もうすぐ出ます。序文紹介させてください。
はじめに
私は旅や冒険が嫌いだ
これは有名な、故クロード・レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」の冒頭の文句です。しかし実際には、レヴィ=ストロースは世界各地を旅して回った人でした。ときに本業の人類学のフィールドワークのため、あるいは教鞭を握るために。
たくさんの人が旅を愛しています。一方、レヴィ=ストロースのように(彼が本音を語っていたとすれば)旅を好まない人もいるでしょう。あるいは好むと好まざるとにかかわらず、旅の多い生活をしている人もいるでしょう。レジャーのため、ビジネスのため、あるいは何かを探し当てるために。旅が性分になり、ひとところに留まることのできない人もいるようです。
法務省入国管理局「日本人出国者数」によると、2010年の日本人海外旅行者数は1,664万人。延べ人数でしょうけど、年間人口の1割以上が海外に行く時代になりました。また、多くの外国人も日本を訪れます。日本政府観光局(JNTO)「訪日外客数」によると2010年に日本を訪れた外国人は約860万人でした。私たち(監訳者)が子どもの時には外国人は珍しい存在でした。海外は遠いとおい存在でした。今は、ご近所に外国人がいることも珍しくないですし、「ちょっとそこまで」海外に行くことのできる時代です。
さて、医療者の立場から考えると、旅行は明らかな健康リスクです。普段の規則正しい生活はできませんから、どうしても体調を崩しやすくなります。慣れない食べ物でおなかを壊します。時差ボケに悩まされます。基礎疾患のある人は普段の服薬管理が困難になります。飛行機に乗れば中耳炎や深部静脈血栓のリスクが増します。機内で発病したときは、普段のような検査や治療はできません。海外特有の感染症のリスクは当然増します。旅の恥はなんとやらで、旅行中のリスク行動も増えるかもしれません。違法薬物の使用、性感染症やレイプのリスクも増すかもしれません。旅行に付随するアクティビティー、登山やダイビングも明らかな健康リスクです。生命保険に加入すると、クライマーやダイバーであるというだけで保険料は高額になったり加入を断られることもあります。これらの活動が明確な健康リスクであることの証左です。
そもそも、日本より安全な国を世界で見つけることは極めて困難です。海外に行くことは交通事故や犯罪、時にテロや戦争の危険にさらされる可能性を増やします。また、事件や事故に巻き込まれたとき、言葉や制度の壁からスムースな解決は(国内にいるときに比べると)ずっと困難です。
医療者は一般的に健康リスクを患者から排除しようと努めるのが普通です。喫煙、飲酒、睡眠不足、栄養不足に栄養過多。私たちは健康リスクの存在を暴き出し、そのリスクを指摘し、そして排除することで医療の進歩と人々の健康に貢献してきました。すくなくとも、したつもりにはなっていました。
旅行が明確な健康リスクである以上、従来の医療のパラダイムにおける医療者の患者へのアドバイスは一言です。旅行は健康に良くない。だから、旅行には行くな、、、と。
しかし実際には、このようなアドバイスはめったなことではなされません。それどころか、多くの医療者は自身がヘビーな旅行者です。学会に行ったり、医療支援に行ったり、あるいは行楽目的で多くの医療者が旅行しています。健康リスクは排除する、という従来のパラダイムはそこでは存在しないかのようです。
私たちはそのような自然な感情、医療者自身が旅行という健康リスクに寛容なことを悪いことだとは考えません。超高齢社会を達成した日本において、健康リスクを片っ端から排除する「だけ」の医療のモデルはそろそろ終わりに近づいているんじゃないかと感じているからです。リスクを片っ端から排除にかかるという信念は、医療現場に多くの肯定的なものをもたらしてきました。でも、すべてが肯定的なものというわけでもありませんでした。薬や予防接種の副作用のリスクを過度に排除しようとやっきになり、実際の疾患はほったらかしになっていたり、手術のリスクを過度に排除しようとして治療可能な手術が忌避されたりする本末転倒はその例として象徴的です。
超高齢社会の現在、私たちが試みたいのはリスクをひたすらに排除することではないと思います。それはややいびつな思考停止の一種です。もちろん、リスクを無視することも別な意味での思考停止です。
リスクは直視したい。そして、理性的にリスクを甘受したい。それこそが、まさに旅なのではないでしょうか。旅によって得られるたくさんのものは、しばしば健康リスクを負ってでもなおあまりある価値あるリスクです。
では、私たちはリスクを直視し、理性的にリスクと向き合うことができているでしょうか。よく、日本人はリスク・アボイダー(回避者)であると言われますが、必ずしもそうではありません。宝くじは払い戻し率が50%以下、つまり明らかに負け戦になる可能性が高いのにたくさんの人が(そうとしりつつ)宝くじを買っています。日本は先進国の中で喫煙率が高いですが、たばこが健康に悪いことを知らずに吸っている人はごく少数です。
日本人は諸外国の人と比べてリスクの背負い方は異なりますが、それなりにリスクを背負って生きています。だから、たくさんの旅行者が海外に行くのです。
海外旅行保険に加入する人は多いですが、それ以上の健康リスクについては多くの人が無頓着です。医療者ですら、海外旅行にまつわるリスクとその回避方法を知らないことが多いです。しかし旅行が健康リスクである以上、そして私たちが旅行そのものを排除するというオプションをとらない以上(もちろん、ある種の患者は旅行の回避を強いられることはありますが)、私たちは旅行という健康リスクといかに向き合っていくか、態度的にも学問的にももっともっとコミットしていくべきではないでしょうか。
本書は、そのために訳出されました。現在の日本人にとってあきらかな健康リスクである旅行と正面から向き合い、旅行者(ときに患者)を支援するために。
本書はトラベル・メディシンとトロピカル・メディシン(熱帯医学)のマニュアルとタイトルにあります。そのことが象徴するように、従来は旅行医学は感染症の専門家守備範囲にありました。エキゾチックな感染症であるマラリアやトリパノソーマ感染症がターゲットです。そのことは今も昔も変わりませんが、現実には旅行中の健康リスクの多くは感染症ではありません。多くの人が旅行に行きます。都会の人も田舎の人も旅行に行きます。旅行は生活に根付いた行為で、コモンな行為です。旅行にまつわる健康リスクもコモンなリスクです。ですから、私たちは本書を感染症専門医だけでなく、一般診療に携わるプライマリケア医すべてに読んでいただきたいと思っています。自分の患者が一人も旅行には行かない、、、という主治医もいるかもしれませんが、あなたの患者の多くはどこかに旅行に行っているはずなのです。あるいは行きたくてもいけないとあきらめているかもしれません。例えばあなたの糖尿病患者に海外でのインスリンの使用法を伝授してあげれば、患者の人生に一筋の光が通うことができるかもしれないでしょう?
旅行医学の要諦は旅行前の予防と旅行後のリスク・マネジメントにあります。どちらも非常にエキサイティングな営為です。旅行前、医療者は旅行者の旅行プランを詳細に伺い、そこにまつわる健康リスクを見積もり、リーズナブルにこれを回避しつつも旅行を最大限に楽しむ方法を患者と吟味します。旅行への要求とリスクへの寛容度は患者個人個人によって違います。石橋を叩いて渡るような堅牢な旅行を望む人もいれば、アドベンチャラスな冒険旅行を楽しむ人もいます。私たち医療者は彼らのニーズに寄り添い、できるだけ理にかなったリスクの受け止め方を提案します。旅行者のプランを追体験するとき、あたかも医療者自身も旅行しているような快い感覚を共有することもできます。そして万が一旅行時、旅行後に健康のリスクが生じたときは素早くそこに介入し、正しく治療します。普段の診療環境では考えないようなリスク、例えば熱帯感染症のリスクも正しく吟味し、評価し、介入するのです。
旅行医学をすでに実践されている皆様。ついに実用的で網羅的で、かつハンディな本書の日本語版が出ました。どうぞご活用ください。これから旅行者の医療にコミットしてみたいというあなた、ようこそ、素晴らしい旅行医学の世界へ!
2011年10月 美しい月夜の日本で
岩田健太郎
土井朝子
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