医学生への教育についての学生との対話
ある日、医学部6年生のA、Bがぼくを訪ねてきた。学生教育についてのアンケートを5年生に行い、その結果をフィードバックしたいというのである。
学生が主体的によりよい教育のあり方を模索するのは素晴らしいことである。これを教官にフィードバックするのもこれまた、とても素晴らしいことである。しかし、フィードバックがこれ全て耳に快いものばかりとは限らない。むしろ、耳に痛いフィードバックのほうが多いこともあるだろうし、それにそちらの方がより有用であろう。さて。
(以下は実際に行われた対話を元に作られた架空の対話である。内容にはPBLとかTBLとか、専門用語もちりばめられているけれども、注釈を付けないほうが本筋は読みやすいだろうと思いあえて解説しなかった。気にせず読み流してください)。
問題立脚型学習は、本当に問題立脚型か
学生A 「先生が行ったチーム主体学習(Team based learning, 以下TBLは学生に評価が高かったんです」
岩田「ふむふむ」
学生B 「これまでの問題立脚型学習(Problem based learning, 以下PBL)は学生がチームごとに個室に入り、バラバラにやっていました。それに担当するチューターが専門家でなかったために、議論が円滑に行われないことも問題でした」
岩田 「確かにそうだね」
学生A 「それに、問題立脚型とは名ばかりで、症例のほとんどにおいて、事前に最初から患者データが全部与えられてきました。学生は問題点がどこにあるのかを自ら模索するというよりは、(自分とは関係ない)どこかで診療された症例を映画の観客のように眺め、そこで分からない検査とかの意味を調べてくるだけでした。問題を解決するのは、結局自分ではなく、ただ他人がやっている問題解決の「注釈」をつけていただけなんですね」
学生B 「しかも、グループ学習ということで少人数のチームを作ってやるものだから、その注釈も(効率良く)分割されます。あの人はLDHとALPの意味を調べてきて、この人はガリウム・スキャンの意味を調べてきて、、、といったように。結局、課題はみんなでこなせますけど、各自は疾患の全体像を把握することができません。自分に当てられた部分だけを調べてくるからです」
岩田 「そうなんだよね。グループ学習の最大の問題点(のひとつ)は、課題をこなすことが手段に過ぎないのにいつの間にか目的化してしまうことなんだよ。発表会やレポートが体裁よくできることが目的化している。本当はそんなものはどうでもよくて、グループ学習を通じて各自がどのくらい学べたかどうかが問題なんだ。だって、将来もそのグループで患者診るわけじゃないんだから、グループのパフォーマンスが高まったってしかたがない。その時は良い気分だろうけどね。あくまでも大事なのは個人の学習成果だ。でも、PBLでデータを全部出してしまうと、そのデータの解釈だけで膨大な作業になってしまう。学生は賢いから、当然効率的にこの問題を解決しようとする。となれば、分業化するのが一番よい。すると、自分が学習してきたセグメント(部分)については詳しく理解するけれども、疾患全体を俯瞰することができなくなる。優れた学生は与えられた課題を一所懸命調べてくるけど、それは言わば重箱の隅つつきみたいなもので、マニアックな知識のマニア度合が益々深まるだけになってしまう。でも、疾患そのものの全体像はぼやけたままだ」
学生B 「PBLの教科書には{学生が主体的に学ぶように}と判で押したように書かれていますが、実際には全然主体的ではなかったんですね。決められたやり方を踏襲するだけですから」
岩田 「そうなんだ。しかも、年々学生の戦略性はソティスフィケイト(洗練)されていくから、この傾向には拍車がかかる。このようなPBLはPBLと名前がついているだけで、実際には問題立脚型でも何でもない。そこには主体性も何もない。ただただ、調べものをしてまとめてくるだけだ。グループ学習も、本当の意味でのグループ学習ではない。なるほど、みんなで円滑に作業を分担したり、ということで協調性は必要かもしれないけれど、そこには必要な丁々発止の議論がない。実際の学習活動そのものは分業しちゃってるわけだから。一人で学習する苦労をみんなで分かち合っているだけ。学習成果という観点から言えば、むしろ一人でやったほうがよいんじゃないの?とぼくは思う。みんなと協調することはここでの「目的」じゃないんだから。みんなと協調するのが悪いといってるんじゃない。でもそれは手段であって目的じゃない、少なくともPBLの目的じゃないといっているだけだ。そういうのは、クラブ活動とかバイトで涵養されるべき事項だと思うけれど?」
リアルな問いを問う
学生A 「(苦笑)さて、岩田先生の場合はそういうことはしませんでした。全員を大きな講堂に集め、36歳の男性が熱を出して、咳をしています、、、さあ、どうしますか?という感じでした。他の情報は全くなしです」
岩田 「だって、それがリアルな診療現場の姿だものね。これだとみんなで考えなきゃいけないから、分業しようがないよね」
学生A 「確かにそうですね。これがTBLのやり方なんですか」
岩田 「うーん、TBLにもいろいろな「流派」があるみたい。ぼくはぼくが一番現場にフィットするというやり方を採用している。アメリカの先生がTBLのワークショップをやったことがあったんだけど、ぼくはこの先生のやり方には感心しなかった」
学生B 「どうしてですか」
岩田 「うーん、なんか違うんだよな。仏彫って魂入れずというか、教育の専門家がテクニックだけでやってる感じで、全然生き生きとした躍動感を感じなかった。おまけにこの人はMCQ(multiple choice question)の信奉者で、選択問題に「必ず答えがある」と断言され、「正しい」選択問題の作り方を延々と教えていた。ぐだぐだ、ぐずぐず、煮え切らない医療の世界でMCQってフィットしないんだよね。少なくともぼくの趣味には合わなかったな」
学生B 「そういうのって「好き嫌い」なんですか?」
岩田「当たり前じゃない、好き嫌いだよ。教えるほうがイヤイヤやる教育のパフォーマンスがよくなると思う?生き生きと楽しく教えられなくて、どうして学ぶほうが主体的に積極的に参加できようか」
学生B 「ま、そうですね」
学生A 「では、先生流のTBLでは情報がほとんどない。当然、学生は戸惑うのですが、先生は何も教えてくれない。さあ、これからどうしますか?と問う」
学生B 「で、{検査します}と学生が言うと、{どの検査を?}と先生は答える。{血液検査を}と学生が答えると、{どの血液検査を?}(笑)」
学生A 「で、{白血球とCRP}と学生が答える。そうしたら、{なぜに、白血球とCRP?}と返ってくる(笑)」
学生B 「教えてくれないんですね」
学生A 「教えてくれないんですよ」
学生B 「常に質問が返ってきて、突き詰めていく感じですね」
岩田 「(苦笑)教えないなあ。だって、実際の診療現場だってどうやればよいかなんて誰も教えてくれないんだよ」
学生A,B (うなづく)
岩田 「伝統的に、みんながやっている検査、上の先生がああしろという検査を踏襲するという診療を今まで日本ではやってきた。「できる」研修医の証は、上の先生に言われたことを正確に遂行できる能力を持っていることだった。「どうしてそんな検査するんですか?」なんて訊こうものならかわいくない、問題児的な研修医として認識されてしまうことすらあった。そして、そういう医師が上級医になったときにどうなる?判断力とか主体性なんて雨後の筍みたいに一夜でにょきっと育つもんじゃない。「うちの医局ではこうなってる」「教授がこういっている」「学会のガイドラインにそう書いてある」と他力本願で診療することになる」
学生A, B(再び、うなづく)。
岩田 「PBLは主体性を重視する教育手法だと学者は言う。であれば、ぼくのほうから何でもかんでもフィーディングするのはおかしいじゃないか」
学生A 「そうですね。それで、情報は出さずに質問を重ねていくんですね」
岩田 「このように質問を重ねていく方法はソクラテス・メソッドなんて呼ばれるけれど、実に簡単な方法なんだ。相手が漠然と口に出していることを他人に、そして本人にももっと明確にしてやる。ぼくらがよく、Be specificという所以だ。検査します、では分からない。どの検査をするのかを明確にする。そして、どの検査をするかはっきりしたら、最後に「なぜ」そうするのかを問う。根拠を問うわけだ。どうしてそんなことをするかというと、多くの学生は(そして医者も)自分自身何故そうするのか分かっていないからだ」
学生B 「分からないけれど、思いつきと雰囲気で発言している」
岩田 「そう、そして問題なのは思いつきと雰囲気で出されたステートメントがたまたま当たっていたりすると、そのまま問題が「ちゃら」になってしまうことだ。ここで明確にしてやらないと、彼・彼女はずっと理解がないままにぼんやり、なんとなく事物をスルーしていくことになる」
学生A 「おっしゃりたいことは分かります」
岩田 「ソクラテスは「無知の知」を説いたでしょ。学生がものを知らないことは、どうでもよいんだよ。問題は、自分が分かっているところと分かっていないところの分水嶺がどこにあるのかを理解することだ。そうしたら、学生は実に感染症についてほとんど何も知らないことを学ぶ。それこそが最大の「学び」なんだよ」
学生B 「いささか、観念的ですね」
岩田 「そうだね。でも、机上の空論ではないよ。知っていることと知らないことの峻別こそがリアルな臨床現場での最大の判断基準になるんだから」
学生A 「学生に、そこまで要求しますか?」
岩田「要求しちゃ、だめですか?」
学生B 「たぶん、そういう難しいのはついてこれない人もいるんじゃないかと思うんですよね。たしかに問題解決手法としてのTBLはアンケートでも評価が高かったですが、難しすぎる、観念的だいう批判がありました」
岩田 「うん、それは認める。そういうリスクはあると思う。でも、ぼくらは学生人気ナンバー1になるために教えてるわけじゃないから。フィードバックは大切だし、拝聴しますけど、なんでもかんでも学生が刹那的にハッピーになることは目的じゃない。そういうのなら、そうだな、AKB48でも非常勤講師に呼べばみんな大喜びだよ」
学生A, B (笑)
岩田 「ぼくが学生だったときのことを振り返っても、10年以上たっても覚えている講義って、必ずしも当時楽しく聴いていた講義ではなかった。後になってきちんと評価してもらいたいとぼくは思っている」
専門性 そしてみんなで行う倍音
学生B「講堂でみんなで行った、というのはどうですか?」
岩田 「うん、TBLはteam based learningのことなんだけど、これまでグループごとに個室でやっていたPBLを講堂みたいな広いところで一堂に会してやりましょう、というものです」
学生A 「はい」
岩田 「定型的には、TBLの利点は少ない教官、そして専門性のある教官がまとめてPBLを行うことができる点にある」
学生A 「はい」
岩田 「なんでもそうだけど、学問の叡知ってそんなにシラバスや教科書をさらっと読んで体得できるものではないと思う。他人に教えるのであれば、なおさらだ」
学生B「ええ」
岩田 「もちろん、チューターはたとえ感染症が専門でなくても、みんな医者だから、頭はいい。事前に予習しておけば事物的なことは教えることができるだろう。市中肺炎の最大の原因菌は?緑膿菌に対する抗菌薬は?とかね」
学生A 「そうですね」
岩田 「でも、それは感染症学を教えたことにはならない。ぼくはそう思う。メジャー(計測)可能な事後テストなんかでは差がつかないかもしれない。でも、絶対に違う。そういうのは教えたことにはならない。世界観というか、息吹というか、その後ろにあるもの、目に見えないもの、簡単には測定できないものが伝わらない。それは、ぼくが師匠に教えてもらったときの息吹だ。魂のこもっていない仏というか、ただ読んでいるだけの論語というか、、、」
学生B 「うーん、分かるような、分からないような」
岩田「そうかもしれない。ぼくもうまく伝えられている自信がない。でも、PBLの最大の問題点の一つは素人がプロの学問を教えることができる、という幻想を与えてしまったことだとぼくは思う。それはある種の学問に対する冒涜なんだけどね。ぼくが慢性硬膜下血腫のマネジメントについて学生についてチューターやるとしようか」
学生A 「突然、なんですか?」
岩田 「たぶん、ぼくは躊躇すると思う。マンコウ(慢性硬膜下血腫の略)はそりゃ、ぼくも疾患概念は知っているよ。疫学や診断法、治療法もちょっと本を読めばすぐに分かるだろう。ハード・データを学生に伝えることも不可能ではない。でも、脳外科の先生が教えるのとは全然違うやり方でないと、ぼくには教えられないと思う。本当に大事なことは伝えられないと思う。そこに、ためらいが生じる、、、プロに対するリスペクトがあれば、そう思うはずだ」
学生B 「なるほど」
岩田 「グループ学習の最大の利点は空気なんだよ。みんなでやってやるぜっていう雰囲気が一人でいるときに気付かない活力を生むのさ。でも、チューターはその息吹を与えられない。狭い空間の中で、学生の資質や組み合わせにもよるけどなんとなくしらけた感じになること、あるでしょ」
学生B 「ありますね」
岩田 「ああいうのを、もっと盛り上げようと思うと空気が大事なんだよ。息吹というか。ぼくはプロの言葉でもってそれを伝えたかった」
学生B 「非専門家ではそのようなライブリーなセッションは難しいと」
岩田 「やっぱりチューターは自分の教えたいことを教えたいし、そういうときは人間「前のめり」になる。前のめりになっていない人間からは、魂のこもった言葉は出てこない。まあ、たとえ教育熱心で一所懸命にPBLをやりたいという教官でも、自分の知らない領域については腰が引けるよね。ぼくなら、ひける。教えられないことを教える後ろめたさに、とてもじゃないけど「前のめり」にはなれない。知らないことを知ったかぶって吹聴する人は教育者としてはどうかなあ、と思う。それが専門性への敬意というものだ。さて、「ひいてしまう」と、言葉に魂なんて乗りっこない。魂の乗っていない言葉には教育効果がないとぼくは思うわけ。教育って結局人だからさ。だから、非専門家がお手盛りで学生をだまくらかす感じでやるチュートリアルにはぼくはどうしても納得いかなかった」
学生B 「それで、一堂会してのTBLですか」
岩田 「うん、一人でみんなを相手にすれば、専門家のマンパワーでできるからね。原理的には1人でできる。各グループが講堂であちこち集まって一斉に課題を与えればよい。でも、それだけじゃない。会場の空気は増幅される。隣のグループの熱気が伝わると、こちらのグループにも熱気が伝染する。空気って大事だからさ。もちろん、PBLでも熱心に勉強することは可能だけど、しらけちゃう場合もあるじゃない。そういうのを、周りの雰囲気で防ぎたかったんだ」
学生A 「はい」
岩田 「隣のグループの議論に火がついて盛り上がると、こっちも盛り上がるもんね」
学生A 「そうですか」
岩田 「従来のPBLみたいに、やっぱり狭い部屋に少人数で閉じこめられて話し合いをしても、なかなか盛り上がらない、見てると。もともと多くの学生はノリノリで参加しているわけではなく、カリキュラムで参加させられているんだから。そこに知識の上でも意欲の上でも決してノリノリでないチューターがスーパーバイズしてもどうしても盛り上がらない。お手盛りの、仕事だからやってるという感じになる。実際、チューターの人に話を聞くと、忙しい朝の時間をとられて、面倒くさいんだけど命令されたからやる、という感想が多いもの。そんな後ろ向きの空気が狭い空気に充満しちゃうんだよね」
学生B 「なるほど」
岩田 「以前から、個室でやるワークショップと大きな部屋でグループに分かれてやるのとでは違うと思ってたんだ。なんていうのかな、、、そう、倍音。声が重なりあって何とも言えない雰囲気を作るんだよ。でも、こういう「場の雰囲気」とかなかなか数値化できないし、体感してみないと伝わらない」
反省を重ねること
岩田 「、、、、ただね」
学生A 「どうしました?」
岩田 「今回初めてやってみて思ったんだけど、ちょっと失敗したな、とは感じている。そこは反省だな」
学生A 「というと?」
岩田「なんていうのか、、、こちらの熱意が空回りして、ちょっと引いちゃった人もいると思うんだよね」
学生A 「(苦笑)そうですねえ」
岩田 「熱意は必要なんだよ。だけど、あまりこちらが熱を込めすぎると空回りしてしまう。周りはどんびきしてしまう。女の子口説くときと一緒だよな。熱意はセーブしてじわりと出さなきゃいけないんだ。それは分かっているんだけど、初めてのことで、たくさんの学生を相手にしているときに、それを微調整し続けるのって結構大変なんだよね」
学生B 「先生、いつも熱いですモンネ」
岩田 「熱いのは構わないんだ。クールな教育なんてありえない。でも、我を忘れてしまってはだめだ。ぼくは忘我ではないんだけれど、それでも全体像の中でぼくが今何をしゃべっているかどうかということについて俯瞰しながら教育は進められなかった。全体像が見えにくかったんだね。そこは反省だよ」
学生A 「みんなが最初からモチベーションを高く持っているとは限りませんからね」
岩田 「うん、というかむしろ持っていない人が混じっているのが当たり前だと思う。そのことは、いいんだ。問題は、そういう人がいるという前提をどうするか、だ」
学生B 「よく分かりません」
岩田 「んとね、従来の小グループ型のPBLだと、やる気がない学生であってもあまり露骨に反社会的というか、協調できないと孤立しちゃうでしょ。だから、仕方なく最低限のノルマは協力するよね」
学生B 「そうですね」
岩田 「でも、すでに指摘したように、それはグループ学習という名の分業を肩代わりするだけだ。セグメントしか学んでいないから、学習成果は小さいでしょ」
学生B 「確かにそうだと思います」
岩田 「で、しかもプロダクツはきちんとできるから、ちゃんと評価はされるわけです」
学生B 「でも、チューターはセッション中の態度とかも見てるじゃないですか」
岩田 「今日日の学生は、昔と違って空気も読めるしある程度周りと折り合いをつけるのが上手な人が多いじゃない。露骨にグループを乱すようなことはしないさ。最低限のノルマはこなし、そつのない発言をひとつ、ふたつすればそれで十分じゃない。最高の評価は得られないかもしれないけれど、留年することもない」
学生B 「確かに」
岩田 「それに、考えてごらんよ。PBLの最大の利点は何だったっけ?」
学生A 「それは学生が主体的に学ぶこと、、、あ!」
岩田 「ほらね、小グループの定型的なPBLでは、主体的に学ばなくても大丈夫なんだよ、別に。すごくパッシブにやっていてもなんとなーく、スルーできるんだ」
学生B 「そうですね。そこは問題だと思います」
岩田 「ぼくがやったTBLだと、分業ができないように漠然たる問題、もっとビッグ・ピクチャーを問う問題だ。本当に議論するか、しないしかない」
学生A 「でも、その方法で主体性を担保することはできませんよね。参加しない、というオプションもありますから」
岩田 「うん、そうだと思う。もちろん、参加しなければグループの他のメンバーはちょっといやな気分になるかもしれないけれど、まあやろうと思えば、そういうことはできなくは、ない。かといって、各メンバーのタスクを平等に振り分けるような作業をすると、そこで参加者の主体性は失われる。ジレンマだよね」
学生B 「では、どうすればよいのでしょうか」
岩田 「これは仮説だけどね。学生の主体性を教え手が涵養することって不可能だと思うんだ。馬を水飲み場に引っ張ることはできても、水を飲ませることはできないって言うじゃない」
学生A 「そうなんでしょうか」
岩田 「実は、そこのところはぼくにはまだ分かっていない。これってぼくの長年の疑問であり、テーマでもあるんだよ。人は主体性を教えることができるか?」
学生B 「ふーむ」
系統講義は必要か?
学生A 「学生へのアンケート結果では、今回のTBLは積極的に参加できて面白かったという意見も多かったです。その一方で、系統講義がなかったのでどうやっていいのか分からないという意見もありました」
岩田 「そういう意見は知っているよ。5年生のベッド・サイド実習(Bedside learning, BSL)でも感染症内科は系統講義が少ないって批判が多かったからな」
学生A 「系統講義をやったらもっとみんなの満足度も上がると思うんですが」
岩田 「そうかもしれない。確かにそうなんだよね。でもね、ぼくの中にはその考えにわだかまりがあるんだよ」
学生B 「どうしてでしょう」
岩田 「だってさ、4年生のPBL(あるいはTBL)は臨床現場に立ったときに問題解決型のアプローチができるため、主体的に患者から問題を抽出して解決するための机上のシミュレーションだろ」
学生A 「そうです」
岩田 「でもってさ、5年生のBSLはPBLで得たノウハウを現場で生かす実習の場じゃないか」
学生B 「その通りです」
岩田 「ところが、従来型のPBLは全然問題解決型ではなかった。症例を提示して分からない用語をみんなで分担して調べるだけだ」
学生A 「そうですね」
岩田 「さて、ぼくはTBLで毎日1症例を学生に提示した。最初は主訴だけ。そこから何をするかを話しあってもらい、議論が煮詰まったところでさらに情報を流す。ちびちびと流す。そうすることで、どんな問診をしたいか、どんな診察がしたいか、どんなアセスメントをもつか、そしてどんな検査をするか自分たちで考えてもらおうと思ったんだ」
学生B 「はい」
岩田 「でね、もしこれに系統講義を入れるとするじゃない。系統講義っていうのはこっちが教えることをそのまま受け入れて飲み込むだけの営為じゃない。主体性をもって学ぶというTBLにどうして系統講義を入れなきゃいけないわけ?」
学生A 「ただ、何も教えないと学生もどうしていいのか分からないですから」
岩田 「うん、その分からないところからどうすればよいのかを一所懸命考えるわけじゃない」
学生B 「まあ、確かに」
岩田 「別に間違えたっていいんだよ。いきなりストレートに正解にたどり着こうとするから、講義が必要になる。ぼくが思うに、それじゃだめで、失敗を繰り返しながら正解を模索するという勉強の仕方が必要だと思うんだ」
学生A 「うーん」
岩田 「確かにね、全ての臨床医療がこのような問題立脚型、つまりPBLとかTBLと呼ばれるもので教えるべきではないことはぼくにも分かっている。特に外科系はそうだ。外傷の患者がいます。さあ、どうしましょう。こんなのみんなで考えたって仕方がない。教官が適切で最新の、カッティングエッジな治療法を伝授したほうが効率が良いに決まっている。問題立脚型にフィットする命題とフィットしない命題は、ある」
学生B 「だからK大学では特に外科系のPBLを廃止して系統講義に変えましたよね」
岩田 「現場の空気にフィットしないやり方は止めたほうがいいんだ。教えているプロが教えにくいって言ってんだから」
学生A 「では、感染症でも系統講義をやっては」
岩田 「感染症はちょっと違う。みんなにはもうこの話はしたと思うけれど、内科領域で一番知識ベースの量が多いのが感染症だ。たった1週間しかないTBLの時間をどこまで割いても感染症について教えることなんてできないし、その必要はない」
学生A 「うーん」
岩田 「ぼくが学生の時代にはまだ土曜日も講義をやっていたんだ。それが授業数がどんどん減っている。医学知識は指数関数的に増える一方だ。この逆説はいかんともしがたい。しかも、最新の医学知識も10年も経てばオブソリートに、時代遅れで役に立たない知識になる」
学生B 「はあ」
岩田 「昔の医学は暗記詰め込みでよかったんだ。数学とか文学と違って、医学は暗記物と考えられてきた。今でもそう思っている人はいる。たくさんの知識を正確に迅速に詰め込み、正確に迅速に吐き出すことができるのが優秀な医学生と考えられてきた。鵜飼の鵜みたいなものだな。それは、受験勉強のスタイルにちょっと似ているから、偏差値の高い医学部の学生にはとても親和性が高い。とても心地いいんだよ。多くの医学生にとって、こういう丸暗記タイプの勉強は。しかも、医学部は他学部と異なり卒業論文やゼミがないから、議論をしたり考える時間、自分の考えをまとめて、他人に分かってもらえるように発表する時間があまりない。レポートを書かせても、誰かが書いたものの引き写しになりがちなのは、そのためだ」
学生B 「そうでしょうか」
岩田 「うん。与えられた教育をそのまま飲み込んで掃き出す能力の高さは、そのままイコールではないにしても試験の強さと関係しているとぼくは思う。医者、法律関係者、中央官僚なんかはこの能力が高い。ただ、自分で工夫して問題を解決したり、答えのないところに活路を見いだすような能力は必ずしも高くない。主体的に考え、主体的に行動するようどこかで促さないといけない」
学生B 「そうかもしれませんね」
岩田 「医学部の授業ではそれは難しいし、実習だってほとんどは決められたプロトコルを踏襲しているだけだから、決して主体性とは絡みにくい。PBLも形骸化している。BSLも多くの診療科では病院見学と授業をミックスしている。学生が授業をやってくれと要求するからだ。でも、そういう医学生に患者について質問すると全然答えられない。ベッドサイドに張り付いて患者と話をしていないからだ。患者がどこに住んでいるどういう人で、今何に苦しんでいるか、全く分からない。ぼくは病気については学生は全然シランデよいけど、自分が担当した患者については誰よりも詳しくなっていなさいとオリエンテーションで必ず言っている。でも、できない。そのうえ、系統講義をやってくれという。本末転倒じゃないかい?」
学生A 「そうでしょうか」
岩田 「ぼくは高校までの勉強と大学生の勉強は違うと思っている。1年生に医学概論の授業をやってるんだよ」
学生B 「そうなんですか」
岩田 「うん、君たちが1年生の時はぼく、いなかったものね。そこで、訊くのさ。高校生の勉強と、大学生の勉強ってどう違うのって。考えてもらい、発言してもらう」
学生B 「はい」
岩田 「みんな、大学生になったばかりでフレッシュな気分でいるから、ちゃんと考えてくれるよ。そして、多くの学生は分かっている。高校生までの勉強がパッシブに学び、大学生になったら主体的に勉強しなければならないと。自分で疑問を持ち、自分で学習課題を持ち、問題を自ら解決していかねばならないと」
学生A 「なるほど」
岩田 「それは、高校生までの勉強を否定しているわけじゃあ、ないんだよ。なんにだって基本は必要だ。手習い的な要素はある。研修医にも問題解決をさせるけど、かといって採血チューブがどこにあるか、考えてみてごらん、なんて言わないさ。それはここにあるよ、とかあのナースは怖いから気をつけろよ、とか教えてあげるさ。学問をやる上での基礎体力となる高校生までは、きっちり教え、それを咀嚼するようなやり方でよいとぼくは思う。もっとも、ぼくは子どもの時からひねくれていたから、そういう勉強の仕方が苦手だったけれどね。高校生までは真っ白なキャンパスなんだから、色を塗ってあげるのは先生の大事な仕事だし、小中高の先生って本当に難しい仕事をしているなあ、ってぼくはいつも感心している。もっとも、日本の場合、もうちょっと自分で考えるチャンスも子どもに与えて欲しいけれどね」
学生A 「でも、いずれにしてもTBLのとき系統講義もあったほうがよいと思いますよ。基本的な考え方とか、読むべき教科書とか」
岩田 「そうかなあ。教科書なんていろいろ試してみて、自分が一番気に入ったのを使えばよいのに。万人にフィットする本なんてないんだけどな。まあ、確かにパッシブな勉強から主体的な勉強の過渡期って言うところもあるからな。急に全部変えるというのも無理かもしれないけれど」
学生A 「モデルとなる教科書はないと?」
岩田 「いや、個々によってどれをモデルにするかは異なるってことさ。ぼくは以前マンガで学ぶ感染症の本を書いたんだけど、あれは感染症なんて全然興味ありません、っていう学生や医者をターゲットにして書いた。だから、感染症の好きな人から「物足りない」とかいう書評もいただいたけど当たり前だ。感染症が好きな人は青木(眞)先生の「レジデント・マニュアル」を読めばいいんだもの。でも、青木先生の本は情報量が充実しているけどあの分厚い本を勉強したくないぜっていう学生・医師が読むわけないじゃん。そういう人も感染症にはかかわりあう。感染症と無縁で臨床やるなんて不可能だからね。だから、どんなにやる気がない人でも読破できるような形でマンガを作ったんだよね」
学生A 「なるほど」
岩田「さて、このマンガは感染症を一所懸命勉強している人には「うざい本」だ。ぼくもそれには賛同する。だから、読まなくてもよい。一方、感染症に興味のない人には、青木先生の「マニュアル」は豚に真珠だ。でも、そういう人でも読める本は必要だ。ほら、学生全部に推奨図書を作っても仕方ないでしょ」
学生B 「まあ、それはそうですが」
学生A 「いずれにしても、系統講義はあったほうがよいと思います」
岩田 「分かったよ。来年は少しは、入れるさ(しぶしぶ)」
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