その卵の中ではヒナが悩んでいた。
このカラを破って世の中に出ていくべきかどうか。
出ていくほどの世界かどうか
卵からはじまる5つの童話。なんとも言葉の使い方が恐ろしい。ダークな村上春樹という感じだ。こういう本は黙読よりも音読の方が味わえる。全部つながっている。ハゲタカも、コウノトリも。
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・24歳看護師。昨日から熱、咽が痛い。体の節々が痛い。迅速インフル陰性
「インフルエンザです。仕事休んでください。師長さんにもそういって。タミフル飲みますか?」
「でも検査は陰性でした」
「ぼくがインフルエンザと言えば、それはインフルエンザなんです」
・33歳男性。昨日から(以下同文)。うつ病の既往(?)であれやこれやの薬を飲んでいる。迅速インフル陽性
「いろいろ薬を飲んでるみたいなので、リレンザという吸う薬にしましょう。めんどうくさい?じゃ、イナビルという面倒くさくない薬にしましょう」
・16歳女性。以下同文。
「タミフルはあまり飲みたくない?じゃ、麻黄湯という薬をお湯に溶かしてインスタントコーヒーみたいに飲んでください」
・17歳男性。ペインコントロールのために入院予定。インフル陽性。漢方薬ふくめ、いろいろ薬飲んでいる。
「漢方薬もすでに飲んでいるし、リレンザという薬にしましょう」
・24歳女性。37℃の熱。筋肉痛。子どもがインフル。治療中。元気
「インフルエンザかもしれないけど、元気そうだしどうせ自然に治るからそのまま様子見ましょう」
・34歳男性。急性肺炎にて入院、挿管、ICUへ。痰から黄色ブドウ球菌。迅速インフル陰性
「インフルエンザはPCRを依頼して、ラピアクタを継続、抗菌薬ももちろん」
てな感じです。詳細、行間、文脈は割愛しますので、学生さんはその辺を考えてみてください。
投稿情報: 09:06 カテゴリー: 感染検査の考え方、使い方 間違いだらけの検査選び | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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投稿情報: 08:25 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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カリフォルニアの親戚、という言葉がある。患者や毎日のように付き添っている家族とは人間関係をとりやすい。ナースやドクターの悩みや苦悩も分かち合えるから、お互いに「同じ方向を向いて」診療できる。ところが、遠くからたまにしかやってこない親戚は空気が読めず、いきなり対決モード。居丈高になって「おまえら、ちゃんとしてるんだろうな、訴えるぞ!」とがなり立てるのである。
内的な「カリフォルニアの親戚」も恐ろしい。コンサルタントやっていて、毎日患者を診ている担当医は感染症屋が毎日どのように悩みながら薬を調整しているか理解している。目標は主治医もコンサルタントも同じ。患者のウェルネスである。ところが、たまにしかやってこないヤンゴトナキ偉い先生が「なんでこんなことやってるんだ!CRPが高かったらカルバペネムに決まってるじゃないか!おれたちの若い頃は当然そうだったぞ、きーーー!」と居丈高になって、、以下同文。
別に自分の専門領域以外のことで常にカッティングエッジな最新の知識を備えておくべき、と主張しているわけではない。上の立場に立てば毎日あれやこれやで忙しい(研修医の時は「なんで俺ばっかりこんな雑務を、、、」と思っておいでだと思いますが、その思いは年々増しこそすれ減らないのです)。全てにおいて全てを知っているなんて幻想は、もはや抱けない。
自分が研修医の時とはプラクティスもどんどん変わる。ぼくが研修医のころは胸水を抜くときも中心静脈ラインを入れるときも超音波なんて使わなかった最後の世代だ。しかし、「おれたちの若い頃はこうだった」は今もそれを追随する根拠にはなりはしない。
感染症屋は毎日他科の先生の領域外の原疾患と向かい合うから、専門外の患者がどんどん増える。知らない薬や治療法、検査法にも直面する。自分の「常識」がどこまで常識のままで、どこからが今や非常識なのかは、常に検証し続けなければならない。大切なのは、自分の知らないことは知らないこと、と知の境界線をちゃんと引いておくこと。自分の若かりしころの経験なんて、この進歩の早い医学の世界ではなんの原資にもならん。
たまにしか回診しないトップの人たちは、その辺に自覚的になっておく必要がある。回診は自分の叡知を提供する価値ある時間なのか、単にチームを引っかき回して混乱させているだけなのかはよく考えておくべきだ。それでなくても年をとるごとに頭は固くなり、そして周囲はあなたに(面と向かっては)文句を言わなくなるのだから。
こういう困ったクソジ、、、いや、おじさまたちの特徴は、
1.自分の無知に無自覚
2.人の話を聞かない
3.自己の経験に過度に依存する
4.all of the above
さらにひどいのは、患者の利益よりも自己や自己組織の利益を優先させるマリグナントな連中である。かつて感染症の専門家が介入するといけない、という理由で自分の病棟患者が発熱しても「血液培養を禁じていた」シニアのドクターがいたが、こういう患者を苦しめても自己利益を優先させる輩は、医者である資格がない。
神戸大学病院は土地柄のせいか歴史のせいか、よそ者に寛容だし新しいコンセプトにも寛容だ。とてもやりやすい良い病院である。変に歴史が古くてプライドの高いところだと、もっともっと苦労が多いんだろうな。みなさん、ご苦労様です。
投稿情報: 08:34 カテゴリー: 医学教育 | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
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わがまま言って買っちまった。だってバラバラに見ていると話分かんなくなるんだもん。それにしても、ぼくの場合、文楽や歌舞伎の忠臣蔵から入るんじゃなくて「淀五郎」(圓生)「四段目」(志ん朝)「中村仲蔵」(正蔵、、、先代の)からです、、、おかしいですね。
投稿情報: 16:57 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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投稿情報: 14:20 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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元のはこっちにあります。まあ、受験の時の内申書みたいなものでオーバーステートメントになっていると思いますが、どうぞごらんくださいませ。
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/603671.html
「現場の人」の共通点
こんなことを言うと怒り出す人が多いと思うけれど、この数年(いや、もっとかな)、知り合って知的な興奮を覚えた相手は全員「理系の人」である。文系の学者としゃべって、わくわくするという経験は絶えて久しくない。 岩田健太郎さんはそのような「理系の人」の一人である。彼は人の話を聴くとき、まず「うなずく」。これは「現場の人」の共通点である。うなずいて、それから考え始める。現場では前代未聞の事態が次々起こるからである。マニュアルに従って、メカニカルに処理する人間は危機に適切に対応できない。だから、「現場の人」はなにごとにつけ予断を持たない訓練を受けている。 僕が何か岩田さんによく理解できないこと(単に非論理的なだけでそうである可能性も多々あるが)を口走っても、岩田さんはまずうなずいて静かに「そうですね」と言う。それから僕の発言について吟味を始める。内容の正否にかかわらず。すでに僕の発した言葉は否定しがたい現実として彼の前に投げ出されている。これを何とかしなくてはならない。医者が「そんな病気が存在するはずがない」という理由で診療を拒否することができないのと同じである。僕はこのような構えを取れる人をほんとうのリアリストだと思っている。 本書では「感染症屋」であるところの岩田先生が(こういう「ナントカ屋」という名乗りは「現場の人」の徴である)日本の医療の直面している諸問題を静かに「そうですね」と受け容れながら、懇切に吟味している。「あるべき医療」についての理想像があらかじめ用意されていて、それに基づいて個々の事例の適否を判定しているわけではない。現場はつねに「待ったなし」である。「最高の医療をするから待ってなさい」と言っている間に患者が死ぬこともある。だから、手元にある資源でやりくりするしかない。焼酎で消毒し、ホッチキスで傷口を縫合し、薪ざっぽうとガムテープで副え木を作るような臨機応変が現場の医療の骨法である。治療者も病院や医学教育のシステムも、患者のマインドも、メディアの医療報道も「ありもの」を使い回し、そこから最高のパフォーマンスを引き出すしかない。どれほど医療環境が劣悪でも、「これじゃ治療はできない」とプロは言わない。岩田さんは大学病院という、彼に与えられた現場についてこう書いている。 「僕ってなんて幸せなんでしょう。/このような逆風の中で診療をしなければならない感染症屋は世界にそんなにたくさんはいません。」(198頁) 最高のパフォーマンスをするためにはいつだって「機嫌のいい人間」でなければならない。それが「現場の人」の骨法である。僕が理系の、先端的な仕事をしている人が好きなのは、彼らが劣悪な条件下でも、決然と上機嫌だからである。 (うちだ・たつる 神戸女学院大学教授)
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投稿情報: 11:30 | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
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そうそう、学びといえば、忘れられない学びの経験がある。この話は講演とか学生実習でもよく出すけれど、ここに紹介しておきたい。
5年生の夏休みである。厚労省は初めての学生の学外臨床実習制度というのを作った(正式名忘れた)。ただ、例によって中身は伴っておらず、施設のリストを作っただけのプアな代物であった。僕は夏休みに自分のうつうつとした若いエネルギーをどう振り回したらよいか分からず、とりあえずリストからランダムに東北のとある病院を選んで実習先とした。東北にしたのは、そこを旅したことがなかったから、というスケベ心丸出しの理由であった。青春18切符で長い旅をして、その病院に行った。
いったものの、そこの内科部長の先生も学外の学生を受け入れるのは初めてで、「さて、どんな実習をしてもらおうか」と困ってしまった。あれやこれやの臨床実習に加え、その先生のアイディア(たぶん思いつき)で、僕は1週間、コメディカルについて回るという経験をする。月曜日は看護師、火曜日は薬剤師、水曜日は検査技師、木曜日はPT、、、みたいなローテートだ。
そのとき、回るたびに医学生の僕に浴びせられたのは延々と続く怨嗟の声であった。医者は何にも理解していない、まったく愚かである、なんでこんなバカなことをやるの?という八つ当たりが毎日僕に浴びせられた。1990年代のことで、医者に直接たてつくコメディカルは珍しい時代である(今でも遠慮は大きい)。将来一緒に働く可能性はきわめて小さい島根の医学生にその恨みつらみが寄せられる。また、ナースの仕事、薬剤師の仕事、ひとつひとつがどのように動いているのか、直に目の当たりにできたのは貴重であった。ナースの仕事なんて医者は見ているようで全然見ていないものだ。薬剤師や検査技師になると、たいていの医者にとってはブラックボックスである。
あれから20年近く経つが、今でもあの貴重な実習のことは忘れられない。たった1週間のことであるが、僕は医師がコメディカルの業務にどれだけ無理解か、その声に耳を傾けていなかったか、そしてコメディカルがそのことをどれだけ苦痛に思っていたのかを、かなり真剣に考えさせられたのである。
21世紀の今、コメディカルは当時ほどサイレントではない。医師もそこまで傍若無人でもない(たぶん)。けれども、コメディカルの思いや仕事について僕らの計り知れない部分があるという自覚は必要だ。知らないことを知るとはそういうことである。そのために必要だったのはたったの1週間であった。
投稿情報: 10:19 カテゴリー: 医学教育 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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スーパーローテートの初期研修制度を僕は高く評価している。しかし、スーパーローテートにしさえすればうまくいくというものではない。当然のことだ。医学教育は、いやすべての教育は多様で複雑である。あるxという1ファクターが全ての諸悪の根源だったり、逆に全てのウェルネスの保証になるなんてファンタジーはあり得ない。
○ヶ月の研修では時間がなさすぎて教えられない、という指導医はたくさんいる。僕はそう主張する指導医たちと何百回も(literally)お話してきた。
問題の根っこにあるのは、「こうでなければいけない」という思い込みである。
もちろん、教育における熱意はエネルギーの源泉である。熱意のない教育はありえない。しかし、熱意は思い込みの母でもある。クールな視点もまた必要であり、教育くらい「思い入れ」が「思い込み」に転じやすいフィールドはないのである(あ、これも思い込みか)。
一番多い思い込みは、かつて○年間で教えていたことを○ヶ月に圧縮しなければ、という思い込みである。そんなの無理に決まっている。
昔僕が医学生だったとき、土曜日にあった授業がなくなって授業数が激減したことがあった。「この授業数では教えられない!」と多くの教官が激怒した。ある教官はしゃべるスピードを上げて早送りにした。少ない時間で同じパフォーマンスを示すのは(最初が怠惰でない限り)無理で、無限に広がる医学知識の、どの辺をデリバリーすべきか、根底から考え直さねばならなかったのであるが、思い込みが「これを教えなければ教育じゃない」と強迫させたのである。その割に、授業内容は自分のだした論文の解説(自慢)だったりして、僕ら学生はけっこう白けたのだけれど。
1分時間があれば、1分で教えられることを教えればよい。1時間あれば、1時間かけて教えることを教える。最初からできない、と放り投げてしまったら、思考停止である。与えられたリソースをいかに使いこなすか、というコンセプトはそもそもリソースプアな日本の臨床現場の得意技ではないか。
1ヶ月の研修では何も学べないと主張する指導医も、数日の学術集会やワークショップには参加する。1時間しかない講演を聴く。これじゃカケラほども学べないか?もちろん、そんなことはない。1ヶ月の精神科実習で精神科の全てをマスターできるか?できるわけがないし、する必要もない。彼らはあなたの弟子ではなく、精神科領域のマスター(あなたの分身)を目指しているわけではない。精神科医の視点を合わせ持つ内科医や外科医になるのである。10年経っても1ヶ月の精神科実習は無駄にはならない。精神科経験ゼロよりもはるかに大きな財産である。少なくとも、そういう視点から有効に実習すれば、である。
僕が受けた3ヶ月の外科研修、2ヶ月の産婦人科研修、1ヶ月の麻酔科研修、5ヶ月の小児科研修、6ヶ月の集中治療、1年の救急はいずれも今でも大きな財産である。3ヶ月の外科実習で学ぶ最大の学びは、「俺は外科学のことが何にも分かっていない」という自覚である。この自覚がないと、無知である自覚すらないまま、外科医の悪口を言うような内科医になってしまう(こともある)。無知の無自覚くらい恐ろしい無知はない。
だから、うちの感染症内科は学生でも研修医でも、それぞれのニーズに合わせて歓迎する。1日なら1日、1週間なら1週間、3ヶ月なら3ヶ月の学びがある。その期間の勉強では彼らは感染症のプロにはとうていなれないが、「感染症診療はかくも難しい」ことは体感、納得くださるだろう。3ヶ月研修生は亀田時代からたくさん見てきたが、「ああ、感染症についてはよく理解しました」と去っていく医師はまだ見たことがない。その先に果てしない広い世界が(僕もまだ見たことがない地平が)広がっていることを自覚するからである。それが成長というものである。全くうちの診療を見たことがない人よりは、はるかに大きく成長してくださる。
前提を疑うことは、科学の大きな属性のひとつだ。医学においても例外ではない。前提を疑う。思い込みから自由になる。これを学ぶという。学ばない指導医がどうして研修医を教えられようか。
投稿情報: 10:02 カテゴリー: 医学教育 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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