感染症学会の地方会が11月にある。東日本は締め切ったが、中日本と西日本はまだ募集している。
http://www.jsidc53.org/
http://www.med-gakkai.org/jaid-w80/endai/
化療学会も西日本は空いている。
http://www.med.oita-u.ac.jp/jscw58/theme/
地方会の症例報告は研修医の「発表する経験の場」として設けられている感がある。でも「こんな病気見ちゃいました」的な珍しい病気、珍しいばい菌品評会ではつまらない。むしろ症例報告こそ真剣に論考する場としたい。
最近思うのだけど、症例報告は一種の質的研究である。これは質的研究に慣れ、その定型性にどっぷり浸かった人には受け入れられないアイディアかもしれないが、「量的ではないアプローチが質的研究」であることを考えれば、そういう見方はありなんじゃないか。
昔の学術誌を読むと、一症例一症例をよくよく観察して、記載する「観察的学問」をよくやっているなあ、と思う。現象をそのまま切り取って観察しようという目的が明快である。最近の症例報告はその辺が弱い。case reportは多くの場合字数制限が普通論文よりも厳しいが、そう言うところが質的研究としての症例報告の面白味を消してしまっている。
今も一つ症例報告を書いているが、なかなか面白い作業である。不明熱のケースレポートだ。不明熱とはコモンな現象であるが、なにしろ「医者ががんばっても原因が突き止められない」のが不明熱の定義である以上、その原因はコモンでない事が多い。「コモンな現象だが、原因はバラバラでまれ」なのだ。したがって、量的なアプローチだけではこの現象を上手く切り取れない。ケースレポートにする価値の高いカテゴリーである。
僕の英語力では本を書いたりするのはむずかしいので、せいぜい論文を書くのが一番の英語作文の営為となる。単語を吟味し、表現を吟味して、文章を推敲するのは実に楽しい作業だ。そのなかで、ケースの構造を吟味していく。日本語だと何となく雰囲気で通してしまえそうなところが、英語(まあフランス語でもイタリア語でも中国語でも良いけれど)では通せない。質的研究は自分の母語でやるのが常識とされているが、むしろ外国語でやった方が理論の吟味には有用なんじゃないか、とすら思う。質的研究では言葉がとても大事なのだが、外国語で書くと言葉の吟味に厳しくなる。
地方会でもよい症例報告をどんどん出して欲しいと思う。学術的にはケースレポートは一段低く見られているが、そんなことは関係ない。自分の知的作業として価値の高い仕事をしていればそれでよいのだ。他人の価値観なんてどうでもよい。何億もかけて何万人も集めたRCTのほうが知的価値が高いか?と言うと、そいつはどうかなあ。そっちのほうが定型的で、むしろビュロクラッツに任せておいた方が良いのではないかと思う。
それで思い出した。学会と他人の価値観である。先週医学教育学会に行った。学生の発表を見るためだ。なかなか上手にやっていた。神戸大学のチュートリアルはいけてないから、なんとかせんかい、と学生が教員を突き上げたよ、、というプロセスを発表したものだった。平井教授と橋本教授も聴衆に混じっていて、「神戸大学の教育はこんなにいけていない」という学生の発表を神戸大の教員3名が微笑ましく拝聴する、という奇妙な構図になった。
僕が学生のころに女子医で始まったチュートリアル。学生の「講義はつまらん」という意見がそれをドライブしていたのだから、歴史というのは回り回るものだ。
どんなシステムにも賞味期限があり、制度疲労が起きる。ビジネスモデルと同じく、教育モデルにも賞味期限がある。とくに新しい理論ほど長持ちしない。昔ながらの教育方法の方が長持ちする、、、というのは僕らが体得した経験知である。というより、新しい理論は時代の批判に耐えられなくなってどんどん落っことされて、長く続いているものだけが歴史の批判に耐えた、、、という言い方の方が説得力があるのかもしれない。
新発売された抗菌薬をあまり使いたくないように、目新しい教育モデルやビジネスモデルも、あんまり飛びつかない方が良い。みなが飛びつくようなものこそ、外からぼおっと眺めておく方が良いのだ。バカ受けするお笑い芸人は長生きできない。ここ5年ばかりで僕らは「一番流行っている芸人は数年後に消える」ことを学んだ。地味な古典落語を長くやっていた方が、蚊取り線香みたいに長生きできる(かも)。
で、医学教育学会で学生と会話していて、感染症内科は来年はTBLやるんだよ、もうたくさんチューター集めて退屈な診断当てゲームみたいなのはやめますよ、という話をしていた。
TBLでは個人はどう評価すればよいのか?と質問される。
たぶん、妥当な評価方法はあまりないし、それをやろうと思うとすごいエネルギーを使う。評価にエネルギーを大量に費やすのは経済効率が悪いし、日本でもアメリカでも評価にエネルギーを使いすぎると失敗する、というのはおきまりのパターンだから、適当にやるよ、、、と僕。
でも、それではフリーライダーが出て公平性を欠くのでは?と学生
いいのいいの、他人と比べて自分が損してる、とかそういう世界観は20歳を過ぎたら捨てちゃえばいいのだ。他人が楽しようと、それは自分には関係のない話。どのみち、10年もたてばそのような怠惰がその人に復讐するのだ。若いうちの努力、もがきはとても大事で、それはちゃんといつかあなたを裏切らずに戻ってくる。でも、その戻ってくる見返りの事を今考えてはダメだ。見返りなんてゼロでも良いから、今という時間、今という一瞬一瞬に情熱を燃やすしかないのだ。評価される自分のために、未来に大きくペイするために勉強してはいけない。そういう勉強は安くなってしまう。投資としての勉強はつまらない。勉強としての勉強だけに意味がある。自分で自分の品位や価値を下げてはいけない。安売りしてはいけない。そのような孤高の集団になれば神戸大ももっともっと良くなる。
とここまでしゃべったかは覚えていないが、そんな感じ。
世間は夏休みだ。感染症内科も朝のカンファは木曜のMGH以外はお休み。勉強や仕事ばかりしていないで、大いに遊ぼう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。