電力業界に対して、「国民、住民に対して安全だけでなく安心を提供しなければいけない」という要求があるらしい。
しかし、そもそも「安心」とは何だろうか。
安心とは、心が安まっている状態のことである。
心がもっとも安まっている状態とは、それについてまったく顧慮する必要がないという状態のことである。何にも考えなくてもよい状態。これが最良の安心だ。
昨年の福島第一原発事故前、多くの国民・住民は原子力発電や放射能について「安心」していた。白状するとぼくもそうだったが。それは、「何も考えていなかった」という意味である。
すでに知られているように、電力業界は多額の広告費を用いて我々に「安心」を与えるべく腐心してきた。それがfalse sense of securityであることは後に露見した。その電力業界に再度「国民・住民に安心を与えよ」というのは、また同じことを繰り返せ、というのに等しい。考えてみれば分かることだが、「安心」は「安全」を提供しないし、何の担保にもなっていない。
安心なんて必要ない。むしろ有害なだけである。大事なのは安全だけだ。そしてそれを認識できるのは、健全な不安感だけである。安心は安全を認識する目を曇らせる。現にぼくは曇らされてきた。311以前に。
逆である。ぼくらは常に不安であるべきだ。もちろん、過度に病的にパニックで思考停止するくらいに不安になる必要はない。陰謀論は不健全な不安がもたらすものである。陰謀は検知すべきだが、陰謀「論」は壁のシミをオバケと信じる感覚で、自分の中にしかない。それは不健全な不安感だ。
ある程度の健全な不安感をすべての事物に保っておくべきだ。原子力発電に、放射能に、電力業界に、政界に、経済界に。おかみおまかせにせず、思考停止をせず、甘いコトバに簡単に納得せず、簡単に安心しないのが311以降のぼくらの生きる道である。
安心なんて、すべきではない。程よく不安でいるべきだ。ぼくらの生きている世界は、不安に満ちているのだから。原子力、放射能に限らない。死の不安はだれにも消せない。
そして、自らの不安を健全なレベルでコントロールするよう努力すべきだ。それをやるのは「誰か他人」の仕事ではない。あくまでも自分の仕事である。
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