僕自身の反省もこめて、引用文献について。
引用文献って大事です。何の根拠もなくて、いきなり「○○はなんとかだ」と断言してしまうのは、すくなくとも科学を扱う文章では困ります。日本の診療ガイドラインはときどき、引用文献ゼロとか、ほんの数個ということもあってとても困ることがあります。また、医学雑誌の中には引用文献数に制限を設けているものがありますが、これは基本的には間違った態度だと思います。まあ、4000字の論文に引用文献が750とかあると困りますが、、、、
そうそう、著作権の問題ですが、僕はあまり権利、権利というのは好きではないので、ここに目くじらを立てることを好みません。引用元を開示するのは重要で、「だれがそう言った」と開示すればよいのですが、いちいち許可を取らないと表の引用ができないとか、そういう面倒くさいルールには、少なくともアカデミックな領域においてはちょっとなあ、という感じです。その点、内田樹さんと見解は同じです。僕なら、自分の文献を活用してくれるならとても嬉しいので、承諾なしでどんどん使ってくださいって感じですが。スライドもいちいちコピーライト、なんてけちくさい事いわないで、活用してほしい。ただ、最近はYouTubeとかに流されてしまうと困るので(講演ではやばい話もするので)、録音、録画、写真撮影はご遠慮いただいていますが、、、いやな世の中だねえ。
それに、自分のオリジナルなアイディアも実は多くの人の影響を受けているので、「完全にオリジナルな文章とかアイディア」なんてほぼ皆無でしょう。今僕が書いている文章も、僕がお手本として読みこなしている文章の影響を受け、文体をまねています。原りょうさんの文章がチャンドラーに酷似しているのは有名ですが、あれも確信犯です。でも、要するに作品が面白ければそれでよいのです(目的は、そこですよ)。村上春樹の小説もアメリカの多くの作家の文体にそっくりなのはよく知られています。ポピュラー音楽でビートルズの影響が皆無なものを見つける方が難しいし、そのビートルズも多くの先達の泊利をやっています。とくに、英語論文。僕は英語で書くのがずっと苦手なので、ルーチン化した方法のところとかの文体は先行研究をそのままぱくりたいです。そうしてはいけない理由を思いつかないし、それで研究の内容、価値になにか変化があると考える方がどうかしている。僕は「自分の言葉」にとてもこだわる男ですが、自分の言葉というのはそういう些末な部分の話ではないのです。このへん、目的と手段がひっくり返って形式主義化している。そういえば、アメリカ人って意外に実質主義に見えて形質主義なんですよね。
と話が大きくそれたところで、、、
文献の引用ですが、「何のために」引用しているのかを明快にしないとやや危険です。データの引き回しはもちろんいいでしょう。でも、問題なのは「○○はこういっている」という引用です。「こういっている」の内容が論文にとって妥当なコメントだと明らかならばそれでよいでしょう。でも、○○が有名人な時、例えば、フロイトがこういった、とか孔子がこういったとか、、、中国の格言とかもこれと同じように新書とかでは多用されます。
これは根拠のない正当化ですよね。論文を拡張高くするために使っているだけで、べつに引用しなくても自分の言葉でそうと語れば良いだけなのです。「患者さんの言葉に耳を傾けるのは大切だが」と書かずに、「○○は患者の言葉に耳を傾ける重要性を強調している」と書くと、科学的妥当性をほったらかしにして権威付けしている文章になります。科学論文でこれをやるのは、まずい、と思う(ただし、「患者の言葉に耳を傾けると○○というアウトカムと関連がある事を誰々が示して、、という「内容」に光が当たってればOK)。新書などでやるのもちょっとイヤらしいと思う(ちなみに、これをルーチンで多用するのが天声人語です。先日、○○勲章を受章した人間国宝の××さんによると、、、なんていうと、あまりに人のふんどしで相撲を取っていて、なんかなあ、と興ざめです)。特に、自分の師匠の神格化みたいに使うのはとても危ないときがある。僕もときどきやっているので反省だけど。
ガレノスがこういっている、、、で医学は1500年暗黒時代だった事を忘れてはならん、ということでしょう。
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