診察やプレゼンテーションのことを教えていただきました。あれがすべての始まりでした。圓生の「淀五郎」で主人公を指導する中村仲蔵のように、ぼくは遠藤先生から診断プロセスの要諦を丁寧にご指導いただいたのでした。地獄に仏、とそのときは思ったものです(喜舎場先生、すみません。若気の至りです)。
最後に遠藤先生にお会いしたのは、築地のがんセンターでした。さぞお気を落としかと心配して伺ったところ、なんのなんの。楽しそうににプリンを食べておいででした。軽妙な口調で日々の出来事を楽しそうにお話になり、僕らの方があっけにとられた次第です。自分の認識の甘さを再度確認した次第。もっとも、しんどいときもしんどそうなそぶりをお見せにならない方でしたから、ぼくらに楽しそうに振舞っておいでだったのかもしれません。
沖縄でたまたま講演の仕事がある前日、椎木先生から遠藤先生の容態が悪化したとの連絡を受けました。これは是非お目にかからねば、と思っていたのですが、残念ながら今際の際には間に合わず、沖縄に向かう直前に訃報を受け取るという次第になりました。「しようがねえなあ」という遠藤先生のお声が聞こえるようです。
1997年、初めてお会いした時の遠藤先生よりもぼくは年をとってしまいました。こういうのが一番つらいです。まだまだ、至らない。全然、及ばない。
神戸大学病院の血液培養セット数は、ベッド数の少ない沖縄県立中部病院にはるかに及びません。グラム染色の活用もまだまだです。「大学病院だからしかたないよ」と言われることもありますが、ぼくはあきらめが悪いので、まだここで踏ん張っています。願わくば、遠藤先生のようにスマートに笑顔でさわやかに、このストラグルをこなしていきたいとは思っています。
遠藤先生、申し訳ございませんが、まだこれといった朗報はご報告できません。今しばし、お待ちくださいませ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。