よく言われることですが、amazonの書評はあまりあてにならないので普段はスルーしています。「私の読みたいことが書いていない」的な手前勝手なコメントが多いですから。
ただ、今回は興味深いご指摘をいただいたので、そのことにコメントします。
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ですので、鯨漁は許されるか、や、人工妊娠中絶はどうか?といった点についての主張は誠に脆くて、功利主義的立場からもカント主義的立場からも権利論的立場からも共同体主義的立場からも簡単に反論されてしまいそうです。”倫理”という点からは、なかなか評価出来ません。
一 例を挙げると、著者は『ボクシングを、健康に対してリスクが高いので反対するというのなら、モータースポーツだってマラソンだって健康に対するリスクはか なりあるので反対しなければならないはず、それはおかしい』と主張するのですが・・・なぜボクシングが反対され、モータースポーツが反対されにくいのかを 掘り下げていません。倫理学的立場から考えると、ボクシングが他のスポーツと違うのは『ボクシングは、相手の身体や脳にダメージを与えて打ち倒すことが勝 敗の核心的なルールである以上、他者への危害と不可分になっているところが他のスポーツと違う』となり、また、『お互い危害を加えあうことに同意している のならば許される』とするとリバタリアン的過激主張も認めざるを得なくなる、からだろうと思います。つまり、倫理学者の方たちから見れば、あまりに稚拙な 論が繰り出されている、と、言えるのではないでしょうか?
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ある事物が同じか、別物かは恣意性のみが規定する者です。「人間なんてみんな同じようなものさ」も「あいつと俺は全然違う」も恣意性のなせる業で、「正しさ」という観点からは反転しようがありません(逆に言えば、いつでも反論可能です)。そして、あるグループを作り、立場を作り、その党派性=イデオロギーから主張をすれば、それは(その立場からは)常に正しく、そうでないものは間違っていると判定されます。別のグループ、別の立場、別の党派性からは同じ構造で異なる反論が返ってきます。
そういうのは、もうやめませんか。というのがぼくの主張です。立場から議論して正当性を主張しても、同じ構造の切り返しがあって切りがないのだから。
だから、立場、党派性から議論するのはやめましょうよ、というぼくの意見に「功利主義的立場からもカント主義的立場からも権利論的立場からも共同体主義的立場からも簡単に反論されてしまいそうです」と言われても困ってしまいます。そういうのをやめませんか、という話なのです(ま、でも考えてみれば、たしかに反論されるでしょうねえ)。
ボクシングとモータースポーツが似たようなものか、異なるものかは「倫理学」が判定するものではなく、その人物(それがたとえ倫理学者であっても)の恣意性と価値観が規定します。たとえば、ある倫理学の学会が公式にそう表明した所で、それが「立場」の表明である以上、ことは同じです。
ボクシングとモータースポーツがちがう、という意見を否定しているのではありません。それが恣意性により「のみ」分断可能なのだ、という話をしているだけです。そして、ボクシングとモータースポーツなんて似たようなものだよ、という意見を持つ者とは、恣意性、立場的なタコ壺性からは決して相容れることがなく、論争は延々と続くだけですよ、という話なのです。
最近、過度な飲酒の社会的な損失が喫煙のそれに匹敵するという研究結果が発表されました。
喫煙にアゲインストでこれを禁じようと願う人は、同じ根拠で飲酒も禁じようと考えるのが構造的には納得理解が行くのですが、そういう流れにはなかなかなりません。喫煙の害の特殊性、、、第三者への被害(交通事故とか、乱暴狼藉など)、依存性、発ガン、ニオイなどの不快感もすべて飲酒にもアプライできます。根本的に両者を分断するのは恣意性だけだとぼくは考えます。
その恣意性「そのもの」が悪いとはぼくは思いません。ほとんどの人間は恣意性から完全に自由になれっこないですから。ただ、それが「恣意性によって規定されている」ことに気付かず、あたかも「正しい」ことを主張していると勘違いしているとき、要らぬ糾弾、罵倒が生じます。そういうのは、やめませんか、と申し上げているのです。
という話をもう少し詰めて、2冊の本を準備しています。お読みいただければうれしいです。
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