秋らしいすてきな青空です。空が高い。空気がきれい。洗濯物を干すのが楽しい、そんな日です。
朝食を作って、洗い物をして、ちょっと車を運転して、車内ではノラ・ジョーンズやバド・パウエルを聴いて、シャワーを浴びて、身支度をして、アイロンをかけて、今日はいつもよりずっと遅めの出勤です。通勤途中でヘミングウェイの短編集を読みます。ヘミングウェイはマッチョなタフな小説家とよく言われますが、実は繊細で女々しくいじいじした小説を書いています。簡潔な文章がそれを巧みに覆い隠しているのですが、決して粗野な、無骨な小説家ではありません。セザンヌのような、と表現される美しい文章は、粗野な精神ではかけないのでしょう。人はすぐに表面的な見かけにだまされてしまうのです。「白い象のような山並みや」「十人のインディアン」などは本当に泣けてくる。「日はまた昇る」もよかったです。でも、あれって原題はThe sun also rises. で、「日もまた昇る」のほうが正しいんじゃないか?とどうでもいいことを考えてしまいました。
言葉について考えています。メッセージは届けなければならない。そのためには自分の言葉を持たなければならない。他人の言葉ではない、自分自身の言葉。もちろん、たいていの表現はどこかいつかで誰かが語った言葉のカーボンコピーに過ぎない、という見方もできるでしょう。たとえそうであっても、そこに自分の魂が乗っかっているかそうでないかは、すぐに聴き手には分かってしまうのです。感染症屋はコンサルタントなので、聴き手に自分の魂を運ばなければなりません。それができなければ、いくらばい菌や薬の知識を持っていても、プロとは呼べないのです。
魂が乗っているか乗っていないかは、見る人が見れば即座に分かります。けれど、「どのようにして魂を乗せるか」という方法は、決して他人には教えられません。自分で気がつくより他ない。それより前に、魂を持たない者はプロである資格すらない。技術的に表面的にこそこそやっても、それはプロでいる資格を与えない。
こういうことって研修医には教えづらいです。師を見るな、師の見ているものを見よ、と口の中でぼそぼそっと、つぶやくしか他に方法がない。
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