僕が「ニッポンの思想」なるものにあまり親近感を抱けないのは、彼らが「今を説明」することに一所懸命だからだと思います。「世の中こうなっているんだよ」という解説者。
今の説明に長けた人は、情報収集と情報処理の上手な人です。そして、「物知り」になる、世知に長けた人になるわけです。ところ、世知に長ければ長けるほど「現在の」世界観の枠が強固になっていき、逆にそれが足かせになって未来へのブレイクスルーが起こせなくなってしまうのです。
出世した企業人のサクセスストーリーを読んで(読んだが故に)成功した人はまれです。ビジネス本は「現在の」成功のしくみを示してくれますが、明日にはそれは旧聞に属する情報やノウハウとなります。「今」の解説者になることよりも、「未来のヴィジョン」を示すことが大事です。
なぜ、未来のヴィジョンが示せないのか。理由は簡単で、「外れるリスク」を背負わないといけないからです。予測が100戦100勝というのはありえなく、必ずいくつかは外れ、負けます。絶対的な自己正当化本能に毒された霞ヶ関では、まず許容しがたいリスクです。
5月に新型インフルエンザが流行したとき、「梅雨になれば湿気が多いからインフルエンザは終息する」と断言された方がいました。実際には終息などしませんでした。香港では日本と異なり季節性インフルエンザの流行は夏冬年2回のピークがあり、湿気が多く、暑くてもやはりインフルエンザは流行します。その原因ははっきりしていません。分からないことはたくさんあり、未来予測は極めて難しい。10年前に今の日本や世界を予見した人はほとんどいなかったでしょう。20年前、1989年7月の時点で、今の世の中を予見できた人はほとんどゼロなのではないでしょうか。というか、翌1990年が来る前に、ほとんどの人がこけていたと思います(でしょ)。
今を説明する人の未来予測は、「今がいいから未来もよい」「今がダメだから未来もダメ」というシンプリスティックな、ほとんど根拠のないものがほとんどです。たとえば、WBCでイチローがスランプに陥ったとき、多くのジャーナリストが「イチロー限界説」を出しました。宮里藍についても同様です。「今を説明できる人」が行う未来予測など、所詮その程度なのです。
未来のヴィジョンを示すには、「今を分かりすぎないこと」「知識ではなく構造を理解すること」「勇気を持つこと」など、多くの要件を必要とします。そして、「間違っていたときは素直に認め、謝罪し、反省し、改善すること」があらかじめ明示されていなければなりません。「私は間違っていない」と主張したその瞬間、その人に未来は開かれていないのです、必然的に。
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